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有鄰


平成11年5月10日  第378号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○インタビュー 永井路子 歴史小説の周辺 (1) (2) (3)
P4 ○ロシア文学は今  水野忠男
P5 ○人と作品  中島京子と『だいじなことはみんなアメリカの小学校に教わった。』   藤田昌司

 インタビュー

永井路子 歴史小説の周辺 (3)


 

  ロートレックと同門だった義松がパリで得たのは何か


永井 もうちょっと脱線すると、名作の「操芝居」の絵の中に子供を抱いた女性がいる。 これが義松との間に生まれた子供を抱いている彼女ではないだろうかというのが横田さんの推理で、 なるほどと思ったわけです。 ほかのデッサンを見ると、これと同じ服装をした女性が赤ちゃんにお乳をやっている「西洋母子像」があるんです。

  そうすると、これは大体間違いないだろう。手紙がこれについています。 これが非常に貴重で、父あてに「ピヤンセーを仕候」とか何か書いてある。 ところが、こっちで許さない。それで涙ながらに別れて帰ってくる。

  それからもう一つは、油絵の流れとして、アカデミックなものがすたれて、 次の黒田清輝あたりになると絵が全く変わってしまい、ヨーロッパで習ってきたものが全く無視され疎外されていく。 こういうことによって酒におぼれ、晩年は非常に不幸だった。

  その彼がパリに行ったときは、ゴッホもパリにいたはずだというのが私の推理です。 それからもう一つ、ボナに習っている。 ところが、ロートレックが同じボナについている。 ロートレックは浮世絵に心が引かれている。 それからゴッホだって、どこかで会っていれば、交流ができるはずなのに、全くかみ合わない。 だから、義松は何もそういう ものは持ってこない。どうい うことなのか。

  外国の何を見て何を見なか ったか。空海の場合と似てま すが、外国との接触とは何だ ったか。

編集部 義松の絵は、ワー グマンに習って、それで大体 完成してしまって、パリでボナに習ったからと いって余り変わっ ていないですね。

永井  ええ。日 本人としては最初 に水彩画でサロン に入選してます。 すごいお金を持っ てパリにいったの に、たちまち貧乏 になり、「すってん てんと相成申候」 という手紙もあり ます。これは一体どういうこ となのか。それと歴史という ものが動いていく。その中で 接触したり離れたりしていく 人間の運命、明治初期という 歴史の中での義松を考えると ちょっと興味がある。

 

  明治初期に 油絵をかいていた 渡辺幽香


永井 義松の妹については 横浜美術館の猿渡紀代子さん にお世話になっていますが、 名前の勇子を号にして幽香に した。後で渡辺文三郎と結婚 します。幽香は、義松が油絵 を習うのがうらやましくて、 「自分もワーグマンの所に連 れていけ」とか「どういうふ うにかくの」といっている。 そしてかいた「幼児図」とい う油絵が横浜美術館に所蔵さ れています。

編集部  この絵は一八九三 年のシカゴ万国博に出品され たことがあるそうですね。

永井 そのときに女性だけ のパビリオンをつくった。つ まりフェミニズムの時代だっ たので。日本から出たのがこ の油絵です。だから、明治初 期に女の人が油絵をかいてい た。その幽香の娘の一人が母 のさきの兄と結婚しているの です。何でそういうことにな ったのか、聞き忘れたこの悔 しさ。母の兄はまったくの堅 気で、後に銀行の頭取になり、 その人の奥さんが幽香の娘で すが、絵は全然かかない。

編集部  部幽香の夫の渡辺文 三郎も画家でしたね。

永井 はい。絵かきという より、一高の絵画の教授です。 うちに幽香さんも入っている らしい写真が一枚あり、幽香 と文三郎、そしてその娘たち。 その娘をもらった井上定次郎 も黒板さきも写っている。


河鍋暁斎─西洋に屈しない


編集部  もう一人の河鍋暁斎(かわなべきょうさい)のことですが、なぜ興味を持たれたのかということから。

永井  生まれたの が私のうちの近所だ ということがわかっ たんです。古河にい るのは本当の赤ん坊 のときで、すぐ江戸 に出るんですが、そ れでもそういうことを知って いる郷土史家の方がいて、こ こに暁斎が生まれたという碑 を建てたり、暁斎のコレクシ ョンを持っていた。

  私は「おじさん、おじさん」 と、その方の所によく遊びに 行ったんですが、「これは暁 斎」なんていって教えてくれ たりしていたから、興味を持 ったんです。

 

鹿鳴館をつくった コンドルが 暁斎に入門


永井  そして鹿鳴館をつく ったジョサイア・コンドルが 暁斎の絵にほれ込み、入門し ます。英国人だというので、 暁の字の下に「英」をつけて 暁英という名前までもらい、 カラスの絵なんかをかいてい る。暁斎は外国人に対して、 へいこらしていない。そうい う接触の仕方をした時期があ ったことは実に面白い。暁斎 を中心にちょっと考えてみた いという思いがあります。

  その後の人は、外国に行く と外国崇拝になって、フラン ス人になりたいぐらいになっ て帰ってくるとか、そういう 人が多い。例えば永井荷風だ ってフランス様様だし、その 中間にあるのが漱石で、外国 との接触に非常に悩む。

  しかも、暁斎は非常に貪欲 に、コンドルからも学んでい る。『暁斎画談』の中にもあ りますが、西洋画の描き方と か骸骨とか、そういうものの 知識を西洋から得て、しかも 裸体画をかいて、それに着物 を着せる感じでかいていった りする。だから、非常に熱心 に西洋のものを受け入れます が、決してその前でひざまず いてない。それが暁斎が後で 外国人に評価されるもとみた いです。

  しかし暁斎も忘れられる。 宿命としては五姓田義松と同 じですね。彼は浮世絵をかい たり、狩野派ふうのものや、 幽霊や百鬼夜行のような変な ものをかいたりしている。

  そんなのはだめだというこ とで横山大観風の芸術的な日 本画が出てくる。それに面白 いのは、フェノロサとかが関 係してくるんでしょう。

編集部  岡倉天心、フェノ ロサあたりの考え方と、江戸 の歌川流の浮世絵師の絵とは 違ってくるわけですね。

永井  ちょうどそのはざま にいて、暁斎はその意味では 正統に乗り得なかった。でも、 天心が、美術学校の先生にな ってくれと河鍋家に頼みに来 たという話はあるんですよ。 結局、体を悪くしてそれはで きなかったというんですが、 もし、実現していたら面白い 話がでてくるんじゃなかろう かという気がする。
 

明治初期の女性は なぜ、一度花が咲い たのにしぼんだか


編集部  そこで先生の、外 国文化との出会いの中で、見 えてくる日本人像とは、どん なものなんでしょうか。

永井  うまく結論が出ませ んが、つまり、非常に影響さ れやすい面もあるけども、一 方、そうじゃなくて、怖いも の知らずみたいな、暁斎みた いなつき合い方もある。けれ ども、それが案外忘れられて いるのは、どういうわけなん だろうと。一種の問題提起で 終わってしまって、結論は出 ませんけど、そういうことを まとめておきたい気がするん です。

 これは出版するとき、書き 直して入れようと思うんです が、暁斎には暁翠という娘が いて、いい絵をかいています が、この人も消える。渡辺幽 香も消えてしまう。そういう ふうに明治の初期に活躍した 女流画家がなぜか消える。

 この春、古河の歴史博物館 で暁斎展をやりまして、暁翠 の作品も展示されました。き れいな美人画ですが、この人 は女子美術学校の創立のとき に先生をしている。しかも暁 翠は「うちの子供たちは絵筆 を持つな」といっている。そ れが遺言だった。でも、渡辺 幽香の場合と同じように貴族 や華族とかを教えて回って生 活は楽だったらしい。

 つまり、明治初期の女性史 を書くときには、一度花が咲 いてしぼんだ。これは何でか ということを書かないといけ ませんね。それが終わってか ら、平塚らいてうなんかがも う一度出てくるんです。


展覧会は私の総決算─初めて明らかにする実母のこと


編集部  鎌倉文学館の展覧会 で、先生の生い 立ちが紹介され ていますね。

永井  これが 最後だと思いま すので。私は生 きているうちに 展覧会なんてす べきではないと 思っていたんで すが、鎌倉市か らお話があり、 もう身に余る幕 引きになりまし た。ある意味で は、私も最後の 時期に近づいて おりますので、 総決算として、 恥ずかしいけど 見ていただこう という気持ちが しております。

 それで、私の 小説には全く関 係がないことで すが、私の生い 立ちというか、 そんなに波瀾万丈なわけでは ないんですが、私には実の父 母と戸籍の父母がおります。 戸籍上の家は旧姓永井、私は その永井をペンネームにして いるわけです。

 古河のしがない町人なんで すが、江戸時代から続いてい る家で、当主に子供がいなか ったから、その当主の姉に娘 が一人いて、それが跡を継ぐ ことにしていた。

 それが結婚することになり まして、それではその間に生 まれた第一子は、永井の当主 のほうの籍に入れるというこ とが、私の生まれる前から決 まっていました。それで私が 第一子だったので永井の籍に 入ったわけです。

 

実母をお姉ちゃんと呼んでいた


永井  私の実の母親という のは、永井の当主の姉の子で 永井智子といいます。彼女の 母親は、非常に不幸な結婚を して結局離婚し、娘を育てる のを唯一の楽しみにして生き ていた。それで自分が結婚生 活がうまくいかなかったとき に、一番痛感したのは、女に 生活力がないということ。

 だから、この子は自分で生 きていけるように育てなけれ ばというのが、母親の信念だ ったようです。智子は少し歌 がうまかったので、この子は 歌うたいにしようというわけ で、女学校から東京に出て、 音楽学校に入れた。

 そのときに近くにいた帝大 生が英語を教えてくれた。こ れが私の父親です。あのころ は帝大を出たということは大 変なことですから、娘の母親 が「この人に限る。結婚させ る」と。彼は、次男ですけど も、当時は 帝大を出た 息子を、お 婿さんには やりません よ。娘のほ うはひとり 娘だし、お 嫁さんにはやれない。だった ら、それでおしまいかという と、それはそれとして、生ま れた子供はとにかく初めは永 井の籍に入れる。その先は、 また考えようと。とりあえず 結婚させようと。

 ところが、私が生まれてか ら数年後に、父親は死ぬ。来 島清徳といいますが、私は父 親の顔を知らないんです。で も古河では、私が永井智子の 娘だと知っている。そのころ は東京に住んでおりましたか ら、古河では、父親は誰だろ うと思っている人も多いらし いので、今度の展覧会では、 両親の結婚写真を出すことに しました。

 しかも、私は初めから永井 の当主夫婦をお父さん、お母 さんと呼んで育っていました から、永井智子は親という感 じがない。お姉ちゃんと呼ん でいました。

 

  永井荷風のオペラ 「葛飾情話」の 主役を演じた実母


永井  それで、智子は夫が 死んだ後、いろいろ波瀾万丈 があり、二度目の結婚もあま り幸せではなかった。結局、 母親がいったとおり歌で身を 立てる。ムーランルージュと か、エノケン(榎本健一)と か、オペラ館とかで歌った。

 そのオペラ館で歌っている ときに、永井荷風と作曲家が オペラをやろうと思ってやっ てきた。それで運をつかむ。 「葛飾情話」というのが永井 荷風のオペラで、浅草でやっ たんですが、これが大人気で、 そのときに主役をやったのが 実母の智子なんです。

 その「葛飾情話」の作曲家 である菅原明朗と智子は結ば れます。智子も菅原も、家庭 を捨てたのです。

 それが戦後なら、週刊誌ダ ネになって騒がれるくらいで すむんでしょうけど、戦前で すから、いろんな所から総ス カンを食って、菅原も落ち目 になったり、智子もうまくい かなかったりしますが、とに かくずっと続いた。

 永井荷風とのつき合いもあ ったようです。永井荷風の偏 奇館が昭和二十年三月十日の 空襲で焼け、身一つで逃れて くるのが、菅原と智子のいた 中野だった。それで、菅原の ふるさとである明石に三人で 行く。そこでも空襲にあい、 岡山に逃げる。

 荷風の『罹災日録』を見る と菅原と智子が出てくる。戦 災で二度も三度も焼かれ、両 方険悪になって、戦争が終わ ったら別れると、永井荷風が 『罹災日録』に書いている。 二人のけんかがうるさくてし ようがないとか。(笑)

 でも別れもせずに、永井智 子はゲルハルト・ヒッシュが 戦後最初に来たとき、モーツ アルトの「魔笛」で、三人童 子のアルトを歌っています。

 若いときには私も、智子と の間にも愛憎の思いがありま した。智子 は初めは一 緒に住んで いるんです が、二度目 の結婚をし て出ていっ た。

 それで祖母が私を連れて古 河に戻り、古河の生活が始ま る。みんなにかわいがられる んですけど、状況が何となく おかしい。ですからその中で 私はわがままで意地悪の限り を尽くすの。当主の弟の三郎 (大叔父)が、そのころの私 の成長ノートを四冊ぐらい書 いています。それを見ると、 子供のいやな面というのが実 によく書いてある。

 この大叔父は文学趣味があ ったから、私は精神的影響を 一番受けている。小学四年生 のときに『テス』を読めとい う。見ても面白くない。「まだ だめか」といってみたり、こ の手は楽譜を持つ手か、万年 筆を持つ手かとかいう歌をつ くっています。普通の奥さん になること以外を期待してい るんです。

 

  『茜さす』には著者の生い立ちも投影


編集部  『茜さす』という 作品には先生の生い立ちも投 影されているようですね。

永井  あれは壬申の乱を書 くためのものですが、そうい うものが投影していることは 事実です。でも、モデルとい える方は別にいます。ただし 偽りの関係が続くということ に対する一種の息苦しさはあ の中に出ていると思います。

 新聞連載で『茜さす』の挿 し絵をかいた川崎鈴彦先生は 川崎小虎画伯のご令息なんで す。今度、古河の文学館に作 品を少し寄付してくださる。

 この間、銀座で展覧会をな さいました。挿し絵とは思え ない一つ一つの作品としてか いておられる。その中で私も 数点買わせていただいて、鎌倉文学館に寄付することにしましたので、ご覧いただける と思います。

編集部  長時間、ありがとうございました。





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