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平成13年4月10日 第401号 P1 |
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目次 | |
P1 | ○なぜ横浜県ではなく神奈川県なのか 樋口雄一 |
P2 P3 P4 | ○座談会 海へのロマン (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 磯貝勝太郎と『司馬遼太郎の風音』 藤田昌司 |
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なぜ横浜県ではなく神奈川県なのか |
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他府県とは違う経過をたどった神奈川県
現在のような都道府県制になったのは、明治新政府が成立した慶応四年(一八六八)当初からではなく、地方制度 をつくり上げるまで、幾度かの試行錯誤を経て成立してきた。基本的な制度は明治四年(一八七一)七月の廃藩置県 によって決められたと考えてよいが、この時点ではすでに神奈川県は成立して数年を経ている。 神奈川県については、県名が付けられた由来を説明した資料は少ない。それは、慶応四年・明治元年(一八六八)に かけての新政府の体制を整える過程で県名が付けられ、当時の文書上で確認できることが少ないためである。 神奈川県の県名の由来については、『神奈川県史 通史編4−(1)』(一九八〇)で、大久保利謙先生が国立公文書館や 東大史料編纂所等のイギリスの領事報告書、横浜裁判所総督(初代知事)の東久世通禧(みちとみ)日記などをもとに述べられている。 これらをもとに神奈川県名が付されるまでの経緯を述べてみることにする。 小田原藩があった小田原は明治四年七月の廃藩置県で小田原県になったが、旗本領が中心であった横浜周辺地域は、 神奈川奉行所を置いて外国事務と地域行政を行っていたので、神奈川奉行所の存在が県名由来の第一の理由になっても おかしくないのである。 ところが、神奈川県は明治新政府の支配が始まる慶応四年三月十九日(以下、日付は旧暦)に東久世通禧が横浜裁判所 総督に任命されてから、いくつかの変遷を経て明治四年七月十四日の廃藩置県にたどりつくまで、他の地域とはまったく違う 経過をたどることになる。新政府成立後、半年間に少なくとも四回、名称が変わった。それは神奈川が開港場になったことに よるものであった。 諸外国と締結した条約上の開港場が神奈川であったため
幕府は同様の条約を各国と締結しており、外国に開かれた土地としての外国側の認識を重視したものと思われる。 幕府は、神奈川奉行所を置いて開港に備えることになった。神奈川は良港であったが人家も多く、東海道筋で往来する人も あり、攘夷派から外国人を守るには警備しにくい場所のため、幕府は急遽、三方を海で囲まれていた戸数百戸前後、半農半漁の 横浜村を開港場として候補にあげた。 諸外国の反対を押し切って幕府は強引に、「横浜は神奈川の一部である」として横浜村を開港場にし、野毛村に神奈川奉行所を 置いて、開港場の管理にあたった。こうして日本人の間では「開港場は横浜」という認識が広まったのである。当時、横浜村へは 神奈川宿の神奈川港から船で行くのが一般的であった。 明治政府成立直後に「横浜県」と慣用的に呼ばれた時期も 幕府が慶応三年(一八六七)に大政奉還を行うと、新政府は神奈川奉行所から事務を引き継ぎ、慶応四年(一八六八)三月十九日に 東久世通禧が横浜裁判所総督に任じられた。このときの裁判所は行政機関をさしており、機能は県庁と同じであった。 東久世は新政府を代表する外交責任者で、外国事務取調掛として、横浜裁判所総督になる直前の二月には兵庫で 外国公使と会見し、王政復古の国書を渡した。日本が開国し、新政府ができた要因は、外国からの圧力によるところも 多く、外国との窓口を重視していたことは東久世の就任に象徴的に現れているのである。 一か月後の四月二十日に、神奈川裁判所が新たに設置されたことが各国公使に通知され、四月二十二日に東久世横浜裁判所総督が 神奈川裁判所総督に任ぜられている。
したがって、短期間であったが、慣用的に横浜県と呼んでいた期間があったと思われること、神奈川府となったのは維新政府の新たな 指示によることが明らかである。 なお、横浜県の名称については、地元に出した公文書をまとめた「御用留め」などのなかでは使われた証拠がまだ見つかっていないこと、 この期間が短期間であったこと、この時期の「官員録」が必ずしも資料として正確でないことなどから、慣用的な形で使われていたものと思われる。 間もなく維新政府は具体的に地方制度の確立を考え、全国に府藩県を置いた。京都、函館、大阪、東京、神奈川、奈良、新潟などに府がおかれた。 神奈川府は六月十七日に改称された。神奈川府知事は東久世で、寺島宗則と井関盛 が判事として事務を行った。 この神奈川府が、政府行政官からの通達で明治元年(一八六八)九月二十一日に県となった。この時点で政府は府を東京・大阪・京都の三つに 限定する方針で府・藩・県という三治制が成立した。正式な神奈川県名の成立である。 明治四年に廃藩置県が行われるまでは、現在の神奈川県域には小田原藩、六浦藩、荻野山中藩などが存在していたので、 この時点では藩と県の二つの制度が混在していたことになる。 外交的に重要な役割を担っていた神奈川県は筆頭県に 東久世は神奈川府知事の他に政府の外国官副知事を兼務しており、神奈川県の成立と同時に寺島宗則が神奈川県の「知県事」に就任した。 寺島は幕府の蕃書調所の教官を勤め、薩摩藩の遣英特使に参加した外交通の一人であった。その後の神奈川県知事も、 井関盛、陸奥宗光、大江卓など外交通の人物が就任し、新政府下の神奈川県も外国との交渉が大きな業務の一つであった。これも神奈川と いう名を継承して使うようになった一因と考えられる。 このように、神奈川県名の由来は外交的側面がきわめて強く作用していたことがわかる。外交的に重要な役割を持っていたことから、府県制度が 確定すると、神奈川県が各県の筆頭県として位置付けられるようにもなった。 明治四年の廃藩置県で現在の神奈川県域には神奈川県・六浦県・荻野山中県・小田原県が誕生したが、同年十一月に六浦県は神奈川県に、 荻野山中県・韮山県は足柄県に統合された。さらに明治九年に足柄県が分離し、現在の静岡県以外の地が神奈川県に統合された。 当時は多摩三郡を含む大県であったが、明治二十六年に多摩三郡は東京に移管され、現在の県域になった。 |
ひぐち ゆういち |
一九四〇年瀋陽生れ。 |
神奈川県立公文書館勤務。 |
著書『戦時下朝鮮の農民生活誌』社会評論社3,990円(5%税込)ほか。 |