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平成16年8月10日 第441号 P1 |
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○特集 | P1 | 横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱 半藤一利 |
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○座談会 | P2 | あれから60年
横浜の学童疎開 (1) (2) (3) 大石規子/小柴俊雄/鈴木昭三/ゆりはじめ/松信裕 |
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○人と作品 | P5 | 熊谷達也と「邂逅の森」 |
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半藤一利氏 |
無条件降伏を不服とし、反乱を企図した人々 |
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昭和20年夏、といってもピンとこない人が多くなった。 近頃の若い人ほとんどが西暦を使っている。 昭和20年夏はつまり1945年夏、いまから59年も前の遠い昔のことになる。 この間ずっと平和の空気だけを満喫している若い人たちには、アメリカをはじめ世界の国々を敵として、日本人が3年7か月以上も戦った太平洋戦争のあったことなど、信じられない夢物語ということになろう。 その年の8月、東京も横浜も、米空軍のB29の爆撃により、見渡すかぎりの焼野原になっている。 敗北は決定的となっている戦闘であったが、やせ衰えた人々は、その瓦礫の上で眼だけはギラギラと光らせ、なお”徹底抗戦あるのみ”と闘志をみなぎらせていた。 しかし、昭和天皇の強い意思表明もあり、日本政府は14日昼には御前会議の決定にもとづき、降伏によって戦争を終結することをひそかに決定した。 そしてそのことを天皇じきじきのラジオ放送を通して、翌15日正午に国民に知らせることに決めたのである。 が、その事実が外に漏れ、「神州不滅」を信奉する人たちが、無条件降伏を策する腰抜けの政府をぶっ倒して徹底抗戦を貫かんと、ここかしこで反乱を企図してひそかに行動を開始した。 そしてそれらは14日の夜から15日の夜明けにかけて、東京周辺の各所で火を噴いたのである。 近衛師団の宮城占拠事件、神奈川県厚木の海軍航空部隊の反乱、民間右翼の内大臣襲撃事件、少壮参謀の皇太子奪取構想、埼玉県児玉の陸軍航空部隊の不穏行動。 そしてそのなかに、佐々木武雄大尉を隊長とする兵ならびに横浜高工(横浜高等工業学校、横浜国立大学工学部の前身)の学生たち「国民神風隊」による首相官邸ならびに私邸への襲撃があった。 これらの騒乱が、同時多発的な暴発であったか、それとも統一的な構想の下にあったものかどうか、それははっきりしてはいない。 また、歴史に「もしも」は許されないけれど、もしこれら騒乱の、全部とはいわない、いくつかが成功したら……。 はたして戦争終結がスムースに行われたかどうか。 日本の運命は危機一髪、終戦が累卵[るいらん]の危うきにあったことだけはたしかなのである。 しかし、まさに真夏の夜の夢、すべては空しく消えた。 いまになってみれば、ヘエー、そんなことがあったの?というはるかに遠い世の昔ばなしにすぎなくなったのであるが……。 |
「国民神風隊」を編成し、首相官邸を襲撃 |
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「国民神風隊」隊長の佐々木武雄は当時40歳、横浜高工建築学科の第一回卒業生で、在学中は応援団長として有名であり、若いころから国粋主義者としても横浜周辺で顔が売れていたという。 横浜高工の初代校長の鈴木達治の娘と結婚し、戦争中には鈴木をかついで母校の学生を糾合し、必勝学徒連盟を結成した。 その闘志むきだしの親分的な魅力で、多くの学生の信望を集めた。 敗戦の夏、佐々木大尉が隊長であった東京警備軍横浜警備隊は鶴見の総持寺裏にあった。 そこには一個大隊が常備されていた。 徹底抗戦を説く佐々木は、いざというときにはそれに非常呼集をかけ、首相官邸を襲い、閣僚を全員逮捕し、降伏を阻止しようという計画をたてていた。 しかし、肝腎のときになって、ほとんどの部下にそっぽを向かれてしまう。 佐々木は躍起になった。 そして14日の夜までに、やっと軽機関銃をもつ一小隊の説得に成功する。 さらに勤労動員で川崎の軍需工場で働いていた必勝学徒連盟の、横浜高工応用化学科三年の学生5人にも、決起への参加を求めた。 「情けない重臣どもが自分の生命を惜しむばかりに、日本を滅亡させようとしている。 われわれの美しい祖国を滅ぼしてはならない。 政府の発表があった後では万事休すとなる。 危急存亡の秋だ。 民間人にも是非にも参加してもらいたい」 こうして首相官邸襲撃部隊が編成され、「国民神風隊」と名付けられる。 この反乱部隊の一連の行動について、のちに憲兵司令官陸軍大臣に提出した報告書(憲警400号)にこう記されている。 少々読みづらいが、かえって当時の雰囲気が察せられるので、そのまま引用することにする。 「佐々木武雄予備役陸軍大尉は、横浜市鶴見区東寺尾町興国中学校付近に残留し居たる旅団司令部残務整理員ならび農耕隊の指揮官として七月中旬より服務中、八月十五日午前一時頃(推定)非常呼集を実施し、……浜崎軍曹以下約二十名を引率、……戒厳警備のため東京に出発する旨を通達し……、自動車二台に右兵員ならびに学生五名および相識の地方人三名、断部隊兵約四名を分乗せしめ、かつ重油缶十缶を積載し、かつ自身および地方人一名は乗用車一台に搭乗、四時三十分頃に首相官邸付近約二百米の箇所に到り下車、官邸構内に侵入し、軽機をもって玄関付近に対し約二十発射撃し、さらに学生等を指揮して官邸玄関内に侵入し、重油散布の上、これに点火、退去し、同所絨毯を若干焼き、ついで五時三十分頃、前同様の方法を以て、小石川区丸山町鈴木当時首相私邸に放火し、焼上せしめ、次いで七時頃前淀橋区西大久保在平沼男爵邸に放火の上、焼上せしめて退去せり。 ……」 これでもわかるように、決起はあまり手際よくはいかなかった。 何やら終戦という大ドラマのなかのやや喜劇じみた間奏曲といったもので終わった。 まず、延々と閣議がつづけられているであろうとの佐々木大尉の推測は、まったくの的外れ。 首相官邸には閣僚の影すらもなかった。 しかし、官邸に突入したとき、官邸護衛の巡査が佐々木にささやいたという。 「あなた方のお考えに同感です。 君側の奸は葬るべきです。 首相はいま丸山町の私邸に帰っている。 あちらを襲撃するといい」 そこで佐々木たちは私邸へと車を走らせた。 が、彼らが到着する直前に、危機を知らされた鈴木貫太郎首相夫妻たちは、あたふたと逃げ出しており、ほんとうに間一髪のところで助かったという。
しかし、空襲にも焼け残ったその家は、主が去ったあとで火をつけられ燃え上がった。 すぐに消防自動車がかけつけてきたが、目の前に突きつけられた機関銃には抗しきれなかった。
屋敷はだれもが手をこまねいて見守るなかで、みるみる焼け落ちてしまった。 |
警視庁へ出向いた学生たちは逮捕され5年の実刑に |
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すべての反乱はむなしく空を切り、8月15日正午、天皇放送はつつがなく日本全国に流れる。 平和が戻ってきた。 襲撃を終え、いったんは鶴見にもどっていた佐々木と学生たちは、夕刻になり、九段の憲兵隊司令部に出頭することにした。 ところが敗戦による憲兵隊司令部の情況は火事場のような大混乱で、彼らを取り調べるどころのはなしではない。 若い憲兵中尉がでてきて、「諸君の精神には大いに共鳴するところがある。 とがめるところはないから、このまま原隊へ帰ってくれ」と、逆になだめられるようにして追い払われる始末。 そこで学生と兵隊たちは全員で、司令部の前で「天皇陛下万歳」を三唱して引き上げることにした。 ところが、妙なことがここで起こる。 万歳を叫ぶ直前に、警視庁から「民間人だけはちょっと来てもらいたい。 話を聞きたいから」という申し入れを受けていた。 そこで学生たちは「面白い話を聞かせてやろう」と勇んで警視庁へ出向いていき、そのまま逮捕されてしまったのである。 しかも裁判の結果、5年の実刑が言い渡されたというではないか。 5人はお蔭で千葉刑務所で敗戦後の1年半を暮らすこととなり、やがて学生たちは出所する。 が、そのときには、リーダーの佐々木元大尉の姿は完全に消えていた。 大尉は放火の法廷時効を迎えるまで15年間も地下に潜っていたという。 わたくしが『日本のいちばん長い日』を書くために、取材でインタビューしたときには、佐々木元大尉は大山量士[かずし]と名乗り、生まれ変わっていた。 名刺には「亜細亜友之会[あじあとものかい]」事務局長とあり、アジアの留学生の世話と交流のために大変な活躍をしていたのである。 「社会に復帰したとき、その足で鈴木首相のお宅(昔のところに新築されていました)を訪ねて、首相は亡くなっていたので、首相秘書でもあった息子の一[はじめ]さんに私邸襲撃のことでお詫びしました。 すると鈴木さんは『あんなことでもしなければ、腰抜けと思われたでしょう。 まあ、いいじゃないですか。』と逆に慰めてくれました。」 そう言ってニコニコした顔からは、アジアの留学生たちに「オヤジ」と呼ばれ親しまれている優しさが溢れ出ていたのである。 |
半藤一利 (はんどうかずとし) |
1930年東京生まれ。 歴史研究家・作家。 著書:『日本のいちばん長い日 [決定版]』 文藝春秋 1,650円(5%税込)、 『昭和史 1926竏1945』 平凡社 1,680円(5%税込) 他多数。 |
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