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有鄰


平成11年11月10日  第384号  P5

 目次
P1 P2 P3 ○100年前の横浜・神奈川 (1) (2) (3)
P4 ○俳句は悲しみを唄えるか  西村我尼吾
P5 ○人と作品  入江杏子と『檜一雄の光と影』        藤田昌司

 人と作品

モデルがつづる”もう一つの『火宅の人』”

入江杏子と檜一雄の光と影
 



  文学に誠実に生きた檀一雄の凄絶な人生

 戦後文学に彗星のような燦然とした光芒を引いて消えた浪曼派作家・檀一雄が没して早くも二十四年。 妻子をもちながら一人の女性を命がけで愛してしまった凄まじい人生の文学『火宅の人』は、今も多くの 読者に読み継がれている不朽の名作だが、このほど刊行された入江杏子さんの『檀一雄の光と影』(文藝春秋)は、 そのモデルがつづる“もう一つの『火宅の人』”だ。一読、ついに書いた、という感慨を禁じ得ない。

入江杏子さん
入江杏子さん
 〈檀一雄が亡くなって二十年経って、私は『火宅の人』を最初から丁寧に読み返してみたのです。(中略) 私の青春のすべてであった恋が、破局に向かってゆく道程をもう一度たどるということは、やはり辛いこと でした。でもたどるうちに知らなかった事実、気付かなかった彼の心が、次々に目の前に現出してゆくのです。〉

 〈彼は亡くなっています。それならばある時期、共に生きたことのある私が感じたことを、檀一雄が自分の 文学に誠実に生きるため突進して行った凄絶な人生を、ほんの一部でしょうが、私が理解している面だけでも、 書いておかねばならないのでは……、『火宅の人』の登場人物の一人である私にも、書かねばならぬ責任が あるのではないかと思ったのです。〉

 入江さんが「プロローグ」でこう語っていることからも本書を書いたのは四年前に刊行された沢木耕太郎 の『檀』が引き金になっていることは明らかだ。『檀』は徹頭徹尾、檀一雄の妻の立場で書かれていたからだ。 だが、入江さんは、そのことについて話そうとはしない。

 「ただ、(あの本を読んで)檀さんってひどい人ネ、と言う人がいると、そんな人じゃないわヨ、と言って やるんです。檀はもう死んじゃって自分じゃ言えませんから、本当はそんな人じゃないって、私が代わりに 言ってあげたかったんです」

  恋の破局に結びついていった二人の乱闘

 当然ながら、檀一雄の『火宅の人』と、入江さんの『檀一雄の光と影』にも幾つかの大きな食い違いがある。 『火宅の人』は最初の章からいきなり恵子(入江さんのこと)との情事に突入するが、『檀一雄の光と影』では、 終戦直後、中国戦線から引き揚げてきた檀との福岡での出会い、その後上京して、作家と女優の卵としての 交流などの時代から書き起こされている。

 とくに顕著な相違は、入江さんの、もう一人の男性の噂についてである。『火宅の人』によれば、檀一雄は アメリカの財団に招かれて欧米旅行に出かける直前、入江さんは右翼の大立者島村剛の思われ人だから手を 引いた方がいいと忠告され、外遊の間じゅう憂悶することになっている。島村は元満州の馬賊で、 「夕日と拳銃」のモデルとして檀一雄も親交があった。

 「全くのデマで、出どこは一人なんですが、それが何人かの耳に伝わって、二、三人の人から言われたために、 檀も本気にして、本当に悩んでしまったんですね。私はそんな大事件とは少しも思わず、ハハハと笑って おしまいになることだと思っていたのです」

 帰国後間もなく、この件が蒸し返される。ここは『火宅の人』から引用しよう。

 〈恵子がこの時ほどにくにくしい怨恨の鬼相を呈したことはない。(中略)ジロリと見上げ/「サッサと、 石神井(注、自宅)に帰ってしまったらどう?」/この時、私が何をわめき、何を言ったか覚えていない。 気がついた時には、恵子をひきずり起し、とっては投げ、とっては投げていた。掻爬後まもない女の体だなどと いうようなことは、考えてもみなかった〉。

 この乱闘で檀一雄も肋骨を折る重症を負った。そしてこれが、激しい恋の破局に結びついていくのだ。 以下は、入江さんの『檀一雄の光と影』から──

 〈……この乱闘は突如起こった争いではなく、そうなる下地はあったのです。/酔って帰った彼は、私が 投げつけた言葉に逆上して、また島村氏のことを持ち出しました。(中略)あの美しかった日々はどこに 行ってしまったのか?〉

 その後の修羅場は『火宅の人』とほぼ同じだ。〈その翌日彼は姿を消しました〉。「愛は終わった」と 入江さんも思うのだ。

 入江さんはその後、演劇人として劇団「民芸」の舞台に専念する。ゴーリキーの『最後の人々』、 ハケットの『アンネの日記』、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』その他の舞台で大役をこなした。 一昨年クモ膜下出血で倒れたものの、全快し、後遺症もなく、再び舞台に立っている。 「私は”風“に恋したのです。青春の一番いいところを檀に捧げました」。老いてなお花のある豊かな表情 はその充実感のせいか。
1,600円(5%税込)。

(藤田昌司)


(敬称略)


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