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平成14年10月10日 第419号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 鎌倉大仏建立750年 (1) (2) (3) |
P4 | ○自由民権の里・平塚市南金目 大畑哲 |
P5 | ○人と作品 井上荒野と『ひどい感じ 父・井上光晴』 藤田昌司 |
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座談会 鎌倉大仏建立750年 (2)
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使われた銅は宋銭ではなく、塊を国から輸入
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福田 |
それで、実際に出てきた銅の破片などを成分分析してみたんです。
昭和三十年代に大仏の台座を修理したときに、東京国立文化財研究所が大仏の銅の成分分析をやっています。その頃の資料しかないんですが、今回出土した銅の破片も、それとごく近い値でした。それから銅に含まれている鉛の分析から、中国の華南産の銅が使われているだろうということまではわかってきました。 大仏は鉛が多いと言われ、宋銭を鋳つぶしたとか、よく言われていますが、宋銭には一個一個の品質に結構ばらつきがありますので、そういうものを鎔かしたのではなく、塊として中国から輸入したものを使っているんじゃないかなと思います。 |
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鎔かした青銅を四十回ぐらいに分けて流し込む
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編集部 |
今のお話で、大仏の周辺の地層が斜めに堆積しているということですが、これは鋳造していくやり方と関連しているわけですね。
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清水 |
それが十一メートル以上ある大きな像ですから、一遍に型をつくることができないので下から何段にも分けて外型と中型を置き、それに流し込み、また固まった段階で、その上に型を積んでもう一回流し込む。大仏は段から言うと八段になるわけですが、 実際は恐らく四十回ぐらいに分けて鋳込んでいるはずです。 |
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編集部 |
同じ段でも前とか後ろを別別に型をつくっているからですか。
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清水 |
そうですね。八段ですが、一段をいくつかに分けて鋳込みますので。
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高橋 |
それに携わる人たちで、鋳物師とかは、一回につき何人ぐらいがかかわっているんですか。
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清水 |
全くわからない。鋳物師は別にして、原型をつくる人、型をつくる人、木を切る人、運ぶ人、鎔かす人、鋳込む人がいて、ものすごい人数でしょうね。
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編集部 |
型自体は何でつくるんですか。
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清水 | 真土(まね)型と言って、粘土に近い鋳型用の土をふるいにかけて細かくし、それを焼いて固めてつくるんです。そしてその中に流し込む。型はある厚みしかないので、それを固定しなければいけない。固定するには、もちろん木も使ったでしょうが、外型を押さえるために土で固めるというのが基本的なものでしょうね傾斜している土の堆積が発見されたというご報告で、まさにそういう技法でつくられたのかなという思いはあります。
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原型を近くに置き、そこから型をとって鋳造
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編集部 |
清水先生がおっしゃった真土型の遺品は出てこなかったんですか。
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福田 |
できた後、そういうものは全部壊してしまいますから。今回見つかった斜めの堆積も、結局、つくっていく途中のものではないんです。大仏を全部鋳込んでしまうと土の山ができる。今度はその土をどけて大仏を掘り出すわけです。掘り出すときに、一番最初に整地した所から、大仏殿の基壇の高さになる分だけ掘り残した。おかげで残ったという形になります。
型の破片みたいなのも幾つかありましたが、どこの物かは全然わからない。赤黒く焼けていることは確かですね。 |
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清水 |
東大寺の大仏の場合は、若草山のほうを削って盛りそれで整地して大仏をつくるわけで、そういう点も似ていると思うんです。盛った方から型とか、銅の破片、木簡などもたくさん出ているんです。
鎌倉の場合、今度出てきたのは、どの辺が多いですか。 |
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福田 |
向かって左側からです。ただ、周りではずっと同じように鋳込んでいきますから、大仏を掘り出したときの土と鋳型の破片は、そう遠くないところ、たとえば裏の谷間に捨てている気がします。
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清水 |
そこは全部かさ上げしているんですね。
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福田 |
現在の大仏を鋳込むときには、型をとる原型と、鋳込まれていく大仏が二つ並んでいたんでしょうか。
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清水 |
そこが、やはり問題ですね。鋳型をそんなに遠くから運ぶとは考えられないので、原型を割と近くに置いたと思うんです。原型を置く場所と、これから銅造の大仏をつくる場所をあらかじめ考えてつくったと思うんです。
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大仏の原型はもともとあった木造の大仏を利用か
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福田 |
鎌倉の今の大仏の原型は、やはり木でしょうか。
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清水 |
私は木だと確信しているんです。土という説もありますが、これは何倍も労力と難しさが加わるから、そういうことはあり得ないと思います。原型が土であるか、木であるかは、鋳造技術にとって大きな問題なんです。
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編集部 |
『吾妻鏡』の記事にある木造の大仏が今の大仏の原型としてつくられたとも考えられるわけですか。
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清水 |
それはないと思う。鎌倉の大仏を知る手がかりは非常に少ないのですが、もともと六年ぐらいかかってお堂ができて、しかも、そのお堂は『東関紀行』の作者によると「十二楼のかまへ望むにたかし」という大きなものだし、良信という偉いお坊さんが来て開眼供養をしているので、当初から原型のためにつくったものでないのは確かだと思います。ただ、その木像が何らかの形で残されていて、それを利用したとするのが一番合理的な考えではないかと思います。本来、その目的でつくったのではないけれども、結果的にはそれを原型とした。だから、脇に置いて型どりすることはできたんじゃないかと考えています。
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編集部 |
発掘では地層のこと以外に、どのようなことがわかりましたか。
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福田 |
大仏殿を探索してやろうと調査しましたが、礎石が全部抜かれてしまっていました。現在、大仏の周囲に平べったい礎石がぽんぽん置いてありますが、あれは全部いいかげんに置いてあるだけなんです。 一昨年、境内に礎石が幾つ残されているか全部調べてみたんです。すると大仏の周囲に置かれているだけでなく、庫裏の庭の庭石として立っていたり、溝の縁の石として置かれていたり、庫裏の裏に行くと、真ん中がくり抜かれて水盤になっていたり。 そういうものも全部含めて残されているのは、五十三個までは確認できました。大体六十個あったというような江戸時代の記録があります。 なぜ六十個かというと、七間四方の建物だから、柱と柱の間が一間で八個、八×八で六十四個。そして大仏の所の真ん中が四つ抜けるので、ちょうど六十個でいいのかなと思ったんですが、実際に礎石自体は抜かれてしまって残っていませんでした。 |
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大仏殿の大きさは間口百四十五尺奥行きは百四十尺
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福田 |
考古学の場合、わからなかったら、地面を掘ってみて横から見るというのが常套手段ですので、掘ってみると、深さ二メートルまで、砂利と泥岩をサンドイッチにつき固めているんです。違う二種類の土を交互につき固めながら、版築という土壌改良をやって全体の強度を上げる方法がありますが、どうもそれに似た形で、礎石の下の部分だけに根固めをやった跡がそれだろうということがわかってきました。 それが一昨年の調査で三か所見つかり、昨年の調査では七か所で見つかりました。一昨年の調査で、大仏殿は間違いなくあったということが確信としてつかめたので、昨年は規模を確定しようということで調査したわけです。 実際に七間四方の大仏殿の跡が見つかり、資料を裏付けるように、間口が百四十五尺(約四十四メートル)、奥行きが百四十尺(約四十二・五メートル)の規模の大仏殿が間違いなく、ここにあったということが明らかになりました。 |
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高橋 |
日蓮が上野殿という人にあてた手紙の中に、大仏堂の釘が大根のように大きいと書いてある。大根を六本贈られて、そのお礼の手紙に書いている。だから、日蓮は実際に大仏や大仏殿を見ているということですね。
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土壌改良に使ったのは茅ヶ崎海岸の砂利
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高橋 |
発見された砂利は、どのあたりから運んできたものなんですか。
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福田 |
鎌倉では、岩盤と言っても泥岩と砂岩しかないので、砂利は、全部よそから持ってきています。茅ヶ崎の柳島あたりの海岸の砂利を持ってきたのではないかと、元神奈川県立生命の星・地球博物館の松島義章先生から教えていただきました。
それから礎石に使った大きな平べったい石はどうも早川とか、根府川の上流の石を実際に岩盤から切り出してきたものを加工しているだろうということです。 |
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高橋 |
砂利一つでも、相当の人員を動員していることがわかりますね。そういう意味ではいい発掘調査で、画期的なことですね。
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福田 |
それと、今回の調査では瓦がまったく出ないんです。ということは、屋根を葺いている材料は、檜皮葺(ひわだぶき)とか柿葺(こけらぶき)ではないかと思われます。
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清水 |
東大寺の大仏殿と違うわけですね。
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高橋 |
銅造の大仏の完成時期ですが、清水先生は前に建長四年(一二五二)に鋳造が始められて八年から十二年たったころ完成したんじゃないかと発表されました。それを決める手がかりは、鋳造に携わった鋳物師の丹治久友の肩書を挙げられています。
完成以前はただの「鋳師(ちゅうし)」でよかったけれど、大仏の鋳造が終わったら、その功績が認められたので、それ以後、「新大仏鋳物師」の肩書を使い出した。大仏の完成の時期はもっと早まってくるかと思うんですが。 |
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清水 |
そうだと思います。四年の差なんですね。大仏の完成は文応元年(一二六〇)から文永元年(一二六四)頃までの間と言いましたが、鋳始めてから早くて八年、遅くとも十二年くらいかかっているのではと言ったのです。
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高橋 |
正嘉二、三年(一二五八−九)頃に、鎌倉入りした良忠上人が慈恩坊という人を仲立ちにして、浄光の所を訪ねたら、そのときは大仏殿は造営中でまだ完成していない、いわゆる「大営未遂」という状況だった。良忠は浄土宗第三祖の法灯を継いだ方です。
そして翌年、文応元年の川越の養寿院の釣鐘では、丹治久友の肩書が単に「鋳師」。それが、四年後の東大寺とか金峯山の梵鐘の肩書には「鎌倉新大仏鋳物師」などと刻んでいる。 また西大寺の叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下って来たときの『関東往還記』という記録の中には「大仏悲田」とか「大仏の尼」という呼称が出てくるので、完成の時期を少し早めていいのかなと想像しているんですが。 |
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清水 |
何とも言えない。
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高橋 |
鋳物師の丹治久友の肩書の使い方ですが、大仏にかかわりを持ち始めたから使い始めたのか、完成して勲章として使ったのか。
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清水 |
勲章として使ったというのも、余り説得力がある説ではないと思っています。ただ、このぐらいにできたんだろうというふうに考えているんです。上横手雅敬さんが『吾妻鏡』の記事に出てこないのは『吾妻鏡』の弘長二年が欠巻だから、それ以後はないんだというので、二年ぐらい早めたんですが、それも説得力がない説です。
このころに完成したとすれば、文永五年(一二六八)に日蓮の書状の中に、大仏殿の別当を非難する手紙が出てきます。ですから、ちょうどいいんです。その後に、名越北条氏が大仏殿をつくるのにつながるので、このくらいにできていてもいいかなと。 |