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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成15年5月10日  第426号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 予告されていたペリー来航 (1) (2) (3)
P4 ○横浜大空襲の頃  赤塚行雄
P5 ○人と作品  中村美繪と『杉村春子』        藤田昌司

 座談会

予告されていたペリー来航 (1)
神奈川県立歴史博物館「150周年記念 黒船」展に寄せて

東京大学大学院教授   三谷 博
明海大学助教授   岩下 哲典
神奈川県立歴史博物館学芸員   嶋村 元宏
        

はじめに

編集部
ペリー提督 (「金海奇観」)
ペリー提督 (「金海奇観」)
早稲田大学図書館蔵
画像をクリックすると大きな画像が見られます(約90KB)。
嘉永6年(1853)6月3日(旧暦)、ペリー提督率いる米艦隊が四隻の黒船を率いて浦賀沖に来航し、約200年にわたった鎖国の時代に終りが告げられました。

ペリー来航から150年目に当たる今年から来年にかけて、各地でさまざまな催しが計画されておりますが、神奈川県立歴史博物館では、特別展「ペリー来航150周年記念 黒船」が、この4月26日から6月15日まで開催されます。

そこで、本日は、鎖国体制の中でペリー来航の情報がどのように伝えられたのか、また、日米交渉の実態などをお話しいただきながら、黒船来航が日本社会に与えた影響などについてご紹介いただきたいと存じます。

ご出席いただきました三谷博先生は、東京大学大学院教授でいらっしゃいます。日本近代史がご専門で、幕末・維新期の外交政策を研究しておられます。

岩下哲典先生は明海大学助教授でいらっしゃいます。日本近世・近代史がご専門で、ペリー来航予告情報を始め幕末情報史を研究されております。

嶋村元宏さんは神奈川県立歴史博物館学芸員で、今回の展覧会を担当されました。展覧会の見どころなどもご紹介いただければと思います。

 
座談会出席者
左から嶋村元宏氏、三谷博氏、岩下哲典氏


嘉永6年(1853)、4隻の黒船を率いて浦賀沖に

編集部 「ペリー来航150年」と言われますが、ペリーは二度、日本に来ていますね。

嶋村
「久里浜上陸」 ペリー艦隊随行画家ハイネの水彩画
ペリー艦隊随行画家ハイネの水彩画 「久里浜上陸」
明星大学蔵
150年前の嘉永6年(1853)6月に、四隻の黒船艦隊が神奈川県の浦賀沖に姿を現し、久里浜に上陸してフィルモア大統領から日本の皇帝(将軍)に宛てた国書を手渡して日本を離れます。 そして翌年に予告通りに再来日し、横浜に上陸して日米和親条約を結びます。

これによって約200年続いた鎖国に終止符が打たれ、それが一般的には日本の新しい時代を切り開いたというふうにされています。

 それまで江戸幕府は、オランダと中国との通商はしていましたが、ほかの西洋諸国とはしていなかった。そのような状況の中で、ペリーが来た目的の一つは、日本と通商をしたいというのがあった。

二つ目は、太平洋に航路を開くために、蒸気船の燃料である石炭の補給場所を確保したい。三つ目は、難破した捕鯨船の乗組員の保護で、そのために日本に港を開いてほしいということがペリーが持参した大統領の国書には書いてあったわけです。

今までは、突然現れたペリーに対して、幕府も庶民も驚き、あわてふためいたという話もありましたが、最近は新しい研究が出てきています。 

 
  18世紀末に松平定信が鎖国体制を一段と強化

編集部 徳川家光によって始められた鎖国が、18世紀末に意味合いが変わったということですが。

三谷 近世日本はペリーが来るまで閉じていたというのはその通りですが、閉じ方が違っていた。近世前半は、日本人が主な拘束の対象で、海外に出ていくのも帰ってくるのもいけない。外国に対してはキリシタンのイスパニア、ポルトガル、それらと縁戚を結んでいたイギリスは来てはいけないけど、ほかの国は来てもよかった。

18世紀になると、東アジア海域全体で貿易が縮小して船の行き来が少なくなったけれど、特定の国以外は来ても構わなかった。それを松平定信はひっくり返し、入港禁止の対象を異国船一般に拡張した。ただし、今までつき合いのある朝鮮、琉球、唐船、オランダ船だけは例外だと。

ですから、幕末に議論された鎖国は、外国船の来航禁止ということで、日本人の出入国の問題は誰も議論していない。そういう意味で、定信は19世紀前半の日本人の対外関係の議論の枠をつくった。

そして開国についてはしばしば、日本は少しずつ開国に向かって変化して、ペリーが来たことでパッと開いたととられがちですが、実は逆で、18世紀末の定信の時から、どんどん外交政策をタイトにしていっています。文政8年(1825)の異国船打払令とか、ペリーが来る直前に、アヘン戦争の時に一旦やめた打払令をもう一度出そうかという議論をやるぐらい狭くしていっていた。それをペリー が来た時に逆転させ始める。そこに無理があったから幕府は壊れたといえるでしょう。

 
  ヨーロッパで何が起こっているか関心が高かった幕府中枢

編集部 幕府は外国に門戸を閉じていても、知的な関心は高かったようですね。

岩下 江戸時代の海外情報の第一は長崎に来航するオランダ船から提出される「阿蘭陀風説書(オランダふうせつがき)」です。オランダ通詞が翻訳し、長崎奉行を通じて幕閣にもたらされた。もう一つ、中国船からの「唐風説書」もあり、それらを通して海外情報を得ていた。しかしこれらは老中や老中から特に許された役人しか見ることが許されなかった。

三谷 日本は政策上は国を閉じていきながら、好奇心はどんどん増して情報をたくさん集める。そして非常に正確に海外情勢の分析をやっています。例えば、ナポレオン戦争が起きていることを、オランダは日本側に全然伝えてないんですが、日本側はそれを察知している。

岩下 一番それを知ろうとしたのは仙台藩医の大槻玄沢で、文化元年(1804)にロシア使節のレザノフが長崎にきたときに連れてきた漂流民の津太夫らを尋問する。どうして漂流民がロシア船で連れてこられたのか。また、レザノフの前にラクスマンが日本に開国を要求してきますが、なぜロシアは日本に関心を持つのか。ヨーロッパで何か起こっているんじゃないかと漂流民をさらに尋問する。

そしてヨーロッパの社会変化が何に起因するのかを知るためにオランダ商館長のドゥーフに問い合わせるんですが、ドゥーフもちゃんとした情報を渡さず、玄沢もナポレオンまでは把握できなかった。

三谷 ドゥーフは、レザノフの行為はロシア皇帝の命令であり、ロシアとイギリスが結託して日本に押し寄せるというでたらめまで言っているんですが、幕府はそのごまかしに乗らずに自分たちの分析を信じていたと思います。

 
  オランダ船の名目でアメリカ船などもすでに長崎に入港

三谷 最近『オランダ商館日記』のドゥーフが書いていた秘密の部分の翻訳が出た。長崎に入っていたオランダ船と称するものがアメリカ船だったり、雇いのハンブルク船だったりということはある程度の人は知っていた。ドゥーフは公式にはそれを隠していたのですが、全部筒抜けになっており、オランダ通詞が長崎奉行に告げ口し、長崎奉行は老中に告げ口している。ところが、オランダ船でないとわかると責任問題になるからみんな知らん顔をしていた。

岩下 貿易を継続したいというみんなの利害が一致していたからです。長崎では箇所銀(かしょがね)・竃銀(かまどがね)の配分と言って、貿易の利益を各戸に配分するお金があって、それで長崎の人たちは夏を乗り切っていた。奉行も当然貿易からの上がりを吸い上げているし、老中・勘定所の中にも長崎掛の役人がいて、ずっとつながっている。だから貿易を継続するためには見て見ぬふりをしなくてはいけない部分があった。



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