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平成16年5月10日 第438号 P2 |
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○座談会 | P1 | 進士五十八 |
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○特集 | P4 | 海から生まれた神奈川 藤岡換太郎 | |
○人と作品 | P5 | 垣根涼介と「ワイルド・ソウル」 |
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座談会 横浜・山手公園を語る (2)
窶披剥早u名勝」の指定にちなんで窶披鐀 |
(約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
◇公園開設に奔走したスミス |
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松信 |
公園の開設の中心になった人物は誰なんですか。 |
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鳴海 |
当時、居留地の外国人たちは、まだ生麦事件の余韻が残っていて、外に出るのはそんなに自由ではなかった。 みんなが集まるところが欲しいので、土地を借り上げて公園をつくることになったんですけれども、その資金がなかなか集まらない。 延び延びになって、1870年6月にやっと具体化するわけですけれども、居留民の間でもいろんな議論があって、公園のために403ドルも使うくらいなら、そのころの居留地の生活環境がものすごく悪く、道路はどろんこ、汚水があふれ、街路灯もないし、物騒なので、むしろそれらを改善するほうにお金を使うべきだという意見もありました。 居留民の大会でもめるわけです。 そういうときに、みんなが集まって楽しめるスポーツも、いろんな集いもできる公園のほうを優先すべきだと言って頑張ったのがW・H・スミスという人なんです。
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一人20ドルの寄付を集めて造成の費用に |
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鳴海 |
そのスミスは、居留民の中で非常に尊敬されていて、「公共精神旺盛なスミス(パブリック・スピリテッド・スミス)」とか、「世話好きのスミス」とか言われるんですけれども、このスミスが頑張って、一人20ドルの寄付を集めた。 それで公園を造成する費用にするわけです。 スミスが横浜に来るのは1862年です。 生麦事件のあと、居留民の警備のために、中国にいた近衛兵隊を横浜に連れてくるんですが、その中尉だった。 1、2年で兵隊をやめてから、海岸通りにあったユナイテッドクラブのマネージャーをやったり、居留地でいろんな仕事をしています。 園芸に関心があって、西洋野菜を栽培したり、非常に熱心な人だった。 後にパット・バーという作家が『鹿鳴館』という作品で横浜の居留地の様子を書いているんですけれども、「W・H・スミス氏なる人物がいたということだけでも1870年代初期の横浜は立派でなければならなかった」と言っているぐらいです。
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当初の催しはフラワーショーやダンスパーティ |
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松信 |
彼らは公園をどんなふうに使ったんですか。 |
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鳴海 |
山手公園は、1870年に開園したときは、まだテニスとか、スポーツに使うことはなかったんです。 フラワーショーやドッグショーをやったり、アーチェリーのコースもつくっていますね。
幻灯会や花見の会、ダンスパーティもやったようです。 |
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進士 |
さっきの横浜の地図にパブリック・ガーデンとあるでしょう。 パブリック・パークではなくてガーデンなんですよ。 西欧ではレクリエーション・グラウンドとか、プレジャー・ガーデンとか、いろんな言い方をします。 ガーデンパーティも含めて、大勢集まって、楽しく歌ったり踊ったり、飲んだり食べたり、そういう場所なんですね。 公園というより、居留民みんなの共通の庭という感じだったと、私は思いますよ。 |
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堀 |
経費を生み出すための場所としてのパブリックという意味もありますね。 スミスは金のあるところから出資させて、ユナイテッド・サービス・クラブをつくったりしていた。
山手公園でも維持経費を出すために、有料のフラワーショーなどを企画した。 |
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進士 |
日本人も入れていたでしょう。 |
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鳴海 |
ええ、有料で。 一分ですって、随分高いですね。 |
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進士 |
でも、それは日本の社会だと当たり前なんです。 向島の百花園も、蒲田の梅屋敷も、みんな金を取って入れていたんですから。 |
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鳴海 |
山手公園は、造成のために20ドルの株を募集したわけですけれども、オープンしたときの居留民大会で、出資した人たちから、自分たちだけを無料にして、あとの人はお金を取ろうという提案がされて、もめるんです。 スミスはそのとき、公園はすべての人たちに公開されるべきだと主張して、結局無料になって、スミスはとても喜んだ。 しかし、何か催しがあると入場料を取る。
フラワーショーには、日本人の庭師にも参加を呼びかけています。 |
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進士 |
それに参加した横浜植木会社は、カメリア、つまりツバキをヨーロッパにたくさん輸出して、生糸並みの貿易額をかせいだ。 ビジネスとチャリティーと、両方があったでしょうね。 |
地代が払えなくなり、婦女弄鞠社が管理を引き受ける |
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松信 |
403ドルの地代は年間でしょう。 ということは月約33ドルですね。 |
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鳴海 |
しかしその後、資金が不足して、借地料がだんだん払えなくなるんです。 その中でもスミスが頑張って、維持のためのいろんな催しを企画するんだけれども、100ドルぐらいずつ赤字になる。
神奈川県知事から地代を払えと来ても払えなくなる。 1871年から76年までは、滞納しちゃうんです。 |
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堀 |
わざと払わなかったんだと思いますよ。 |
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鳴海 |
そう。 彼らはだいたい、明治政府をなめていて、払わなくったって、そのうち何とかなるだろう。 政府に押しつけることも可能だろうと考えた。
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進士 |
植民地として日本をみる発想があったでしょう。 |
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鳴海 |
しかし、そのころの神奈川県知事、県令は割と頑張っていたんです。 払わなきゃだめだと督促する。 結局アーネスト・サトウが間に入って、山手公園の管理委員会を解散しますが、ちょうど1876年にイギリスからテニスが入ってきて、居留民に大受けするわけです。 それで、このスポーツなら金が取れると考えた。 知恵を絞って、できたばかりのレディーズ・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ(婦女弄鞠[ろうきゅう]社)に又貸しをするという形で解決するわけです。 |
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松信 |
それが何年ですか。 |
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鳴海 |
1878年。 このとき403ドルを150ドルに減免させる。 値引きですね。 恐らくアーネスト・サトウを含めた居留民たちと明治政府との駆け引きがあって、150ドルで妥協して、婦女弄鞠社が管理を引き受ける。 |
◇テニスはイギリスで誕生して2年後、横浜に |
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松信 |
テニスはそのころ、イギリスでも始まったばかりなんでしょう。 |
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鳴海 |
1874年に初めてイギリスでローンテニスがつくられます。 それまでクロッケーとか、コートテニスとか、いろんなスポーツがあったけれど、屋外で女性も含めてできるものは余りなかった。 それで、外の芝生でやれるローンテニスが人気になって普及していく。 横浜居留地の人たちは、本国で何が流行しているかというのにものすごく敏感だったんです。 新聞で、ローンテニスが今ロンドンで人気らしいというので、早速取り寄せる。
それで1876年6月に山手公園で初めて行われたというのが『ジャパン・ウィクリー・メール』に、詳細に出ています。 それが最初の記録です。
実際はもうちょっと前、その年の春にはやっていたと思いますけれども。 |
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松信 | 本国で2年前に始まったのが、すぐ横浜の居留地に来たんですね。 それは女性がやったんですか。 。 |
鳴海 |
女性も男性もやっています。 それまで男女が一緒にやれるスポーツはイギリスにはなかった。 それが初めてミックスダブルスで遊べるスポーツができた。
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進士 |
女性たちはどんな格好でやったんですか。 |
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鳴海 |
当時、運動着はなくて、帽子をかぶって、バッスルスタイルですね |
テニスコートにはイギリスから輸入の洋芝を使う |
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松信 |
ボールは、今のボールと変わらないんですか。 |
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鳴海 |
ローンテニスができた背景には、ゴムボールの開発があるんです。 それまでできなかったゴムのボールが1874年か5年ごろできた。 それ以前は、硬い石とか木を芯にして布を巻いて、それをまた糸で縛ったボールで、宮殿とか、教会の中の硬い床で男性がやっていたんです。 それがコートテニスで、硬いボールですから危ないですし、女性向きじゃなかった。 それを外に持ち出して、割と激しくなく楽しめるスポーツとして開発されたのには、弾むボールがつくられたことが非常に大きいんです。 |
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松信 |
山手公園に最初にできたコートは2面ですね。 ローンだったんですか。 |
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鳴海 |
そうです。 イギリスから洋芝を取り寄せた。 |
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進士 |
種から育てたんですね。 日本は蒸すので、すぐに病菌が出るんですが、よくもちましたね。 |
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鳴海 |
横浜公園のクリケットコートもそうですね。 イギリスから2人庭師を連れてくるんです。 |
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進士 |
グリーンキーパーですね。 |
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鳴海 |
日本人の庭師も雇う。 菅笠をかぶってコートの整備をしている写真が残っています。 |
ローンテニスを日本流にした軟式テニス |
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松信 |
そして日本でも広く普及していくわけですね。 |
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鳴海 |
テニスは山手公園や横浜公園で行われます。 その外国人の様子を見た当時の横浜商業高校(Y校)の美沢進校長が、「公園地で婦人が芋上げざるでボールを打ち合っている。 あのスポーツはおもしろいんじゃないか」ということで、明治32年にY校に庭球部をつくる。 明治37年には、横浜の外国人クラブと試合をやっています。 テニスを最初に取り入れたのはフェリス女学校や紅蘭女学校(横浜雙葉学園)などのミッションスクールでした。 そこでやっていたのは軟式なんです。 Y校もそうです。 ローンテニスのボールは、すごく高い。 1個1円ぐらいで、今で言うと、5千円か1万円です。 ラケットも1本16円、サラリーマンの1か月の月給です。
そんな高い道具ではとてもやれない。 もっと簡単にできないだろうかと考えた。 そこが日本人の知恵なんです。 おもちゃのゴムボールと、簡単なラケットでできる軟式テニスを考えたのが明治27年です。
これを明治政府が全国に広める。 |
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進士 |
それは健康のためということですか。 |
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鳴海 |
当時、政府は日本女性の体躯の向上をはからなければいけないと。 なぜなら、強い兵隊を産まなくてはならないから。 テニスという女性にふさわしいスポーツがあるからやりなさいと勧めたわけです。
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進士 |
軟式は世界中に広まったんですか。 |
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鳴海 |
アジアの文化圏で盛んですね。 最近はアメリカやアフリカでも軟式テニス協会ができたとか。 |
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松信 |
その発祥が山手公園なんですね。 |
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堀 |
ヨーロッパではスポーツは公園ですね。 居留地は、公園の中でそういう運動場を確保した。 その核となるのが横浜公園と山手公園だった。 競馬は根岸で、ボートは港だったでしょうけれどね。 横浜には、テニスだけでなくベースボールとかフットボール、セイリングなど各種のスポーツ団体がありました。 |
つづく |