■『有鄰』最新号 | ■『有鄰』バックナンバーインデックス | ■『有鄰』のご紹介(有隣堂出版目録) |
平成16年12月10日 第445号 P2 |
|
○座談会 | P1 | 鯨捕りと漂流民 —
ペリー来航前夜 (1) (2) (3) 大隅清治/川澄哲夫/春名徹/松信裕 |
|
○特集 | P4 | 島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか 黒川鍾信 | |
○人と作品 | P5 | 津島佑子と「ナラ・レポート」 |
|
座談会 鯨捕りと漂流民 (2) ![]() ![]() |
|
![]() |
◇1819年、マロー号がマッコウクジラを追って日本沖へ |
松信 |
なぜ、日本近海にアメリカの捕鯨船が来るようになったのですか。 |
|
大隅 |
アメリカ式捕鯨は、川澄さんが言われたように、1712年から勃興し、次々に漁場を拡大して世界を制覇した。 クジラが少なくなったからというよりも、アメリカ式捕鯨の船の拡大のほうが大きいんじゃないかと思います。
クジラのいるところをフロンティア精神で開拓していったんだと思います。 |
|
川澄 |
大西洋でマッコウクジラをほとんど捕り尽くしてしまって、正確には1819年の10月26日にマロー号という船がナンタケットを出て、アメリカ大陸の最南端のホーン岬を回って日本のほうに近づいてくる。
三陸沖あたりに来たんじゃないかとも言われていたんですが、実際にマロー号がマッコウクジラを捕ったのは、北緯36度、東経160度から170度だったと言うんです。
3か月で1,100バレル(1バレル=約120リットル)も捕った。 |
ハワイ・小笠原・北海道を結んだ中がジャパングラウンド |
||||||||||||
川澄 |
このとき、「on the coast of Japan」という言葉を使っている。 アメリカの捕鯨船は、日本漁場と言って「towards
Japan」とか「at Japan」、「on the Japan grounds」など、さまざまな表現を使うんです。 これは日本沖と訳しがちですが、最初のうちは日本が見えるところじゃなくて、日本とハワイの中間地点ぐらいなんですね。 |
|||||||||||
大隅 |
ジャパングラウンドといわれる場所は、長方形のと三角形のと二種類ありますが、ハワイと小笠原と北海道を結んだ三角形の中で、マッコウクジラがたくさん捕れたので、そう称された。 |
|||||||||||
川澄 |
マッコウクジラが一番多かったのは小笠原から房総あたりまでですから、捕鯨船が鳥島に立ち寄って、ジョン万次郎を始め、たくさんの漂流民が救助されることになる。
鳥島は小笠原と伊豆半島との中間あたりにありますので。 |
◇ひどかった捕鯨船の食糧事情 |
川澄 |
ペリーが日本に開国を求めた大きな原因は、嵐に遭ったときに避難所がないということと、食糧の供給です。 捕鯨船の食糧は非常にひどいわけです。 最初に積んだものが腐ってしまったり、例えば砂糖壺にはゴキブリが何インチもたまったり、肉やパンにウジがわいたり、とても食べられるような状態じゃない。 それでおもしろいのは、漂流民が捕鯨船に救われたとき、ごちそうを食べたと言うんですが、あれはどういうものですかね。 非常に飢えていたからそう思えたんでしょうね。
|
|
春名 |
マンハッタン号が鳥島へ寄ったのもカメが捕れるからということでしたね。 |
|
川澄 |
はい。 ウミガメを捕るために、マンハッタン号も、万次郎を救ったジョン・ハヲラン号も鳥島へ寄りますね。 夕食のスープに使う。 |
|
大隅 |
リクガメは生きたまま、ずうっと船のデッキに置けるので、新鮮な食糧になりますからね。 |
|
川澄 |
小笠原でウミガメを買って船に積んで行くんですね。 ただ、『モービィ・ディック』を読んでいますと、鯨捕りたちは食糧にクジラの肉を食べていた気配がある。
たとえば、二等航海士のスタッブがsmallという尾の身を食べます。 |
|
松信 |
アメリカ人は肉は捨てたと言っているけれども、実際は食べたわけですね。 |
|
大隅 |
製品にはしないんですけれども、乗組員の食糧にはしたわけです。 |
|
川澄 |
『モービィ・ディック』以外にもたくさん捕鯨の小説はありますが、それらの中で、パイにしたとか、こんなごちそうはない、舌がとりわけごちそうだ、とか言ってるんです。
|
|
大隅 |
クジラの舌は本当にうまいんですよ。 (笑) |
|
川澄 |
だから、鯨捕りたちは食べているんですね。 どうしても食べられないのはホッキョクグマで、においが強すぎると。 それから、ニワトリとか豚とかペットとして連れてきた動物まで食べるんですが、今まで可愛がってきたペットを食べるのは悲しい思いがしたとか、そういったことが出てくるんです。
とにかく食糧が悪かったんですね。 |
イギリスの捕鯨船の事件がきっかけで鎖国が強化される |
||||||||||||
春名 |
文政7年(1824年)に、薩摩の宝島でイギリスの捕鯨船が上陸して牛を略奪したりしたのが一つの契機になって鎖国令を強化するという事件が起きますね。 イギリス船が薩摩沖で捕鯨をしたというのは、素人から見ますと、非常に突発的な印象を受けるんですが。 |
|||||||||||
大隅 |
イギリスの捕鯨船もフランスの捕鯨船も日本の近海で随分操業したんです。 |
|||||||||||
春名 |
薩摩の沖あたりは漁場としては、別に不思議はないんでしょうか。 |
|||||||||||
大隅 |
この間、大浦町でマッコウクジラが14頭座礁して、大騒ぎになりましたね。 そのことでもわかるように、あの辺はマッコウクジラがいますから、十分操業できたんだと思います。
|
|||||||||||
川澄 |
イギリスの捕鯨船は水戸の沖合でもクジラを捕っているんです。 同じ文政7年に、大津浜にイギリスの捕鯨船員12名が上陸して大騒動になる。 そして水戸藩では、過去のロシアとの関係もありますが、捕鯨船員が上陸したことをきっかけに攘夷思想が盛り上がってくるわけです。 薩摩の宝島の事件ではカピタンは殺され、塩漬けにされて長崎に送られる。 これがきっかけで異国船打払令が出される。 |
|||||||||||
春名 |
文政8年(1825年)の無二念打払令[むにねんうちはらいれい]ですね。 |
|||||||||||
川澄 |
そうですね。 ですから、アメリカよりも、むしろイギリスのほうが日本に近づいてきているんです。 |
|||||||||||
春名 |
外交政策への影響という意味では、イギリスのほうが大きいインパクトを与えたんですね。 |
川澄 |
そうです。 大津浜では一般市民、とりわけ漁師たちはイギリスの捕鯨船に出向いてごそちうになったり、商品を持っていって売るなどの交流もあった。
|
|
大隅 |
イギリスの場合は、インド洋からオーストラリアを回って太平洋にでたわけですけれど、オーストラリアのホバートにかなり大きな捕鯨基地があったようですね。
|
|
川澄 |
ただ、だんだんとアメリカの捕鯨船が優勢になってくる。 |
|
◇『白鯨』には「日本を開国するのは捕鯨船だ。」と |
||
松信 |
先ほどからお話に出ている『モービィ・ディック(白鯨)』の中に、日本の開国を解く鍵になるような言葉が出てくるそうですね。 |
|
川澄 |
『モービィ・ディック』が出版されたのは、1851年(嘉永4年)で、その中には、日本についての言及がたくさんあるんです。 たとえば、「日本を開国するのは捕鯨船だ。」とか、日本の千石船[せんごくぶね]などに乗っていた漂流民を拾うという話も出てくる。 日本の開国を予言しているようで、大変面白いですね。 ハワイの『フレンド』紙(1848年12月号)でも、日本の開国が迫っていることを問題にしています。 有名なラナルド・マクドナルドが、その年の6月にアメリカの捕鯨船プリマス号を離れ、日本に上陸した事件を取り上げ、その冒頭に、アメリカの捕鯨船が日本の開国に一石を投じた、マンハッタン号がそれをやってのけた、とあります。
たくさんのアメリカの捕鯨船が、日本近海でクジラを捕っていて、日本の漂流民を救助したり、日本の漁師と歓談していると続けています。 メルヴィルは、この記事からヒントを得たのかも知れません。
|
|
春名 |
そのマクドナルドについて、僕の友人のフレデリック・ショットという人に、『Native American in The Land of
the Shogun』という面白い本があるんです。 バックグラウンドを丁寧に見る型の作家で、たとえばハワイにアメリカ中の捕鯨船が集まってくる。
もちろんニューベッドフォードからも。 そこでアジアについての情報が交錯する中で、マクドナルドが日本に行く手だてをいろいろ考えていくというプロセスを丁寧に追っています。
|
船乗りたちの新聞や航海記がメルヴィルの情報源 |
||
松信 |
『フレンド』紙は、ハワイで発行されていたんですね。 |
|
川澄 |
そうです。 広東貿易に携わっている商船や捕鯨船がハワイに集まりますから、全国の情報もハワイに集まるわけです。 それを『フレンド』紙が収録する。
だから『フレンド』紙は世界を知る一つのメディアであったわけです。 |
|
春名 |
船乗りたちの教会の機関紙だと思います。 |
大隅 |
その新聞は今でもあるんですか。 |
|
川澄 |
デーマン神父が始めたのが1842年の1月ぐらいですね。 それからずっと、今まで続いています。 |
|
春名 |
それからメルヴィルは、アメイサ・デラノの航海記を下敷きにして『幽霊船 ※』(ベニート・セラーノ)を書いてますから、そこに含まれる漂流民送還記録も、当然読んでいたと思います。 文化3年(1806年)正月に漂流した大坂の稲若丸(8人乗り)がアメリカ船ティーバー号(コルネリウス・ソル船長)に救助され、ハワイに送られた。
デラノ船長は、この日本人たちを預かって中国に向かい、広州で中国人に引き渡そうとしたが拒絶され、やむなくマカオでオランダ人にゆだね、バタビア経由で帰国させたというものです。 |
|
|
||
春名 |
『モービィ・ディック』自体が、白人である船長があらゆる種族を率いて破滅へ追い込むという読み方もあるようですね。 |
|
川澄 |
そういうことを言う人がいますね。 ヨーロッパ人がアメリカに移民してくる象徴として、白鯨が姿を現わします。 池に棲んでいるとか。 このような伝説がナンタケット島や、その周辺の島々に残っています。 |
|
春名 |
現代、そういう象徴性が、より現実性をもって感じられる時代ではありませんかね。 |
|
松信 |
実際に白鯨というのはいるんですか。 |
|
大隅 |
白鯨は、今でもところどころで見かけますね。 私もマッコウクジラの白鯨について、以前に『鯨類研究所研究報告』に発表したことがございます。 それから10年ぐらい前に、大西洋のアゾレス島でもマッコウクジラの白子が発見されています。 |
|
川澄 |
前にザトウクジラの白鯨がオーストラリアの沖合で発見されましたね。 |
|
大隅 |
あれも白子です。 それからマッコウクジラは若いときは黒いんですが、だんだん白っぽくなるんです。 年を取るにつれて、特にオスは互いに闘争して、歯形で頭部が真っ白いぐらいになる。
そういうことで白っぽく見えるので、メルヴィルの白鯨はそういった年を取ったマッコウクジラではないかということも言われていますが、実際は白子もいるということです。
|
◇中国貿易の商船が太平洋を航行 |
||
松信 |
捕鯨船が日本開国の一つの大きな契機になったということですが、春名先生は、もう少し別な要素もあるとお考えなんですね。 |
|
春名 |
太平洋を巡っていろんなものの流れがある。 一つは捕鯨という形で日本近海への関心が集まった。 もう一方ではアメリカの独立直後に始まった中国貿易がある。 これはそもそも、クック船長の艦隊に乗り込んでいた一アメリカ人が、航海の中で、広東で毛皮が高い値段で取引されていることを知るんです。 彼は脱走してアメリカに戻り、東部で要人たちを説いて中国貿易をやろうと言い出す。 最初の貿易船はエンプレス・オブ・チャイナ号で、航路もまだよくわからず、スンダ海峡からフランス船に導かれて、広東に行く。 積み荷は薬用ニンジンです。 アメリカには薬用ニンジンが自生していて、独立以前から中国へ輸出しているんです。 ただ、薬用ニンジンがたちまち値段が下がって儲からなくなり、毛皮の取引になる。 初めは東部の船がホーン岬を回って、太平洋岸でネイティブ・アメリカンと毛皮を交易し、それを持っていくという格好でしたが、だんだん自分でアザラシなどの毛皮を採取して広東に行くようになる。
だから、航海も2年とか3年とか延びるわけです。 |
|
太平洋貿易のネットワークが漂流民を救う |
||
春名 |
毛皮貿易は直接には日本とは関係なかったんですが、結果として、アメリカ貿易船が太平洋を通るようになる。 それで漂流民が西欧の船に救助されるようになるんです。 日本の漂流民は、それまでは太平洋岸の救助例は余りない。 中国沿岸への漂着の例が多いんです。 漂流民の存在を我々が知るのは、救われた人間がいるからで、救われなければわからない。 だから、それまでは太平洋岸の例はなかったのが救助される例が出てきた。 摂津のジョセフ・ヒコの乗っていた栄力丸がいい例ですね。 太平洋の真ん中に流れ出したところ、たまたま北上する船に拾われた。 それから長期漂流の例として有名な尾張の督乗丸が、漂流484日で、アメリカの沿岸で拾われる。 拾った船のことが最近わかってきまして、イギリス東インド会社のチャーター船だった。 つまり、日本の漂流民が救われるようになった契機は、太平洋を結ぶ貿易のネットワークと関係がある。 毛皮取引については、木村和男さんの『毛皮交易が創る世界』が最近出ました。
|
|
川澄 |
商船貿易とクジラとの関係は、確かに大きいんです。 というのは、商船の船長から日本近海でマッコウクジラの群れが泳いでいるという情報がナンタケットに入り、それがきっかけで太平洋に捕鯨船を送り出す。
ですから、商船が根本にあるわけです。 |
つづく![]() |