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平成16年11月10日 第444号 P1 |
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○インタビュー | P1 | 瀬戸内寂聴さんに聴く 源氏物語、そして幻の一帖 「藤壺」 (1) (2) (3) 聞き手・ 松信裕
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○特集 | P4 | 百歳になる片岡球子先生 山梨俊夫 | |
○人と作品 | P5 | 出口裕弘と「太宰治 変身譚」 | |
○有鄰らいぶらりい | P5 | 馬見塚達雄著 「『夕刊フジ』の挑戦」/秋葉道博著 「サムライたちの遺した言葉」/渡辺淳一著 「幻覚」/安岡章太郎著 「雁行集」 | |
○類書紹介 | P6 | 「火山噴火」・・・三宅島、浅間山、次は? 日本列島には86の活火山が並んでいる。 |
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瀬戸内寂聴氏 |
はじめに |
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松信 |
日本の古典文学の中で、もっともよく知られている作品は何かといえば『源氏物語』を挙げるかたが多いと思います。 『源氏物語』の作者、紫式部は、973年(天延元年)ごろ、中流貴族の娘として生まれました。 本名は定かでなく「紫式部」という呼び名は、『源氏物語』の女主人公「紫の上」に由来するといわれます。 998年(長徳4年)に藤原宣孝[のぶたか]と結婚しますが、3年後に夫と死別、そのころから『源氏物語』の創作を始めたとされています。 今日、お招きいたしました瀬戸内寂聴先生は、『源氏物語』の現代語訳全10巻を発表され、平成の「源氏ブーム」の火付け役となったことは記憶に新しいところです。 また全五十四帖の『源氏物語』に、実はもう一帖があったのではないかとお考えになられ、このたび、新しく「藤壺[ふじつぼ]」をご執筆なさいました。 本日は、『源氏物語』における愛について、そして11月に刊行が予定されております新作小説「藤壺」についてお話をうかがいたいと思います。 |
◇世界でもっとも早く書かれた長編恋愛小説 |
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松信 |
『源氏物語』が書かれたのは今から千年以上前ということになりますね。 |
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瀬戸内 |
「物語」というのは、今の言葉に訳しますと、「小説」ということですね。 『源氏物語』は、千年前の宮廷を舞台にした大恋愛長編小説です。 当時、世界にはまだどこの国にも、そういう恋愛小説、しかも、長編はなかったんです。 世界でどこよりも早く、しかも、今読んでも文学と認められるほどの立派な大長編恋愛小説が書かれたのは、日本なんですよ。 それを書いたのが、紫式部という子持ちの、30にならない若い寡婦[かふ]だったんです。 そういう意味で、紫式部はもう天才中の天才です。 日本の女の天才を一人挙げよと言ったら、まず紫式部でしょうね。 その長編小説の中で、さまざまな愛の形が書かれております。
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松信 |
紫式部はどんな生い立ちなんですか。 |
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瀬戸内 |
紫式部のお父さんの藤原為時[ためとき]という人は、大臣級の最上級貴族ではありませんが、非常に漢文が上手で、時の天皇に漢詩でほめられたりしたことがある。
教養があって、宮廷でも文学的なことで仕えている家系だった。 そういう家庭で、家には本がたくさんあったでしょうね。 |
頭がよくて文学少女だった紫式部 |
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瀬戸内 |
紫式部は、小さいときからそれを読んで、大変な文学少女で、文学的素養は十分にあったんですね。 お母さん(藤原為信[ためのぶ]の娘)の家系も文学的で、その両方の素質を血の中に受けて、それが紫式部の勉強と相まって、おそらく少女のころから物語を書いていたんでしょう。 紫式部は、そういう学者のうちに育って、小さいときから非常に頭がよかった。 為時が息子に漢文を教えていたとき、お兄さんか弟かどっちかわからないんですが、あまり頭がよくなくて、なかなか覚えない。
ところが、女の子の紫式部が横で聞いていて、全部覚えてしまった。 それでお父さんがびっくりして、「ああ、この子が男だったらよかったのに。」と言ったというんです。
ということは、私は、紫式部は器量が悪かったんじゃないかと思うんです。
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松信 |
それはどうしてなんですか。 |
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瀬戸内 |
当時の貴族のうちでは、高級であろうが、中級であろうが、男の子が生まれたって喜ばないんです。 女の子が生まれることを非常に喜ぶ。 女の子が生まれますと、小さいときから一生懸命皇后教育を施しまして、それで、ツテを求めて後宮、つまり天皇のハーレムに送り込むんです。 天皇がもしも自分の娘に目をつけて愛してくれて、天皇と自分の娘の間に子供が生まれる。 それが男であれば、その子は皇太子に、さらには天皇になる可能性がある。
自分の娘の産んだ子、つまり、自分の孫が天皇になれば、その男は外戚と呼ばれまして、あらゆる政治的権力を掌握することができるんです。 ですから、紫式部のお父さんが、「男に生まれればよかった。」と言って、せっかくの女の子なのに、そこを期待しないということは、よっぽど色が黒いとか、髪が縮れていたんじゃないかと、私は思うんです。
当時は、まっすぐで長くて豊かな黒髪が美人の第一条件でしたからね。 しかし、彼女はすばらしい頭を与えられまして、千年前の時代では最高の小説家になったのです。
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不器量で意地悪な女性だったのではないか |
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瀬戸内 |
紫式部が結婚したのは27、8歳ぐらいなんですね。 当時の27、8歳は、今で言えばもう晩婚なんですよ。 12、3歳から女は結婚していいということになっていて、後宮には、上級貴族の娘が11か12のときから入れられていた時代に、27、8まで結婚しないということは、これはよほど不器量だったとか、意地悪だったんじゃないか、と私は想像いたします。 紫式部と夫の藤原宣孝との結婚生活は2年半ぐらいなんですが、宣孝という男は大変なドンファンで、紫式部のお父さんのお友だちで、お父さんぐらいの年だったんです。 ですから、もちろんすでに奥さんが何人もいて、何人も子供がある。 その後で紫式部と結婚しているんです。 宣孝は非常にもてた人ですから、女はもう飽き飽きしていたころでしょう。 そのころに不器量な、小説ばかり書いている、そういう変わり種の女もおもしろいと思ったんじゃないでしょうか。
それで紫式部と結婚するんです。 賢子[けんし]という女の子を一人得ましたけれども、宣孝は疫病になって、すぐ死んでしまう。 紫式部は30歳ころに、もう未亡人になってしまうわけなんです。
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回し読みや書き写し、朗読で評判が広がる |
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松信 | そのころ、物語はどんなふうに書かれていたんですか。 |
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瀬戸内 |
当時は和紙に筆と墨で書くわけです。 貴族のところには唐紙と言って中国から紙が入ってきた。 和紙よりもずっと上等で、とても高かった。 でも和紙も量産できないから高かったんですよ。 和紙に書いた小説を、身近な人に見せます。 紫式部にはお姉さんがいたので、まずお姉さんに見せたと思います。 そのお姉さんが、「あら、これはとてもおもしろいわよ。 いとこの何子ちゃんに見せてあげましょう。」といって、いとこに見せる。 そのいとこが読んで、「おもしろいわ。 お友だちにも見せましょう。」ということで、回し読みをしたんですね。 そのうちに、一つしかない原稿ですから、「私に写させてちょうだい。」と言って、それを写す人がでてくる。 「じゃ私も。」と、その小説をそっくり写していくんですね。 そんなふうにして世の中に行き渡ったわけです。 それから、今はほとんど黙って読みますけれど、昔は声に出して朗読したんです。 一人が読めば、そこにいる、例えば10人ぐらいの人がその話を聞けるでしょう。 だから、声のいい、朗読の上手な人が選ばれてよく読んだんです。 後宮は特にそうです。 天皇のハーレムで紫式部の小説を誰かが読む。 それはもう声のいい、そして朗読のうまい、今で言えば幸田弘子さんみたいな人が読む。 それを天皇や皇后、お供の女官たちや天皇のお付の者、そういう人たちが来て聞いている。 そして、天皇が感心なすって、「これはなかなかおもしろい。」というふうな言葉を言われると、それは最高の評価を得たということになって、バアーッと評判が広まるんですね。
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つづく |