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平成12年8月10日 第393号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 かながわの学徒勤労動員 (1) (2) (3) |
P4 | ○忘れえぬ名言 半藤一利 |
P5 | ○人と作品 黒井千次と『羽根と翼』 藤田昌司 |
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座談会 かながわの学徒勤労動員 (2)
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麦刈りや繭掻、暗渠排水づくりなどの勤労奉仕に
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石垣 | 私の経験では、出征軍人の留守家族の所へ麦刈りやイモ掘りの手伝いに行くのは勤労奉仕で、勤労動員とは言いませんでしたね。それはしょっちゅうやってました。
それから暗渠(あんきょ)排水づくり。つまり、田んぼを二毛作にするために、稲の刈り取りが終わったあと、田んぼの水を抜いて畑にして作物をつくろうと。これも勤労奉仕でした。 |
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広田 | 私たちは二俣川の農家の繭掻(まゆかき)の勤労奉仕に行きました。蚕棚の繭をえり分ける作業でしたが、白い繭の間に真っ黒な蚕のつぶれたのも混じっていて気持ちが悪かった思い出があります。帰りに、じゃがいもをもらってきたりして、うれしかったですね。
それから、陸軍田奈部隊へも一週間ぐらい勤労奉仕に行きました。朝、東神奈川に集合してトラックに乗って行きました。細い鉛管みたいなものをひもで縛る仕事で、流れ作業でどんどん来るんです。兵器らしいというので、張り切ってやっていました。 |
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篠崎 | 労働力不足になってきたということなんですか。 |
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大塚 | 若い男はどんどん徴兵されて戦地に行く。徴用工というのもあった。農村などから、年配者も含めて、工場の労働力をかき集めたわけです。それでもまだ人手が足りないので、あとは大学生・中学生や国民学校高等科の生徒しか残っていませんからね。
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笹谷 | 先ほどお話ししましたように、昭和十八年から航空機の生産に重点が置かれるようになる。航空機の生産をふやすためには、今の自動車産業と同じで、下請けや関連企業をふやしていかなければいけない。そうすると京浜工業地域にたくさんある東芝をはじめ、細かい真空管をつくるような工場に全部受注が来る。
ところが、熟練工は徴兵されていない。なのに受注がふえて非常に細かい作業に適した労働力が一気に必要になってきた。そういう点で航空機生産の拠点になった神奈川県と愛知県は非常によく似ていて、都道府県を越えた大きな勤労動員体制が必要だったようです。 神奈川県内からは百二十校が動員されていますが、県内だけでは足りないので、石垣さんのように、近県、あるいは東北地方などから三百校近くが来ています。最も遠い所は青森県の学校です。 東京の学校からも神奈川県の工場や軍の施設にきています。神奈川から東京の工場に行ったというのはほとんど聞きませんが。東京は学校数もたくさんあったし、学徒数もまだ随分いたので府内(都内)で賄えたんです。神奈川の場合は広田さんの二俣川のお話のように、ちょっと都市部を離れると農村が広がり、若い労働力がなかったんです。 |
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親元を離れ初めての寮生活
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篠崎 | 石垣さんが勤労動員に行かれたのはいつですか。 |
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石垣 |
私が皆さんと違うのは、当然通えませんから寮生活なんです。海軍工廠に行ったら、すでに、神奈川県立湘南中学校(現県立湘南高校)の四、五年生、山梨県立日川中学校(現県立日川高校)、神奈川県立平塚高等女学校(現県立平塚江南高校)もきていました。静岡県立伊東高等女学校(現県立伊東高校)は八月三十日にきました。 寮に入って、まず日川中学と木刀を持って殴り合いの大げんかをしたんです。夜中に夜襲が来て、日川中学は、アッツ島で玉砕した山崎大佐の出身校ですから威勢がよかった。で、夜中に全員、大食堂に集められ、海軍大尉から相互に対向びんたをやらされ、それ以来、日川中学とはずっと仲よくなった。 日川中学と私たち豆陽中学と伊東高女は寮生活でしたから、通える人たちが本当にうらやましかったです。最後まで一度も帰らなかったという人が何人もいた。食べ物は乏しいし、中学四年生といってもまだ子供ですからホームシックにかかったり。寮生活の人と、自宅から通っている人とはものすごく差があった。 |
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篠崎 | 我々は伊豆・房総半島にはあこがれてましたよ。食料が豊富だったから。 |
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石垣 | 寒川という所に行くんだと言ったら、おじいちゃんに「何か寒そうな所で、かわいそうに」と言われたのを思い出します。まだ十六歳でしたから、親や祖父母たちのほうがつらかったようです。行きたくないとみんな思う。学校をやめれば行かなくてすむけれど、そういうことでやめた人は一人もいませんでしたね。兵隊と同じで、逃げたりやめたりはできなかった。
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大塚 | 社会一般の風潮からすれば、行かないという気持ちには恐らくなれなかった。 |
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篠崎 | 友だちに、うその診断書を書いてもらって行かなかった人がいましたが、同じような苦労をしなかったわけですから、戦後は疎遠になりましたね。やっぱり行ってよかったですね。
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篠崎 | 工場では、実際にどんなお仕事をしていらしたんですか。 |
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石垣 | 相模海軍工廠は平塚の海軍火薬廠から分かれ、日本で一番新しい、一番小規模の海軍工廠だったと思う。
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笹谷 | 昭和十七年に土地・建物を買収し、翌十八年に相模海軍工廠になっています。 |
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石垣 |
イペリットは、工廠内では「特薬」と呼ばれていましたが、異臭の強い、茶褐色の粘性のある液体で、爆発すると液体が気体になり、それを鼻から吸い込むと、肺や食道などがただれ、皮膚につくと皮膚がただれる。そういう化学兵器だった。 仕事は、イペリットが入った重い缶を火薬と一緒に爆弾の管体へ納めて、そこへパラフィンを注入して固定してからビス止めをするんです。そして弾頭と尾翼にガス弾であることを示す黄色と緑の塗料を塗って、これを箱詰めにして発送する。 もう一つは三式弾。皇紀二六○三年(昭和十八年)に正式採用になったので三式弾というんですが、これは、榛名とか長門など海軍の戦艦や巡洋艦の主砲に詰め込んで、敵の雷撃機を攻撃する対空焼夷弾です。砲弾の内部に七百三十五個の焼夷弾を詰めた鉄パイプを並べた新兵器で、来襲する敵の飛行機群を撃ち落とすのです。束にした焼夷弾がパーッと飛び散るのです。 |
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笹谷 | 毒ガスのイペリット爆弾や三式弾を学徒がつくっていたというのは驚くべき話ですね。 |
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石垣 | 三式弾の場合は、直径約三センチのパイプを切ったものに、火薬を詰める作業でした。よく事故が起きなかったと思いますよ。イぺリット爆弾の場合は、部品じゃなく完成品でしたから、やり甲斐がありましたね。
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毒ガスであることは知らされていたが機密厳守
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篠崎 | いずれにしても砲弾をつくっていたわけですね。 |
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石垣 | そうです。それで、だんだん資材がなくなってきたので、じゃ今度はこれ、次はこれというように、とにかくいろんなことをやらされました。中学生は割合器用で、教わればすぐできた。防毒マスクをつくった人もいます。
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篠崎 | 毒ガスだということはわかってらしたんですか。 |
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石垣 | わかっていました。日本の危機の際に使用するものらしいこと、でも絶対に秘密を漏らしてはいけないと言われました。
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篠崎 | こういうものだという説明はあったんですか。 |
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石垣 | ありました。あるとき、同級生が休憩時間に空き箱へ腰かけたら、おしりがかゆくなっておかしくなったんです。そうしたら、その空き箱に「特薬」が漏れてくっついていた。だからズボンに穴があいて、おしりの皮膚がただれて大騒ぎになった。「特薬」は、ついているかどうか乾いてしまうと見てもわからないんです。その爆弾を落とすと、当時の話で、百年は人も住めないし、草木も生えないと言われていました。
よそで言ってはいけないと言われていても、だんだん漏れるんですね。息子たちが怖いものをつくっているというので、父兄がみんな心配していたんです。 |
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空襲のときイペリットの不良爆弾がある退避壕に
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石垣 | それと、イペリット爆弾をつくっているときに不良品が出ます。ちょっと漏れたり、にじんだりしたものを危ないから退避壕に入れておくんです。十九年十一月一日に、この地区に初めて、艦載機とB29爆撃機による空襲がありました。つくりかけの爆弾がそこら辺にいっぱいあるし、一発でも落ちたら大変だから、みんな工具なんかほうり投げて相模川の河原に向かって逃げました。「戻れ!」と海軍の偉い人が叫んでいました。
私は怒られるのが怖いのと度胸がないこともあって、言われたとおり、友だちと三人で不良爆弾何発かと一緒に退避壕に入っていました。命中したらイペリットは飛散しますから自分だけじゃなく、その辺もみんなやられる。空襲のさなかに、イペリット爆弾と一緒に入っていたなんて、こんな怖い経験をした人はあまりいないんじゃないかと思いますね。 |
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朝昼晩ナス料理、救いは田舎から届く食料の小包
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篠崎 | 食べ物はどうでしたか。 |
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石垣 | 私はそれまでは田舎で、毎日、白米を食べていました。海軍は食べ物はいいという話だったので期待していましたが、あまりよくなかった。しかし、動員されたほかの皆さんのお話を聞くと、よかった方かなと思いますね。
でも、とにかくまずくて。おかずは朝昼晩ナスです。朝はナスの味噌汁、昼はナスの煮たやつ、夜はナスの蒸かしたもの。それが一か月続き、四十五キロあった体重が九月には三十七キロになってました。冬は大根が続きました。ほかの人たちは空腹だと言っていましたが、私はまずくて食べられなくて、むしろ残しました。 |
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篠崎 | おうちから何か届きましたか。 |
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石垣 | 手紙か小包がしょっちゅう来ました。 |
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篠崎 | ここが我々と違うんですよ。 |
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石垣 | おやじが、寒川へ行ったら手紙を毎日書けと。家からも一便、二便、三便とナンバー入りで手紙が来た。ということは、今と違って、先に出した郵便が後から来たりしますから、小包だっていつ着くかわからないので。
でも、餓死した人も栄養失調で倒れた人もいなかったのは、海軍で、いろんなものの配給が結構あったし、田舎から食料入りの小包が来たり、時々、茅ヶ崎辺りの知人らが食料を持ってきてくれたからだと思いますね。 |
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篠崎 | 横浜市内などに比べれば、寒川や茅ヶ崎辺りは、まだ豊かだったですからね。 |
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篠崎 | 広田さんはどこへ行かれたのですか。 |
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広田 | 私は石垣さんより少し早くて、昭和十九年五月十九日に「通年動員」の発表があり、七月十一日に初めて川崎の東芝富士見町工場に行きました。
朝八時に川崎駅前の小美屋百貨店前に集合して、工場まで歩いていきました。仕事は、備品の管理や製図とか事務でした。磯子の自宅から市電で桜木町まで行き、それから省線で川崎まで行ったのですが、すごく込んだんです。 |
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篠崎 | あばら骨が折れたとか、当時よく聞きましたね。 |
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広田 |
私の場合も五年制がなくなって、二十年三月に四年生で繰り上げ卒業して上の学校に行きました。 卒業した後も、女学校に預けられる形で、富士見町の工場が焼けた後は東芝の大宮町工場にしばらく行きました。でも、ほかの学校よりは楽だったんじゃないでしょうか。 |
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笹谷 | 空襲で工場が焼けた後に、片づけの作業とかで行った記憶はありますか。 |
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広田 | それはありません。焼けた後、川崎まで歩いて見に行きましたが、その後は行きませんでした。空襲が昼間だったら、多分生きていなかったでしょうね。夜の空襲で命拾いしました。
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篠崎 | 空襲でおうちは焼けなかったんですか。 |
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広田 | はい。川崎の工場が焼けた四月十五日の空襲のとき、磯子の家のそばまで焼けたのですが、助かりました。
あの日は、夜九時すぎに警報が発令され、高射砲が鳴りだしたので、姉と防空壕に入りました。B29を迎え撃つ高射砲が壕の中までビリビリ響いて、そのうち空一面が橙色に染まり、夜空にB29が火だるまとなってキリモミして落ちていくのを見ました。静かになって壕を出たら、八幡橋方面がメラメラ燃えていて、どす黒い煙の中に火の粉が飛んでいて、バリバリと焼ける音が聞こえるようでした。 |
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笹谷 | この日の空襲は川崎・鶴見の工業地帯の爆撃が中心で、東芝の富士見町工場周辺が爆撃中心点の一つだったようです。川崎では相当の被害が出ましたが、横浜でも、鶴見区一体が焼失したほか神奈川・保土ヶ谷・南・磯子区などでも相当数の焼失家屋が出たそうです。
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