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平成12年8月10日 第393号 P3 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 かながわの学徒勤労動員 (1) (2) (3) |
P4 | ○忘れえぬ名言 半藤一利 |
P5 | ○人と作品 黒井千次と『羽根と翼』 藤田昌司 |
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座談会 かながわの学徒勤労動員 (3)
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篠崎 | 大塚さんはいかがですか。 |
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大塚 |
海軍軍需部の兵器関係の大きな倉庫群は、横須賀線田浦駅近くにあり、長浦湾を囲む比与宇(ひよう)・日向(ひなた)・郷戸(ごうど)・ 貉(むじな)・吾妻山地区、これらが本部地区で、そのほかに逗子の池子・久木地区などにもあり、たくさんの火薬庫と弾薬庫が点在していました。火薬庫はトンネル式と平屋造りがありました。 私たちは長浦地区にいましたが、長浦湾の辺りには当時のままの火薬庫や建物が残っており、今も米海軍、海上自衛隊や民間会社が火薬庫や倉庫として使っています。 軍需部というのは、砲弾・魚雷・機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食料、被服までの一切の軍需物資を工場等から集めてきて保管し、軍艦や前線に送り出す所です。 仕事の一つは、農作業でした。池子や日向には敷地内にかなり畑があり、いろいろな野菜をつくっていました。また火薬庫の周りの防火帯や山道の草刈りもしました。
私の作業日記を見ますと、火管(点火具)、伝火筒、装弾子、信管、換栓(信管の代わりに取り付けておくもの)とか、今では理解できないような専門用語が出てきます。 二十年七月十八日の艦載機による横須賀空襲では、戦艦長門などの軍艦や母校の汐入国民学校に爆弾が落とされ被害をうけましたが、横須賀、逗子、鎌倉辺りは、ほぼ無傷の状態で敗戦を迎えました。 |
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篠崎 | お弁当でしたか。 |
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大塚 | はい。日記を見ると配給が二十何回あって、一番最初に配給があったのは十二月二十七日にパン三個で十五銭。十二月三十日はパン四個、一月七日はミカン十五個、一月十日がギンザケの缶詰、一月十二日はミカン八個、一月十三日が靴と靴下一足、乾パン、地下たび。何日かおきにお菓子やミカンなどの配給があったんです。これは一つは軍需部だからよかったのかもしれませんが。
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石垣 | 海軍は、割合、配給はよかったんですね。 |
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金沢文庫の海軍航空技術廠支廠で見習工の技術修練
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篠崎 | 私も海軍の工場でしたが、よくなかったですよ。 私たちは最初は、二年生の昭和十九年の冬に、鶴見の森永製菓に行って航空食のパッケージをつくりました。 その後、二十年五月二十九日の横浜大空襲のあとすぐ、六月十日から金沢文庫にあった海軍航空技術廠支廠に動員されました。私の場合は石垣さんとは別な意味で寮に入ったんです。というのは空襲で家が焼けて、住む家が なくて寮に入ったんです。 食事は雑炊でしたが、雑炊とは名ばかりでお湯ですよ。それも塩っけが足りない。下に少しかすがあるぐらい。 直径五センチ・長さ五センチぐらいの円柱の鉄の塊を渡され、それを立方体にするという仕事でした。多分見習工の技術の修練だったと思う。 まず、作業台に固定した円柱の塊にノミを当てて、ピッピッという笛の音にあわせてハンマーでパンッパンッと打って荒削りな立方体にする。それを今度は三十センチぐらいのやすりで、これも笛にあわせてグッグッと 削る。そのあと、小さなやすりと、ノギス、マイクロメーターを渡され、何センチの立方体をつくれと。それがほぼできあがったときに終戦になりました。 |
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大塚 | 碇義朗著『海軍空技廠』によると、海軍航空技術廠が横須賀の浦郷にできたのが昭和七年で、十六年に金沢に支廠がつくられ、兵器部がそこに移転しています。
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十畳間十人の寮生活火叩き棒を使ってシラミをつぶす
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篠崎 | 石垣さんの寮生活はどんな感じだったんですか。 |
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石垣 | 海軍の錨マークのついた毛布が、冬は七枚ぐらい支給になる。下へ三枚ぐらい敷いて、上に封筒みたいに
して十畳間に十人ぐらい寝る。寝る時間も起きる時間も畳み方も決まっている。畳み方が悪いと「やり直せ」ってぶちまけられる。厳しいですよ。 夜九時ごろ点呼があるんですが、外出して帰ってこないのがいたりすると、大変なことになるので、毛布の 中に寝巻を押し込んで寝ているように膨らませて「第何班総員十名、病臥一名、現在員九名」と報告する。 |
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篠崎 | 私たちの寮は全然違います。ノミだらけですさまじかった。それから汲み取り式のお手洗いはウジです。夜になるとそれが一斉にはい出し、こわくて中に入れない。
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石垣 | 我々はシラミがすごかった。一匹ずつではとてもつぶしきれないので、下着をテーブルの上に置いて、防火
演習のときに使う火叩きの棒でうどんをのすみたいにやると、ピシピシとつぶれる。今考えてもゾッとしますね。 |
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篠崎 | 勤労動員に行って、最も印象に残っていることは何ですか。 |
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広田 | 学校の中だけじゃない社会勉強を初めてしたという感じでしたね。周りに工員さんが多かったのですが、変わった人もいましたが、立派な人もいて、いろいろ教わりましたね。人間の偉さとかすばらしさは学歴ではないということを随分教わった気がします。
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篠崎 | 大塚さんはいかがですか。 |
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大塚 | 火薬庫でしたから事故もあり得たのに、幸いそういうことは起こらなかった。それから、空襲で直撃を受けた
経験はなかったのですが、石垣さんのイペリットの話ではないのですが、逃げるのは火薬庫の中なんです。 ですから、もし直撃を受けていたらと思うとゾッとします。今思えば恐ろしいことです。中学一年生で火薬庫の中で仕事をするんですから。
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石垣 | 私の所には偉い先生がいて、今でも感謝しているんです。どの先生が海軍工廠に一緒についていくかが、
かなり問題になったようです。あとに残った下級生の授業もあるから、必ずしも担任が行くということではなかったようです。それで、後になってからですが、担任の先生がつくられた短歌を見たんです。
「生徒らがこぞり行くなり受持の我おめおめといかで残らむ」 |
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篠崎 | それでその先生はいらしたのですか。 |
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石垣 | 来られたんです。そして二月ごろでしたが、その先生が深夜、生徒を集めて、薄暗い照明の下で島崎藤村の
『若菜集』の講義をした。あのころ恋のうたなんてとんでもない話なんです。君たち、これから平和になるからこういうのを読めと、ひそひそと講義をした。日記に「今夜は異様な空気だった」と書いてある。
いろいろ思い出すと、本当に涙が出るぐらいですが。 |
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相模海軍工廠で下級生もいない卒業式
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石垣 |
それで海軍工廠には終戦まではいなくて六月二十日に全員寒川から帰りました。帰るときにも、その担任の先生が「生徒の荷物を運ぶのでトラックを出してくれ」と言ってもらちがあかない。それで「出すと言ったじゃないか、軍人の風上にも置けない」「軍法会議にかけるぞ」などと言って海軍将校を一喝したのを覚えています。 先生があんなに怒ったのを初めて見ましたね。ところがその先生は戦後、教職追放になった。でも、いい先生に引率されたと思ってます。 |
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篠崎 | そうですね。生徒のことを本当に大事に思ってくださっている先生で、それだけに石垣さんたちにも印象が深いんでしょうね。
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篠崎 | 県外からの勤労動員がたくさんあったというお話がありましたが、そのほかに神奈川県の勤労動員の特色にはどういうことがあるのでしょうか。
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笹谷 | 最近、詳しいことがわかってきたのですが、勤労動員のなかに「学校工場」があったということですね。とくに女学校などは学校の教室に機械を持ち込んだりして作業をしています。
先日、小田原高等女学校(現県立小田原城内高校)の方々にお話をお聞きしたのですが、三年生は小田原製紙工場や横須賀海軍工廠平塚分工場に動員されますが、二年生の大半は校内に併設された内閣恩給局に、一年生も校内に置かれた「学校工場」に動員されていたそうです。 「学校工場」では楮(こうぞ)の皮むきをしたそうで、これが「風船爆弾」の材料になったわけです。昇降口に木製の水槽がつくられ、そこに楮の束を一晩つけておいて柔らかくして翌日皮をむく。ノルマがあって終わらないと家まで持って帰った人もいたそうです。 それから県立平塚高等女学校(現県立平塚江南高校)も一、二年生が「学校工場」で飛行機凧をつくっていた。だから、動員から学校に戻ったら、ものすごく荒れていたという話は聞きます。 もう一つは、そういう所で国民学校、今でいう小学校の高学年の生徒たちが働いている。これは学校から学生がいなくなったということなんです。「学校工場」ができた背景には、学徒がみんな勤労動員されて、学校が機能しなくなったというのがあるわけです。学校は工場になったり倉庫になったり、いろんな使われ方をされた。 |
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広田 | 共立女学校は昭和十九年七月に、本校舎と体育館が海軍に接収されています。 |
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大塚 | 逗子開成は校庭は砂地ですから、そこを掘って机、いすを全部埋めてありましたね。動員された後も、月に何回かは授業がありました。日記によると、二十年四月十八日(水)は一校時は教練で銃剣術、二校時は物象ですから物理、三・四校時が数学、五校時が漢文、六校時が教練。一週間に一回ぐらいですから顔合わせみたいなものだったんでしょうかね。
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広田 | 共立女学校も登校日はあって、そういう日はうれしかったです。勉強はしなかったのですが、キリスト教の学校ですから集まって礼拝をすることだけでも意味があったんです。
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青年団や中学校に植林を奨励した「報国造林」も
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大塚 | あと報国造林があります。神奈川県は、ほかの県より早い昭和十四年に「神奈川県報国造林奨励規程」と
いう条例をつくりました。補助金を出して、青年団や中学校に植林を奨励したわけです。 神奈川県内のかなりの学校が、そういう山の植林作業をやっている。木を植えると、しばらく下草刈りをしないと木は育たないので、それを各校が分担して、それぞれの山でやっています。 私たちは十九年九月に大山第二報国造林に四日続けて行っています。葉山と逗子の境の二子山の近くです。それから二十年八月六日から十一日までの一週間は葉山の木古庭にも行きました。これは私たちだけではなく、当時の横須賀中学校、三浦中学校など周辺の学校が割り当てられて行ったようです。女学校も含めて、何人出しなさいという割り当てが県からいって、造林作業や下草刈りの作業をしたということが一つあります。 |
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県内・県外の生徒が一緒に苦労をした神奈川県
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笹谷 | 学徒勤労動員は学校単位の話なんです。学校単位で百何人と行ったわけですが神奈川県の場合は、県内の学校の生徒と県外の学校の生徒が一緒に苦労をしたというのが大きな特徴だと思います。
もう一つは、犠牲になった学徒が随分多かったことと、病気で行方がわからなくなった学徒たち、それから特に女性では、健康管理が非常にずさんで、随分つらい思いをした方がいた。そういう負の部分がなかなか表に出ていなかったのですが、死者が百四十人以上も出ていたことなどもわかってきています。 神奈川県の場合は、焼失した学校が多かったり、あるいは戦後変わった学校がある中で、石垣さんたちのように他県の学校からきた方々が当時の記録を持っておられて、動員体制の状況がわかるようになった。県外の方がこれほど資料を保存されていなかったら、神奈川県の勤労動員は本当にわからなかっただろうと思います。 |
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天皇陛下が負けたと言うわけがないと思って聞いた玉音放送
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篠崎 | 終戦ということを聞いて、どういうお気持ちでしたか。 |
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石垣 | 私は六月に下田へ帰りましたから、自分の家で聞きました。ちゃんと聞こえましたが、意味がわからなかった。ということは、頭の中に負けるわけがない、天皇陛下が負けたなんて言うわけがないということがあったので。
それと、今考えてみても、耳から聞いて、あの文章はわかりにくい。「康寧(こうねい)ヲ図リ」と言っても、どんな字だかわからない。降伏すると一言も言ってないんですから。 |
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広田 | 私もうちで聞きましたが、がっくりきましたね。そんなことがあるかと思って泣きました。今まで何のために戦ってきたのか、その敗北の屈辱感。今思うと、そのときの日記は恥ずかしくてどなたにも見せられないですね。気持ちが高ぶっていました。
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大塚 | 私は、そんなに大きなショックは受けなかった。一つには、何日か前に軍需部の兵隊さんから、もう日本は
終わりだということを聞いていたんです。それに沖縄や方方がやられて、かなり追い詰められたような状態 でしたから。ただ、家に帰ると、母親はすごくショックを受けて泣いて悔しがっていました。
私はその後に、民主主義で百八十度転換したときのショックのほうが大きかったですね。今まで大事にして きた教科書を塗りつぶしたり破ったり。教育の恐ろしさですね。 |
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篠崎 | きょうは貴重なお話をありがとうございました。 |
いしがき はじめ |
一九二八年静岡県生れ。 |
おおつか かずゆき |
一九三一年横須賀生れ。 |
ひろた かずえ |
一九二八年横浜生れ。 |
ささや こうじ |
一九五八年川崎生れ。 |
共著『学徒勤労動員の記録』高文研1,890円(5%税込)。 |