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平成12年9月10日 第394号 P1 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 氷川丸・70年の航跡 (1) (2) (3) |
P4 | ○鎌倉彫 薄井和男 |
P5 | ○人と作品 米沢富美子と『二人で紡いだ物語』 藤田昌司 |
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座談会 氷川丸・70年の航跡 (1)
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はじめに | |||
篠崎 |
そこで本日は、氷川丸の船内に会場をお借りしまして、実際に氷川丸に乗船されたときのご体験などを中心にお伺いしながら、昭和三十六年に氷川丸が係留船となるまでの軌跡を昭和の歴史とともにたどっていきたいと存じます。 ご出席者を五十音順でご紹介させていただきます。 竹澤鍾様は、氷川丸が海軍の特設病院船であった時代の昭和二十年(一九四五)から復員・引揚船時代の昭和二十一年にかけて、三等航海士として乗船されました。また『病院船氷川丸を讃える歌』の作詞もされております。 細野信三郎様は、氷川丸が戦後に客船として復帰した時代の昭和二十四年(一九四九)と、昭和二十八年(一九五三)に司厨(しちゅう)員(ボーイ)として、さらに昭和三十二年(一九五七)には司厨手(アシスタントマネージャー)として乗船されました。 吉月朱美様は、昭和三十四年(一九五九)に宝塚歌劇団が北米公演をおこなった際に、歌劇団の一員として、横浜からカナダのバンクーバーまで乗船されました。 金澤寛治様は、横浜市中区海岸通にあります日本郵船歴史資料館の館長代理を務めていらっしゃいます。 |
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篠崎 | まず、氷川丸の竣工から戦前のお話を金澤さんからお願いします。 |
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金澤 |
シアトル航路は明治二十九年(一八九六)に開設しましたが、日本郵船というか日本にとって重要な航路でした。パナマ運河が開通していなかった明治時代にアメリカ東部に輸出する貨物は、シアトルに陸揚げして、グレートノーザン鉄道でニューヨークをはじめとする東部の各都市まで輸送したのですが、それが一番速い方法だったわけです。 地球儀で横浜・シアトル間に糸を当てるとアリューシャン列島の北側を通ります。これが最短距離で大圏航路といいます。当時はアリューシャン列島の北側は航海しなかったので、氷川丸はアリューシャン列島の南側スレスレを常用航路としました。北の海ですから冬は時化たわけです。 氷川丸が竣工した昭和五年は大恐慌の後でしたが、日本郵船が豪華客船の時代を迎える幕開けの時代でもありました。 まず、昭和四年にサンフランシスコ航路の豪華客船浅間丸が竣工します。一万一千六百二十一トンの氷川丸よりも大きい一万七千トンです。 昭和五年にはシアトル航路の氷川丸と、氷川丸の姉妹船の日枝丸、平安丸、サンフランシスコ航路の秩父丸(後に鎌倉丸)と龍田丸が竣工し、両航路に就航します。 |
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日本の地名、山や川の名前がつけられた日本郵船の船
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金澤 | 昭和六年に書かれた『日本郵船船名考』によりますと、日本郵船の船名は、日本の地名、山や川の名前を由来としています。
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竹澤 | イニシャルのHをとって氷川丸、日枝丸、平安丸と命名した。姉妹船はイニシャルでまとめるんです。
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細野 | 欧州航路では香取、鹿島とつけた。これは神宮名です。だから入港すると横浜からみんなお参りに行った。
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金澤 | サンフランシスコ航路の三隻は、当時の逓信大臣の安達さんの頭文字をとって浅間丸、龍田丸、秩父丸と命名したとの話もありますが、真偽のほどは判りません。その後、日本郵船のNYKをとって新田丸、八幡丸、春日丸と命名した姉妹船も建造されました。これは神社名です。
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細野 | 春日は竣工前に長崎で空母になったんです。 |
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チャップリン、秩父宮ご夫妻、嘉納治五郎らが乗船
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金澤 |
その後、昭和七年の第十一次往航では、「街の灯」を撮った後のチャールズ・チャップリンが来日して、氷川丸で帰国しました。チャップリンはてんぷらが好きで、部屋に器具を運んでつくって差し上げたという話が残ってます。 昭和十二年十月の第四十七次復航には、英国王(ジョージ六世)の戴冠式に出席された秩父宮ご夫妻が帰国される時、カナダのビクトリア港から横浜まで乗船されました。 昭和十三年の第五十一次復航には、カイロで開かれたIOCの会議に、オリンピックを東京に誘致するために出席した柔道の嘉納治五郎さんが乗船され、日本に着く二日前の五月四日に肺炎で亡くなられました。 昭和十四年七月の第五十九次復航には、宝塚少女歌劇団がサンフランシスコ公演を終えて、シアトルから氷川丸で帰国しました。往きは鎌倉丸でした。そのときの乗船名簿によりますと、総勢五十六名で会長は渋沢秀雄さん、渋沢栄一のご子息です。そのときの住所を見ますと、宝塚辺りは兵庫県川辺郡小浜村となっています。当時は、まだ村だったのですね。 |
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吉月 | 私が入団した頃も、まだ宝塚市伊子志山畑という所に寮があって、何ともいえずさびしかったですね。
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金澤 | 昭和十四年は、欧州で第二次世界大戦が勃発する直前で、日米間にも暗雲がたちこめていたわけですが、宝塚の皆さんは日米間の親善のために尽力されるわけです。
そういった状況のもとで、昭和十六年七月にシアトル航路は閉鎖されますが、氷川丸はその後、一航海だけ、政府徴用引揚船として在日外国人を乗せてバンクーバーとシアトルに行き、在外邦人を乗せて昭和十六年十一月十八日に横浜に帰ってきています。 |
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貨物は、往航は生糸、茶、陶器 復航は小麦、銅など
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篠崎 | その頃は何人ぐらいお客様が乗れたんですか。 |
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細野 | 氷川丸は大体三百人くらいです。 |
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金澤 | 氷川丸はお客様と貨物と両方なのです。貨物は往航は生糸、茶、陶器や雑貨など、復航は小麦、銅や牛皮などです。サンフランシスコ航路の浅間丸や鎌倉丸はお客様が主で、定員が八百人でした。
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篠崎 | 戦前は、乗客の比率は日本人と外国人どっちが多かったんですか。 |
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金澤 | やはり日本人が多かったですね。 シアトルという町は、氷川丸に対してものすごく強い思い入れがあったのです。シアトルはグレートノーザン鉄道を父、日本郵船を母として繁栄した町であると。 |