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平成12年9月10日 第394号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 氷川丸・70年の航跡 (1) (2) (3) |
P4 | ○鎌倉彫 薄井和男 |
P5 | ○人と作品 米沢富美子と『二人で紡いだ物語』 藤田昌司 |
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座談会 氷川丸・70年の航跡 (2)
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金澤 |
南方諸島からの傷病兵の輸送にたずさわるわけですが、その間の記録は、海軍に徴用されていたので日本郵船には残ってないんです。竹澤さんはその終わりころに乗船されるわけです。航海日誌も何も残ってないので確かなことはわかりませんが、推定すると三万人に近い傷病兵を輸送したのではないでしょうか。 |
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国際法で守られている病院船でも沈められた
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竹澤 | 私が乗ったのは昭和二十年一月十七日ですから、戦況も非常に不利になって、日本内地が連続で空襲を受けているときです。それからが氷川丸の苦難の道でした。
私が乗ったのは第二十三次航で、横浜で乗船しました。日本の内地から外に出ればもう敵の制海権・制空権の中でした。 終戦までに、ジャワに二航海行きました。飛んでくる飛行機はみんな敵の飛行機で、病院船は国際法で守られているとはいいますが、その頃、日本の病院船のぶえのすあいれす丸(元大阪商船南米航路の客船)は沈められている。そういう話ももちろん知った上で乗ったわけです。 ぶえのすあいれす丸がなぜ沈められたかというと、ぶえのすあいれす丸は兵隊を乗せていたんです。敵の偵察機が飛んできて、「病院船だ」ということで帰っていったんですが、ぶえのすあいれす丸に乗っていた兵隊が、攻撃を受けると思って、その偵察機を鉄砲で撃ったんです。ですから煙突に爆弾を入れられた。煙突に爆弾を一つ入れられれば、もう船は轟沈です。 敵の偵察機が飛んできた場合には、船の針路を変えるときがあります。でも、変えたくても変えない。変えると怪しまれるから。船長も、操舵手に「舵を曲げるな、曲げるな」と言って、気を使ったくらいなんです。 |
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磁気機雷に触れたが無事に済んだ氷川丸
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竹澤 | 実は氷川丸にもそういう受難の歴史があったのです。私が乗る一つ前の航海でしたが、昭和十九年十二月の半ばにマニラに寄港したときに、マニラが敵の機銃掃射を受けて、巻き添えをくっています。
国際条約では、空襲の中にいた病院船は巻き添えをくって沈められても、これは別に問われないという条項があると聞いております。 それから横浜からジャワのジャカルタに行ったときのことですが、途中シンガポールに寄ったのですが、そこに、上を船が通ると磁気を感じて爆発する磁気機雷が敵の飛行機から投下されて、海底に敷設されていた。日本近海はほとんど敷設されていました。その磁気機雷に触れてドドーンと衝撃を受けたんですが、幸いに亀裂もなくて、無事に済んだということがありました。水深が五十メートルぐらいの深い所だったので助かった。それとその頃は磁気機雷の力がそれほど強くなかったんです。 |
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米潜水艦が浮上してきて五日間並走
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竹澤 |
ところが、昭和二十年六月四日、ジャカルタからの帰りでしたが、シンガポールに寄る途中、南シナ海の南で敵の米潜水艦が浮上してきて一緒に並行して走り出したんです。 これはいつ停船命令を受けて臨検されるかわからない。当時、日本は非常に苦しい状況だったので、戦略物資なども積んでいたし、臨検を受ければ、国際法違反だから拿捕されます。その場合には船を沈めろということで、自爆装置が仕掛けられていた。だから拿捕されるぐらいなら沈めるという覚悟だった。 敵の潜水艦も臨検することには相当な覚悟がいる。だから、何のために浮上して、一緒に五日間もずうっと同じスピードで走ったのか。結局は何もなしで、五日後に消えていなくなったんですが。 |
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「限りなく故意に近い過失」で沈められた阿波丸
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竹澤 | 日本郵船の阿波丸という船は潜水艦に沈められています。米国との約束で、お互いの俘虜の物資を運ぶために、交換船ということで阿波丸が南方に行き、その帰りに台湾海峡で沈められた。
そのことについて『阿波丸はなぜ沈んだか』(松井覚進著)という本が出ています。結果的には、敵の潜水艦が間違って沈めたことになっている。故意ではないが「限りなく故意に近い過失」だと。 その本の一節に「阿波丸が撃沈された日と同じ一九四五年四月一日、インドシナ沖でアメリカ潜水艦ブルーギルは『標的』をとらえた。だが、その『標的』は照明をつけた病院船であった」。追跡してきて、何だ病院船じゃないかと。 「一万二○○○ヤード(一万一○○○メートル)に接近。とにかく、われわれはやつらを沈めることしか頭にないんだ。やつらはロクデナシだ。かけてもいい。(南へ向かった)あの船は、軍隊や引き揚げ者を乗せて戻ってくるんだ。」と、その行動記録に残されている。しかし「攻撃は控えた。」 潜水艦の乗組員が日本の病院船を見て、こういうふうに思ったということを考えると氷川丸が生き残ったことは、本当に幸運だったと思いますね。阿波丸が沈められたのもそういう状態じゃなかったのか。氷川丸も何度かそういう目に遭っているんじゃないかと思いますね。だから、機銃掃射を受けても触雷を受けても、潜水艦につきまとわれても、何事もなくて済んだ非常に幸運な船だったんです。 |
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航行中に死亡した傷病兵約百七十名を船上で火葬
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篠崎 | 傷病兵をたくさん乗せて、何日もかけて戻ってくるわけですよね。食料事情とか、薬などは、昭和二十年頃は
どんなだったんですか。 |
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竹澤 | もちろん食料は不足していましたが、ジャカルタまで行くので、外地での補給があり、食料には不自由しませんでした。特にジャワは砂糖が豊富ですから、乗組員に砂糖は一袋配給があったぐらいです。私はうちに持って帰りました。戦争中は砂糖は貴重ですからね。私のうちは東京でしたが、四月二十三日の空襲のとき、母は砂糖を持って逃げたそうです。(笑)
薬なども、非常に緊急状態だったんですが、かなり豊富だったと思います。 その頃の氷川丸には乗務員百三十名、医者などの病院関係乗務員百三十名、そのうち看護兵が六十名、病人は二~三千人乗船していました。病人は貨客船時代に倉庫として使っていた船倉の一部を改装した病室に乗せていました。 傷病兵の中には、航行途中で亡くなる人もかなりいて、煙突の横に死体を焼く火葬場があり、百七十名ぐらいを火葬したと思います。その時々の風向きによって煙がたちこめてすごい臭いでした。 また精神を病んだ傷病兵たちは、放っておくと海へ飛び込んで自殺をはかるので、彼らを収容する部屋が船倉にありました。それでも必死に逃げ出して自殺する者はいました。日本へ戻ると横須賀ヘ入港し、傷病兵たちは海軍病院へ収容されました。 |
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夜間は赤十字の印がライトアップ
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篠崎 | 竹澤さんがお乗りになった病院船のときは、船の色などは、今とは違っていたんですか。 |
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竹澤 | 船体は真っ白で、赤十字が船体中央部分に二つと煙突に一つ描いてあり、病院船であることを証明するため夜間は赤十字の周りを赤いライトで照らしているから、赤十字が浮き彫りになっています。デッキには青いライトが並んでとてもきれいでした。
それからフライングブリッヂ(船橋の屋上)には、飛行機から見えるように、対空用に赤十字を描き、赤灯で縁取りされていました。そこに方位をはかるコンパスがあり、私はそこに当直中に上がるんです。それで、南方に行くから上下白服ですから、ライトで照らし出されると舞台で照明を受けているようで、とてもいい気分になる。 |
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篠崎 | 三姉妹のうちの平安丸と日枝丸はどうなったのですか。 |
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金澤 | やはり海軍に徴用されて、二隻とも撃沈されました。日枝丸は、昭和十八年十一月にトラック島付近で米潜水艦の雷撃を受けて沈没し、平安丸は、昭和十九年二月にトラック島の港内で米軍機の空襲を受けて沈没しました。
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篠崎 | それで、終戦になったら、今度は復員船になったわけですね。 |
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金澤 | そうです。六百三十万総トンあった日本の商船隊は終戦時は壊滅状態になりました。大型外航船は、氷川丸を入れて五、六隻しか残らなかったといいます。ところが南方の島々や旧満州など大陸に残っていた人々は六百三、四十万人もいた。半分が民間人で、半分が軍人です。特に南方の島々に取り残された軍人や傷病兵は、輸送路を断たれて飢餓状態にあり、復員が急がれた。氷川丸は、まずその輸送にたずさわるわけです。
その復員輸送を一年、七航海やって、その後、一般邦人の旧満州からの引き揚げに三航海、マニラからの引き揚げに一航海従事しました。 |
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竹澤 |
復員船が終わってから、中国からの引き揚げを三航海やりました。そのときのことですが、私は航海士ですので、当直が終わると船内巡回をするんです。そのときに九歳と八歳の女の子と男の子の孤児と知り合って、その子たちが降りるときに私は「何か困ったことがあったら連絡しなさい」と名刺を渡した。 その子たちは富山県のおばさんの所に預けられて、おばさんに名刺を渡したらしいんですね。それでおばさんが亡くなるときに、その名刺を見せられ、女の子が富山県の日本郵船の支店に問い合わせて私の住所を調べて手紙をくれたんです。そこから文通を始めて、三十五年ぶりに氷川丸で会ったんです。いいお母さんになって……。現在も健在です。その時のことは日本テレビの「豪華船氷川丸物語」で放映されました。 |
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昭和二十二年四月から大阪・小樽間の内国航路に
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金澤 | 氷川丸の一般邦人の引揚輸送の任務が終了したのは昭和二十二年一月です。当時、日本はまだGHQから外国航路が許可されていませんでしたから、氷川丸は二十二年三月から内航(内国航路)に就航しました。
その頃の日本は鉄道輸送もままならない時代でした。ところが船は大量輸送ができるわけです。三月から、函館を起点に小樽・横浜・大阪、そして横浜・函館・小樽というピストン輸送をやりました。 |
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細野 | 大阪から小樽までの定期船は、お客さんがいっぱい乗った。それで下のBデッキは畳の部屋にしたんです。
畳にした方がお客さんを余計に乗せられますから。 |
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金澤 | 昭和二十二年五月二十九日の航海では、長谷川如是閑、柳田國男、田中美知太郎、久米正雄、川端康成、小林秀雄、中谷宇吉郎、清水幾太郎、川上徹太郎、亀井勝一郎、中村光夫、嘉治隆一、この方々が一団となって横浜から乗船して北海道に行き、六月十日にまた氷川丸で帰って来ています。
翌昭和二十三年には高浜虚子一家が北海道に行く。船内で毎日句会をやるわけです。それでまた小樽から横浜まで帰ってくる。その頃は、結構そういう方たちが乗られた。 ただ、新聞には、氷川丸もとうとう内航に落ちたとか、闇船になったとか書かれました。北海道には小豆とかがまだたくさんあって、そういうものを山ほどしょって帰ってくる方が多かったんです。ですから、別に闇船に落ちたわけじゃないんですけどね。 |
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竹澤 | 外国航路の船が身を落としたというようなね。 |
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郵船の厳しいマナーは瀬戸内海航路で好評だった
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竹澤 | 日本郵船も今後は内航で生きるしかないということで、瀬戸内海で復活しようと昭和二十三年に舞子丸を建造したんです。二千トンの、新田丸を十分の一に小さくした客船なんです。
瀬戸内海は関西汽船の縄張りですが、そこへ日本郵船が割り込んでいった。四国の人は今のように連絡橋がないので船に乗り慣れていた。ちょっとしたマナーのことでも、「さすがに日本郵船ですね」とお客さんに言われましたね。 |
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金澤 | そのときにマリンガールというのを募集した。 |
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竹澤 | マリンガールを乗せるということは、他の汽船会社とは違うんだということでした。五名募集するのに四、五百名ぐらい応募があった。
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篠崎 | その後、シアトル航路に復帰するわけですね。 |
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金澤 | いえ、その前に、日本は食糧不足でしたので、昭和二十四年からビルマ(現ミャンマー)やタイに米積みに行きました。それは外国航路を再開したということではないんですが、それが戦後、外航に行った始まりですね。
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