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平成13年5月10日 第402号 P3 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 海軍の町 横須賀 (1) (2) (3) |
P4 | ○明治天皇の肖像 横田洋一 |
P5 | ○人と作品 佐藤愛子と『血 脈』 藤田昌司 |
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座談会 海軍の町 横須賀 (3)
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田中 | 「信濃」は、それをやらなかったから沈んだとも言われるくらいなんです。 |
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猪狩 | その穴のあいた外板を二十日間ぐらいで元通りにした。交代で徹夜でした。 |
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田中 | そのぐらいで修理できるのは優秀ですよ。 |
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山本 | 航空母艦の「大鳳」はバウの右側にアメリカの魚雷を刺したまま横須賀に帰ってきて、修理をしています。
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田中 | そのあと、昭和十九年六月のマリアナ沖海戦で魚雷を受けて沈没する。 |
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篠崎 | 横須賀はそれだけの設備を持っているのに、大きな空襲はなかったのですね。 |
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田中 | アメリカは残そうというつもりだったんですよ。「長門」などは終戦の日までここに係留されて砲術学校などに使われた。艦載機から機銃掃射を受けたぐらいです。
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篠崎 | 横浜も同じですね。横浜も港や進駐した後に使う施設は残されている。 |
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田中 | でも、横浜は市街地は徹底的にやられましたね。 |
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篠崎 | その頃、海軍工廠には何人ぐらいの従業員がいらしたんですか。 |
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猪狩 | 終戦のときは十万人ぐらい。私が入ったときは二万人でしたが。十万人と言ってもみんな仕事ができるわけじゃない。学徒勤労動員の、今で言うと十五、六歳の高校生も
随分いましたからね。最後には芸者さんたちも来た。仕事ができなくても、とにかく人を集めた。 |
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篠崎 | それが女子挺身隊ですね。私は当時女学生で、勤労動員でした。金沢文庫の航空技術廠支廠で終戦まで働きました。
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猪狩 | 海軍工廠は八百人ぐらい入れる宿舎をつくって、子供でも女性でも徹底的に人を集めた。ですから、そういう動員された人たちを入れて十万人です。
そういう人たちは物を運んだりとか、掃除をしたりとかで、随分役に立ちましたね。 |
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篠崎 | 横須賀には海軍関係の教育施設、つまり学校は、幾つぐらいあったんですか。 |
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山本 | 水雷学校、通信学校、機雷学校、工作学校……。 |
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猪狩 | 私は工作学校に三か月行った。 |
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田中 |
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篠崎 | 地元の人だけではなく、全国から集まってきたわけですね。 |
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田中 | ええ。 |
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山本 | それは海軍の人間を教育したんです。民間とは関係なしに。 |
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田中 | 潜水学校や航海学校もありました。電測学校はレーダーの学校ですが、これは最初に横須賀につくられて、その後、藤沢に移った。
中学校を出た人を軍に入れるという学校もありましたが、兵隊さんたちを専門教育するための学校がほとんど横須賀に集まっていたということです。 |
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海軍が肝入りでつくった逗子開成
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篠崎 | そうすると、横須賀は、軍関係の人が随分多かったということでしょうか。 |
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猪狩 | 多かったですよ。 |
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田中 | 海軍が肝入りでつくった学校が逗子開成です。横須賀には兵学校を出た軍人の子供が行くいい学校がない。そこで、東京の開成に負けないような学校をと
明治三十六年に田辺新之助が創立した。大正八年から終戦までは退役海軍少将が三代続いて校長になっています。明治の頃は、軍人のできのいい子供は 逗子開成に行った。鎌倉女学院も田辺がつくった学校です。
明治四十三年に、「真白き富士の嶺」のボート遭難事件が起こったとき、ボートの捜索に海軍の船がどんどん行くんです。何で一学校のために海軍の船が出るのか、 だんだん理由がわかってきた。 そのとき沈んだボートは軍艦「松島」のカッターなんです。台湾の高雄で爆発で沈んだ「松島」を引き揚げたとき持ってきて寄贈したんです。 |
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山本 | カッターというのはオールが太くて、中学生では漕げないはずですね。 |
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田中 | 十二人の生徒が乗ってましたが、漕いだのは二十歳ぐらいの人です。 その後、だんだんと横須賀の公立学校も整備され、逗子まで行かなくて、地元の学校へと変わっていきます。 |
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篠崎 | 戦争末期は、猪狩さんはどんなお仕事をされていたんですか。 |
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猪狩 | 海軍工廠にも材料がなくなって、人間魚雷というか、特殊潜航艇を盛んにつくった。潜水艦のような形をした一人乗りで、前に火薬を詰める構造のものです。
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田中 | 「回天一型」ですね。 |
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猪狩 |
それをつくっていたとき、その船に乗る少年航空兵が横須賀航空隊から来て、でき上がる寸前までいろいろやっていました。「菊水隊」といって菊のご紋の鉢巻きをして、 本当にまだ十七、八歳の少年で産毛があって、ほっぺににきびがいっぱいあるような兵隊ばかりです。軍人精神をたたき込まれているから礼儀は正しい。 私も何隻かつくったけど、数か月後には終戦になったから、あの若い兵隊たちも助かってよかったなと、いまだに思っています。 |
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篠崎 | 油壺には、今でも、そういう特殊潜航艇を隠したという洞穴がいくつもあるそうですね。 |
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猪狩 | あそこが基地で、そういう船を隠すにはちょうどいい所なんです。 |
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最後の仕事は松代・大本営の防空壕の扉づくり
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田中 | 終戦の頃、横須賀海軍工廠には十万人近くいたわけですね。当時、呉が六万人ぐらいですから、横須賀は圧倒的に多かったんですが、
そのほかにはどんなことをなさっていたのですか。つくる船もないし。 |
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猪狩 | 当時、私には部下が二、三十人いたんですが、修理船が来たときに間に合うように部品をつくるとか、もうそういう仕事ぐらいしかなかったですね。
それで、二十年の三月から六月頃までは、部下と一緒に群馬県の中島飛行場の太田工場に行かされて、機体の組立作業をやりました。 |
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田中 | 横須賀でつくった最後の船は何ですか。 |
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猪狩 | 昭和十九年にできた「信濃」が最後です。そのあとは船らしい船は全然つくってないです。「信濃」に全材料を使った。
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田中 | 「信濃」という空母は「大和」や「武蔵」と並ぶ超大型の船で、昭和十九年十一月に空爆を避けるためといわれていますが、夜間、呉に向かう途中の潮岬沖で、
完成からわずか十日でアメリカの潜水艦に撃沈された。もうこの時点になると、東京湾の入口にもアメリカの潜水艦網が張りめぐらされていたんです。 |
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篠崎 | 工廠にいらしたほかの方がたは、防空壕掘りを随分やっていた、ということでしたが。 |
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猪狩 | 私は防空壕掘りはやらなかったけど、中島飛行機から帰ってきたあとですが、長野県の松代に大本営が移るので、その防空壕の扉の注文が海軍工廠に来て、
それをつくりましたね。 |
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篠崎 | どのぐらいの厚さの扉ですか。 |
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猪狩 | 厚さは四十ミリ。材料も高張力鋼と言って、普通の鉄と違うんです。 |
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田中 | 延びるんです。 |
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猪狩 | すごく強い材料なんです。それで、あの頃は車も四トン車ぐらいしかない時代だったから、その扉を小さく刻んで松代に持っていって、
向こうで組み立てるということだった。その扉が半分ぐらいできたところで終戦になったんです。それが海軍工廠での私の最後の仕事でした。 |
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日本語で書いた米軍のビラがまかれた終戦間際
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猪狩 | 終戦間際になると、アメリカ軍の飛行機から撒かれたビラがよく工廠の中に落ちて来ましたね。
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田中 | アメリカの艦載機の機銃掃射も受けたんじゃないですか。 |
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猪狩 | 機銃掃射は余り記憶にないですが、ビラですね。「あなた方は国のため働いているのかもしれないが、もうすぐ戦争も終わるし、むだな抵抗はやめて、早く自分の生まれ故郷に帰りなさい」
なんてことが日本語で書いてある(笑)。それを艦載機が空から撒いたんです。 最初のうちは、海軍の偉い人も「拾っちゃだめだ」なんて言ってたけど、七月頃からは拾っても何も言わなくなった。実際ビラのとおりになったから、あのビラが印象に残っている。 |
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篠崎 | 山本さんは終戦のときはどちらにいらしたのですか。 |
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山本 | 十九年の二月まで横須賀航空隊にいて、最後は鹿児島県の垂水航空隊です。琵琶湖で訓練をやろうということで、大津の航空隊に行ったのですが、すぐに終戦になった。
それで後、池田に防空壕を掘り、飛行機魚雷を百五十本置いた。実用頭部という爆薬が入っているのも百五十あった。どうしようかと心配していたら、アメリカの陸軍が 来て、管理してくれました。 |
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田中 | 終戦の日、負けたという話が伝わった後、海軍工廠では、いろんな文書類をどんどん燃やし始めたんじゃないですか。
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猪狩 | はい。終戦のときに穴を掘って、そこに埋めたり書類を焼いたりした。 |
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篠崎 | 穴の中には何を埋めたんですか。 |
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猪狩 | いい機械がいっぱいあったからね。工作機械も埋めました。材料はそのままにして。時々私のいた所に行くと、米軍はコンクリを打ってそのまま使っているから、
このコンクリの下には機械があるんだと思いましたね。 |
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田中 | 文書類はどのぐらい燃やしましたか。 |
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猪狩 | 秘密書類は、我々が使った軍極秘の設計図も庭いっぱいあった。だから、「信濃」をつくった図面もみんな焼いたはずです。
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田中 | 鎮守府でもどんどん燃やしていたんでしょうね。 |
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猪狩 | 普通の書類でもみんな焼いた。十五日に終戦で、二十七日に進駐してくるというので、それまで四日間ぐらい焼いたね。それで戦争に負けたけど、みんな喜んだ。
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篠崎 | 喜びましたか。 |
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猪狩 | 命は助かるし、生まれ故郷には帰れるし。でも泣いて動かない人も随分いた。私も海軍工廠に十年いて、やっと何十人かの部下を持つ地位にあったから、これがみんなだめに
なったのかと思って悔しくて泣いた。 |
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田中 |
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猪狩 | それで田舎に帰れると思ったけど、結局、横須賀に住み着いてしまった。横須賀には私のように、地方から出てきて海軍工廠で働いて、
そのまま住み着いた「一世」が随分いるんです。戦後、私が勤めた「湘南産業」は、工廠の仲間がその技術を生かしてつくった会社なんです。 |
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日本の敗戦は相手国の基礎的研究の不足から
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篠崎 | 日本の敗戦は情報収集が足りなかったという方もいらっしゃいますが。 |
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田中 | アメリカ軍は日本の情報をかなり的確に把握しています。これを、日本にスパイがいたからという方もいますが。けれども、たとえば上空から航空写真を撮影して分析すれば
わかることです。実際にアメリカ軍は航空写真をもとに空襲などを計画しています。 戦地でも、敗走した日本軍が残していった飛行機を分解したり、兵器などを実際に試したりして、かなり情報を集めていた。また日本軍は機密文書も 戦地まで持って行く。それを解読されてもいる。アメリカ軍は機密書類を前線まで持っていくようなことはしない。ルース・ベネディクトの『菊と刀』と いう本がありますが、これは、戦争に勝つために日本人の国民性を研究するというのが執筆された動機です。 日本は日露戦争の日本海海戦のように、相手がどう動くかということしか考えない。日本はそういう基礎的な研究をしていなかった。 |
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横須賀は海軍の影響を受けながら発展してきた
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田中 | 横須賀という町は、今までお話にあったように海軍と結び付いて発展してきたわけですが、大正三年に第一次世界大戦が始まると軍備が増強されて、施設の拡張も
行われ、工廠の工員が増える。ところが大戦後のワシントン会議で戦艦の保有量が制限され、日露戦争の日本海海戦の旗艦「三笠」などが廃艦となります。また
海軍工廠のガントリークレーンを船台として進水した戦艦「陸奥」を廃棄すべきかどうかという問題もこの時浮上する。結局は「陸奥」を保有することになりますが、
さらに昭和五年にはロンドン海軍軍備制限条約が結ばれる。こうした軍縮の影響は工廠の人員整理となって現れ、町に不景気の風が吹くという状況になります。
こうしたことにも、横須賀が海軍の影響を受けながら発展してきたということが現れていると思います。 |
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篠崎 | どうもありがとうございました。 |
やまもと ひでお |
大正六年香川県生れ。 |
いかり やすあき |
大正八年福島県生れ。 |
たなか ひろみ |
昭和十八年長野県生れ。 |
著書『東郷平八郎』ちくま新書693円(5%税込)、 『旧陸海軍資料目録−オーストラリア 国立戦争記念館所蔵』緑蔭書房15,750円(5%税込)、ほか。 |