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平成13年5月10日 第402号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 海軍の町 横須賀 (1) (2) (3) |
P4 | ○明治天皇の肖像 横田洋一 |
P5 | ○人と作品 佐藤愛子と『血 脈』 藤田昌司 |
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明治天皇の肖像 神奈川県立歴史博物館特別展に因んで |
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明治期は天皇を中心とした肖像の時代
天皇の肖像はこうした傾向の頂点に立っている。はじめは全く知られていなかった天皇が、国の方針もあって、その容貌姿態が次第に知られるようになり、 ついには明治時代で最も知られた存在となった。さらに近代国家を維持し発展させ、それを束ねるためのステータスシンボルとしての役割も果たしている。 歴代の天皇の中で、容貌をすぐ思い浮かべることが出来るのは明治天皇である。しかも一定の顔と形で眼に浮かんでくる。それはナポレオンやベートーベンの定形の容貌を 思い浮かべることと一緒である。彼らの肖像も探せば幾つかの違った表情の、そして年齢に差があるものがあるはずだ。だが、我々は一つの容貌をすぐ思い描いてしまう。 とくにベートーベンがその傾向が著しい。もじゃもじゃの髪と少し苦悩に満ちたような表情と鋭い視線を放つ眼など、世界中の人々が同じ表情を脳裏に浮かべることが出来る。 それは次第に作り上げられてきたあるべき姿の肖像で、時代や社会の視線が容貌を固定させた感がある。明治天皇肖像もまた、この地点に存在している。 日本の美術史を追ってゆくと肖像画は主要なモチーフではない。絵画は花鳥風月が中心で、量的にみても肖像画の数は少ない。 肖像という言葉の意味は「人物の容貌、姿態などをうつしとった絵、写真、彫刻。似姿。普通上半身を写し取ったものをいう」ということであるが、肖像画の制作に熱心でないのは、 似せて描くことを忌み嫌う風習と、生存中、特に若い頃に肖像画を描くと、その人の生命を損ねてしまうという考えがあったことも左右しているようだ。 明治以前の肖像画には像の概略を描く伝統が
谷文晁が文化八年(一八一一)に著した「文晁画談」にもそのことが見えていて、要約すれば、ことごとく似せて描いてはいけない、似れば命を損なうことがあるので、 寿像を描くときはあまり似ないように描くべきであるとしている。さらに、描くときには像の概略をとることが肝要であるとも言っている。この考え方は文字通りに受け取れば 西洋画とは対極に位置するものである。 現在残されている明治以前の肖像画には将軍、大名を始めとする時の権力者や僧侶など、天皇も当然描かれるが、歴史の表舞台に登場した天皇を除いてその数は少ない。 市井の人々は例外を除いてあまり描かれない、これらの肖像をみると、ほぼ事物の概略を描く伝統が引き継がれているようだ。 異文化とのぶつかり合いで情念の感覚が表面に 明治時代はこうした考え方に西洋画のリアリズムが突然乱入してきた時代といえる。本物のように見えるリアリズムは文字通り骨肉、肉体が相似ることで、日本の本来の表現と真正面からぶつかり合った。 さらに写真の出現も衝撃的で、一見もう一人の自分がそこに存在するかのように見える手段は表現することに大きな影響を与えた。また客観化された自分を見て肖像を持つ楽しみを教えた。 違う文化が融合しないで正面からぶつかり合った時に、誘発されて今まで見えていなかった、あるいは底辺にあった思想・表現が表に出てくることがある。日本の美の感情は、わび、さびであるとよくいわれるが、 その対極にはどろどろとした情念の感覚がある。あるいは、きらびやかでまばゆい世界がある。江戸期でいえば歌舞伎や文楽がそのことを引き継いできた。また文楽とも共通する、江戸後期に発達を見た人形制作にも その一面がある。さらに、浮世絵の表現にも一部その要素をずっと引きずってきた。 明治の表現は異文化とのぶつかり合いの中で、このどろどろとした情念のようなものを引き出した。総体的に明治の表現は他の時代に較べて 突出していて、一言でいえば「濃い」表現が充満していた。さらに実在している天皇を描くことで、生前の像を描くことを嫌う風習を払拭させた。 キヨッソーネが描いた肖像が明治天皇のイメージとして定着 西欧からの新しい表現手段として入ってきた油絵はリアリズムの画法で描くことに適していたし、銅版画、石版画は今まであった木版画とは違う感覚の版画を提供した。中でも特に石版画は簡単に転写することが出来て、 またたくまに普及している。そして写真との融合の中で独自の表現を展開した。制作された作品はさまざまで風景から人物へと多岐にわたる。その中でも特出できるのは明治天皇がさまざまなスタイルで描かれていることで ある。また独特の風貌をした明治の女性たち、大人のような容貌の子供たちを描いた作品が大量に出まわり、先ほど述べたどろどろした、情念のような表現を、この石版画に見ることが出来る。 天皇の肖像も、ある一面でこの現象の中に位置づけることが出来る。明治天皇の肖像として明治以後もっとも知られているのはイタリア人エドアルド・キヨッソーネがコンテで描き、丸木利陽が写真に撮って複写をし、学校に 下賜された肖像であろう。この肖像は「御真影」として礼拝の儀式を伴い人々の眼に触れることが出来たので、そのイメージが定着し、今日では大方の人が、体格も容貌も西欧的な匂いのするこの像を明治天皇として思い出す。 それは社会の視線がベートーベンのイメージを固定させたことと共通している。 内田九一の写真で天皇の容姿が認知され始める しかし明治時代、人々に最も知られていたのは最初の御真影となる内田九一の写真であった。明治の初めころ、天皇はまだ全く見知らぬ存在であった。明治政府は国家元首として頂点に立つ明治天皇を人々に知らしめる必要が あった。そこで行われたのが、明治五年から始まる「御巡幸」と呼ばれる天皇の全国行脚であった。 また明治四年ごろから明治天皇の肖像を御真影として下賜し、その姿形を人々に知らしめようという計画が政府内部にもあり、また外交上の理由から天皇の肖像が必要であった。さらに宮中の様相も西欧に見習って、欧米の各国元首や 天皇の肖像を飾ることが計画されていた。明治六年十月、内田九一は明治天皇の軍服姿を撮影した。その肖像が複写されて、各府県に下賜された。この時点で初めて具体的に天皇の容姿が認知され始めることになった。 一方でこの写真は民間にも出回り売買の対象となった。政府はこの行為を禁止したが厳しい措置ではなく、相変わらず写真が販売され、明治十年代からはこの写真を基にして制作された石版画も大量に出まわった。天皇の肖像が粗雑に扱われる心配もあったが 天皇を知らしめるということではこの現象は同一であり、政府も強く取り締まらなかった。また売買の対象になったということは、一般の人々にも天皇への関心が高まってきたことの証しでもあった。 なかでも最も天皇のイメージを民間に知らしめたのが石版画である。ここでは内田九一の写真を展開してさまざまな容貌に天皇を描き分けている。前述のキヨッソーネの明治天皇肖像が御真影として下賜されても、明治二十年代までは主役はこの石版画で、 大量に制作され販売された。 天皇・皇后を中心に天皇一家の肖像が登場
また描かれる内容も変化している。ここでは天皇一家というか、天皇の家父長としての存在が強調された作品が多く見られることである。天皇・皇后を中心に子供たちが一同に揃う構図で制作されている。皇室として開かれた一面を見せ、また良き家庭の見本 となることが強調されているようだ。ある意味では現代の皇室アルバムの始まりといってもいいのではないか。 さらに、この石版画の雰囲気は西欧で最も伝統的なハプスブルグ家のそうした家族の図に類似していることを付け加えておく。ただその表現に関していえば、 かなり突出した「濃い」雰囲気を漂わせている。言葉を変えていえば、描かれた人物が人形のように見えるということである。なかでも子供に著しくそれがあり、先に述べた、大人の容貌を持つ子供を描いた石版画に共通する要素を持っている。繰り返しになるかもしれないが、 こうした表現こそが他の時代には表れない明治特有の現象で、人間が持っている情念が表に出ている雰囲気を感じさせる。 なお、このことに関した内容の展覧会が「王家の肖像・明治皇室アルバムの始まり」と題して六月三日まで神奈川県立歴史博物館で開催している。ぜひご覧いただきたい。 |
よこた よういち |
一九四一年群馬県生れ。 |
神奈川県立歴史博物館専門学芸員。 |
編著『横浜浮世絵』有隣堂3,048円(5%税込)、『浮世絵 明治の競馬』小学館(共著)1,680円(5%税込)、ほか。 |