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平成13年8月10日 第405号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 神奈川近代文学館 (1) (2) (3) |
P4 | ○箱根宮ノ下「奈良屋」旅館 岩崎宗純 |
P5 | ○人と作品 早乙女貢と『会津士魂』 藤田昌司 |
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座談会 神奈川近代文学館 (2)
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中野 | 『真空地帯』と『青年の環』はほとんどそろっていただいた。 |
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倉 | 野間さんに関しては、今年の十月六日から十一月十一日まで「野間宏と戦後派の作家たち展」を当館で開催する予定です。野間文庫からの出品を中心に、戦後派と呼ばれた作家十一人の足跡や交流などを紹介します。
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大岡昇平の膨大な資料の保存を遺族から依頼される
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三木 | 戦後文学では野間宏と大岡昇平文庫の二つで相当なものだと思いますね。 |
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中野 | 大岡昇平文庫なんて全部来ているわけですから、すごいものですよ。これは実際お宝ですね。
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安西 |
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中野 | フィリピン資料はもっとすごくて、引き出しのついた家具があって、そこに全部入っている。そういう仕事ぶりでしたね。
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安西 | 仕事ぶりがそのままわかるんですよね。なるほどと思って印象的でした。 |
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中野 | 大岡さんについては僕と大岡家との関係がかなり大きく作用したと思っているんですよ。 |
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三木 | 僕らもそう思っています。 |
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中野 |
ある時、大岡さんの何かの原稿を悪い編集者がいて売っちゃった。そういうのが市場に出て、ちょっとしたものなんですが、かなりな値段なんです。うちで部分的に買いましたけどね。 |
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倉 | 『野火』の原稿です。 |
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中野 | そういうことがあるから、全部が集まるというのは大変なことなんです。 |
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三木 | 日本文芸家協会が、ある時から原稿は必ず返すようにと、したんですね。 |
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倉 | 大岡さんは戦前と戦後の一時期を鎌倉で過ごされ、その後十六年余り大磯に住まわれた。 |
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すばらしい木下杢太郎の『百花譜』
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三木 | 木下杢太郎のコレクションだって、静岡県の伊東の人ですが、ここを指定して来ている。 |
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中野 | 前理事長の小田切さんが遺族の方から、「親族会議で、ここ以外に託すべきところがないという結論に達した」といわれたそうです。
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三木 |
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中野 | いつか評議員会で、「ここはどうやって金をもうけているんだ」と言うから、ここは金額にならないぐらいの宝物があるんだと言った。『百花譜』なんて金額のつけようがない宝物でしょう。
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三木 | 『百花譜』を一枚一枚描いていくのが、杢太郎の晩年の仕事だったんですね。 |
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中野 | まったくどの一枚も丁寧に描いてある。 |
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倉 | それと北原白秋、長田秀雄と一緒に出した雑誌『屋上庭園』第二号のほぼ完全な掲載原稿があります。
木下杢太郎は、子息の太田元吉さんから開館前の一九八三年に原稿や書簡などを寄贈され、「木下杢太郎文庫」として保存してきましたが、九八年に追加資料として『百花譜』のほか自画像、書画など寄贈されました。 |
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中野 | 「立原正秋文庫」なんて、方々で欲しがる。ところが、立原家で結局ここにと決めたのは、やっぱりここがいいせいだからね。
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倉 | 立原正秋は少年時代は横須賀で過ごし、後は鎌倉でした。九七年に正秋展を開催した後、夫人の光代さんから代表作の『剣ヶ崎』『薪能』を含む原稿などを一括寄贈されました。
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三木 | 梶原で亡くなられたんです。彼は鎌倉が好きだったんですね。神奈川を舞台にした作品も多い。
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夏目漱石の遺品 机、本箱、火鉢など二百五十点
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篠崎 | 白眉といえるものはほかにも、まだまだあると思いますが。 |
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中野 | 夏目漱石の最後に残った資料がここに来ている。 |
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倉 |
『文学論』という夏目漱石の講義録をまとめた草稿は有名ですが、それをはじめとして最後まで遺品として残していた、夏目家としては一番大事にしていたものです。ですから、最後の早稲田に住まいがあったころの漱石山房の写真に 写っているような遺品が大分来ているんです。漱石が使っていたじゅうたん、机、本箱、火鉢、掛け物からすべてが。 |
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篠崎 | 夏目漱石と神奈川県との関係というと……。 |
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倉 | 鎌倉と湯河原です。 |
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篠崎 | 鎌倉関係では『こころ』と『門』がありますね。 |
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三木 | 『門』は円覚寺ですね。変な公案を出されて、主人公が困っちゃう。臨済宗ですから大変なんですよ。
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倉 | 『漱石印譜』といって本にもなっていますが、判こですね、その本物の印顆も全部来ているんです。
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三木 | 生々しいですね。 |
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倉 | 漱石に関しては、来年の四月に「夏目漱石展」を予定しております。漱石山房で愛用した机、文具、書架などで書斎の雰囲気を出すつもりです。
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中野 | 「中島敦文庫」もここのお宝じゃないですか。これは数は少ないけれども、中島敦は隠然たるファンのある人で熱烈なファンがいるんですよ。
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三木 | 『山月記』は教科書でずっと掲載されていて落ちないんです。ほかのものは変わっていっても、『山月記』は入っています。
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中野 |
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倉 | 中島敦は子息の桓さんから約九百点寄贈されています。教員時代の思い出を描いた『かめれおん日記』の原稿や『李陵』の草稿など。
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中野 | 中里恒子さんも外国人墓地をよく書いています。この二人はまさに山手ですからね。 |
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篠崎 | 中里恒子さんは震災前に山手の紅蘭女学校(現・横浜雙葉学園)のご卒業で、娘さんがアメリカ人と結婚して、そういう作品も書かれている。
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倉 | 二人の兄が外国人と結婚している。 |
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中野 | だから、彼女の一族にイギリス人がいて、そのイギリス人の娘が彼女の小説の主題になっている。
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倉 | 中里さんは藤沢に生まれて七歳から横浜で育った。関東大震災で川崎や東京に移り住んだ後、ずっと逗子に住んだんですね。
当館には『乗合馬車』の草稿をはじめ、愛用の文具など七千点余り寄贈されてます。 |
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幼少期に大桟橋あたりで遊んだ獅子文六
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中野 | 獅子文六も横浜のことをたくさん書いています。館の創設前に一括して資料を寄贈していただいた。
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篠崎 | 獅子文六さんは今のホテル・ニューグランドの裏の水町通りなんですね。 |
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中野 |
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篠崎 | 震災前の横浜は東京よりも文化的にはるかにすぐれた都会で、“ハイカラサン”が集まる場所だったと書いてますね。『やっさもっさ』も占領下の横浜が舞台です。
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中野 | 獅子文六が二度渡仏したときに、日本の新劇の指導者、岩田豊雄(本名)として描いた観劇ノートは特に貴重ですね。
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篠崎 | 横浜生れの大佛次郎さんはこの文学館のお隣に、吉川英治さんは青梅市にご自分の記念館をお持ちになったから、ここには入らなかった。
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中野 | 本当ならば大佛次郎さんも吉川英治さんも入ってしかるべきなんだね。それから山本周五郎さんは本牧に住んでましたね。
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篠崎 | 本牧間門町です。こちらの収蔵資料にも、『青べか物語』の原稿なんかがありましたね。 |
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中野 | 山本周五郎さんのはあまりないんです。でも周五郎展のころ、子息の清水さん他から、ぱらぱら寄贈されたし、作品の挿絵なんかも収蔵しています。
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志賀直哉の手紙を全部保管していた尾崎一雄
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中野 | 小田原出身の尾崎一雄の資料がここに来たのは、小田原からすると大変なことなんです。 |
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篠崎 | 尾崎一雄さんは、一番最初はこちらの名誉館長ということでスタートされたということですか。
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中野 | 尾崎さんは最初つくるときからして非常に熱心で、しかも関東大震災を経験しているから、どんな大震災が来ても大丈夫なものをつくってくれと、それだけは、うるさく言っている。だから、ここは恐ろしく堅牢にできているわけです。
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篠崎 |
松枝夫人が、志賀直哉から来た手紙などを、東京の上野桜木から小田原の下曽我に転居するときに、一か月間ぐらいかけて、毎日、満員電車で背負って運ばれたそうですよ。それらがこちらに全部入るとなると、膨大な量でしょうね。 |
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三木 | トラックで運んだんでしょう。 |
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倉 | 四万六千点以上です。 |
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中野 | 僕なんかが行ったときは、彼は詩集の初版本を持っていて、それが自慢で「君、これは、このぐらいするんだよ」なんて値段をみんな知っているんだ(笑)。一時、自分で本の売買をして食べていたから詳しいんです。
それで志賀直哉の本は初版を全部持っているんです。それから全集は、書き入れ用と保存用と二種類持っている。 「志賀直哉の初版だけは決して売っちゃいかん。あとのものは売って暮らしにしろ。おまえたちに残すものは何もないから」と言っていた。そしたら松枝夫人が全部ここに寄付した。 |
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篠崎 | 尾崎一雄さんは志賀直哉をすごく尊敬されていたそうですね。 |
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中野 | それはお師匠さんですからね。それで志賀直哉が、尾崎一雄が病気のときに贈ったという額が一番いい所にかかっているわけです。「君去春山 誰共遊(君去って春山誰と共に遊ばん)……」という七言絶句ですけれども、それを
四字七行に書いてあります。これは大変なものですよ。 |
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倉 | 『あの日この日』の原稿は正・続あわせて三千枚近くあります。 尾崎さんは名誉館長だったのですが、開館の前に亡くなられてしまいました。 |
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中野 | ほかに貴重なものでは、川端康成が横光利一にあてた弔辞などもある。「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。」というものです。
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広津柳浪・和郎・桃子親子三代にわたるコレクション
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倉 | 明治、大正、昭和と親子三代にわたって文学者の道を歩んだ広津柳浪・和郎・桃子のコレクションもあります。
柳浪資料では『雨』の原稿や尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遥らの書簡など、和郎資料では『年月のあしおと』草稿や油彩の柳浪デスマスクなど、桃子資料では日記など、貴重な資料を含んだ六千点余が寄贈されてます。 |
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篠崎 | 『戦艦大和ノ最期』を書かれた吉田満も、神奈川県にゆかりがあるんですか。 |
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中野 | 特にゆかりはないと思いますが。 |
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倉 | 『戦艦大和ノ最期』は戦艦「大和」の乗員だった吉田満が一九四五年四月、撃沈されて、奇跡的に生還した体験を描いたもので、昨年、夫人の嘉子さんから寄贈された資料は、終戦直後の草稿のほか、加筆された稿本など、七四年に出版されるまでの経緯がよくわかります。
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中野 | 中山義秀はどうなんですか。 |
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安西 | 一応、生まれ故郷の福島県の大信村に記念館があります。私が中山先生からいただいたお手紙などは神奈川近代文学館に寄贈しようと思っています。
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中野 | 個人文学館をやっていくのは、なかなか難しいという話をよく聞きますね。 |
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安西 | 資料を寄贈した人は必ずその行方を追っているわけですね。大事にしてもらっていると感じれば、その後も資料を寄贈していただける。
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