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平成14年6月10日 第415号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 横浜−下町・落語・にぎわい座 (1) (2) (3) |
P4 | ○新発見の大磯町高来神社の木造神像群 薄井和夫 |
P5 | ○人と作品 三宅孝太郎と『開港ゲーム』 藤田昌司 |
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座談会 下町・落語・にぎわい座 (2)
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篠崎 | 玉置先生は昭和九年のお生まれですね。 |
玉置 | 九年の早生まれで、旧制の最後です。夏休みに終戦になって、それまで使っていた教科書を二学期が始まった途端に、「何ページの何行目から何行目まで、墨で消せ」というのを唯一やった学年です。
あれとっときゃねえ。終戦は六年生です。五年生の一年間は茅ヶ崎に疎開していました。 |
篠崎 | それでは、空襲は体験されてないのですね。 |
玉置 | ただ、東の方が真っ赤になっているの。そしたら、電話がかかってきて「空襲で燃えた」って。
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歌丸 | あたしは千葉の誉田(ほんだ)という所がおふくろの実家でして、裏にちょっと高い山があって、そこから横浜の空襲を海を隔てて見てました。黒い煙がボーッと上がって。今でも覚えてますね。もう横浜へ帰れないんじゃないかと。
後に祖母が迎えに来てくれたときはうれしかったですね。たしか小学校三年生ぐらい、南吉田小学校です。 横浜に帰って来たときは子供心にもほっとしましたよ。祖母は、すぐに焼けトタンを自分で集めてバラックを建てて、あたしと自分の部屋をこしらえて、お客さまがとれるように、一部屋またこしらえていたんです。それですぐに商売をやってましたから。 |
真金町、永楽町は外国人は一切だめ
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篠崎 | そのころ来ていたお客さまはアメリカ人ですか。 |
歌丸 | いえいえ、アメリカ人は一切入れませんでした。 |
玉置 | 占領軍専用の慰安施設が、各地にできていましたね。川崎近辺だと大森海岸に料亭みたいなのが幾つもありました。競艇場へかかる第一京浜沿いの少し入った所。
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篠崎 | 三宗楼という真金町の遊廓では、占領初期に、一か月ぐらいは外国人向けに営業をしたと、以前にお聞きしたことがありますが。
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歌丸 | やったんですが、おふれが出て、すぐにだめになった。だから真金町と永楽町は外国人は一切だめ。本牧の方へ持っていったんじゃないですか。
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玉置 | チャブヤ。 |
歌丸 | ですから、三宗楼はローマ字の看板を掲げたけれど、また取り外さなきゃならなくなった。
真金町に、七、八年前ぐらいまでは一軒か二軒は昔の面影を残した家並みがありましたね。それで映画とかの撮影のときにはよくそこを使ってましたよ。もう全部なくなりました。 |
玉置 | 建築法規にかなわないようなものは全部残せないでしょうね。お客さん同士が顔を合わせないようにとか、面倒なつくりになっているのね。
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歌丸 | 一種の迷路です。 |
終戦直後の食糧難の時代でもいつも米のご飯
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篠崎 | 日本人だけにお客さまを限定して、終戦後は結構繁盛したんですか。 |
玉置 | 大はやり。 |
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歌丸 | ですから、あのころ栄養不足で、友だちは疥癬ができ、皮膚病でかゆい。あたしだけできなかった。商売のおかげですかね、食糧には困らなかったですね。
とにかく戦後、バラックで商売をし始めて、何年ぐらいの間にだろう、たった一人の女の子のおかげで、うちは三回、建て直しをしました。 |
玉置 | 何です、それは。 |
歌丸 | 売れて売れて。きれいだったですねえ。たとえに言っては失礼なんですが、高峰三枝子さんに似ている。表にお客さんが二、三人待っていたのを覚えてますよ。
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玉置 | だから、お部屋の数があれば、お客さまにはそこに入っててもらって、女性がかけ持ちをする。
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歌丸 | それで最後に、泊まりがあれば泊まりをとる。だからおばあちゃんは、その子を随分大事にしてました。
そんな所に育ったから、今廓噺をやるのは大変楽なんですよ。全部そういうのはまくらにそろいますのでね。 |
お女郎さんは配給手帳がなく、闇米を購入
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玉置 | 川崎には大きい遊廓が二つあった。堀之内という一画と、南町という一画と。それで、おやじの米屋が南町の遊廓の入り口にあったから南町遊廓がほとんどお得意さんでした。米の配給をもらうのに通帳の要る時代です。
周りにお女郎さんが大勢いましたが、彼女たちは、帳面がないから配給がとれないわけです。それで彼女たちが闇米を食ってくれた。闇米だと米屋の利潤もあるわけです。 |
歌丸 | 川崎では南町と堀之内とどっちが上だったんですか。 |
玉置 | お値段は堀之内の方が高かったです。店のつくりやなんかも、やはり値が違ってもしようがねえなというような感じでした。昔からそうなんですって。
六郷の渡しに近かったから堀之内のほうが栄えたんです。 |
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玉置 | 横浜へ出るのは楽しみだったという芸人さんの記録がいっぱい残ってますね。 |
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歌丸 | それで、ある程度交通の便がよくなってから、トリだけ東京へ帰れた。あとほかは全部泊まり。で、昔は興行は十五日だったらしいんですね。それで夜ハネて、そういう客席や楽屋で寝る。寝やしませんよね。それで博打を
やって、伊勢佐木警察へ挙げられて、もらいに行ったという話もありますよ。 |
横浜のごひいきに買ってもらった金の懐中時計
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玉置 | それと、とても自分の身銭じゃ目いっぱいは遊べないけど、いい旦那をいかにつかむかなんです。
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歌丸 | 横浜には貿易やなんかで大変もうけた人がいたんで、ごひいきになると、ものすごいごひいきで、先代の柳橋師匠は、寄席の芸人のなかで初めて金の懐中時計を持った。横浜のごひいきに買ってもらったんですって。これはものすごくあった。
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篠崎 | 横浜には成り金がいっぱいいたんでしょうね。 |
玉置 | と思います。だって貿易の東の拠点ですもの。 |
歌丸 | だから、そういう人が何人、今度のにぎわい座に来るかですよ。(笑) |
玉置 | 八代目の彦六になった正蔵さんが、ご自分でつくった「年枝(ねんし)の怪談」という一席があるんです。あれは舞台が横浜なんです。代数からいくと、三代目か四代目の春風亭柳枝さんがメインの噺なんです。そのお弟子さんの春風亭年枝が、横浜と神奈川とかけ持ちで、幽霊に案内されたりする。
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落語家よりも落語に詳しい玉置師匠
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歌丸 | とにかく、玉置師匠は我々落語家よりも落語に詳しい方ですから。あたしが何か新しいネタで、これは資料がないけどどうしようというと師匠の所へ、どのぐらいダビングをしていただいたか。
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玉置 | NHKでやっている「ラジオ名人寄席」は今七年目なんですが、まだNHKのテープは一本も使っていません。ずうっと放送の世界にいたものですから、おかげさんで、放送できる音で残してきてましたんでね。だから、今問題は、著作権問題だけクリアできていれば。
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歌丸 | それを全部お持ちになっているんですから、これはすごいです。本来は玉置師匠は落語家になる方じゃなかったかと思う。
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玉置 | マジで噺家になりたいと思った時期がありましたが、当時は、中卒で内弟子に入らないと、というのが一般常識でしたね。もう高校生でしたから。しゃべる仕事、でうまいぐあいに文化放送のアナウンサーになれたという段取りです。
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歌丸 | 噺家をやっていれば今、会長ですよ。(笑) |
玉置 | ありがたいことにおやじが深川生まれ、深川育ちでしたから、おやじとの会話がいわゆる江戸の下町言葉。これがそのまんま身についているから、今、逆にそういう言葉をさらってます。そうすると、二日続きになるようなときだと、前の日の粗筋をというときにそれを意識して使う。
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歌丸 | 逆に、あたしは横浜ですので、いまだに横浜のなまり「じゃん」が、ぽろっと出てくる。やっぱり古典をやるとまずいです。ですから、あたしはいまだに、タンカを切る噺が苦手なんです。
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玉置 | 新三をやりたくなるわけだ。 |
歌丸 | やってみたくなるんですが。やった後で、よしゃよかったなと思うんです。ですから、今回十日間、新三をやり三つタンカを切るところがあるんです。
ほんとにタンカの稽古は随分しましたね。これはやらないことにはどうにもしようがないんです。新三がタンカを切って、弥太五郎源七がタンカを切って。
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玉置 | この大家が難しい。 |
歌丸 | 難しい。どうにもしようがない。それで平成七年ごろ、あたしが初めて新三を手がけたとき、歌舞伎の河原崎権十郎さんとずうっとおつき合いさせていただいていた。
で、新三をやると言ったら、「じゃ、弥太五郎源七と大家について、歌丸さんにお教えしてあげますよ」と言われ、「師匠、すみませんがお願いします」と言っていたんですが、
まもなく亡くなられた。 |
玉置 | あの方はわきで、あらゆる狂言へ出ておられる。で、主役のせりふから何から全部入ってて、例えば新三なら、尾上松緑さんの新三はこうだと、もう全部、息も共演してわかっていらっしゃる。
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歌丸 | それで、例えば松緑さんの新三のときは、弥太五郎源七はこうやろうとか、誰々のときはこうやろうって、大家でも何でも大体幾らかずつ違うんだそうですね。それを全部ご存じの方。
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玉置 | これは大事な、ほんとに生き字引。 |
篠崎 | 噺家さんの練習というのは、大変なものなのですね。 |
玉置 | 稽古を一番しているのが噺家さんじゃないかな。 |
歌丸 | いやいや、一番稽古をしていないのが噺家なんですよ。何か大ネタをやらなきゃならないときは、必死になってやってますけど。
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三吉演芸場で古典の独演会を始めてほぼ三十年
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玉置 | ですから、歌丸師匠の場合だと新作で始まりながら、きちっと古今亭今輔さんから古典の入り口は稽古をしていらっしゃるわけ。それで新作でずうっときて、ある日思いつかれて新作を全部捨てて、古典の大ネタにかかってから、もう三十年ぐらい?
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歌丸 | 昭和四十九年からです。三吉演芸場で独演会を持たせてもらったんです。 |
玉置 | 余一会。三十一日の会なんです。 |
歌丸 | 八月と十二月を除く年五回。うちの落語芸術協会は大体新作畑ですから、古典をきっちりやる方が、あまりいなかった。 |
玉置 | 大師匠が亡くなって途絶えちゃった。 |
歌丸 | これは誰かがやらなくちゃいけない。自分も独演会を持ったと。それじゃここでいっぺん新作を捨てて、古典に力を入れてみようと思って変えたんですよ。だから、最初のうちは困ったことがありましたよ。「殿」と言うのを、「社長」って(笑)。どうにもごまかしようがない。
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玉置 | 第一回に「火焔太鼓」を出したんです。そのときにあっ、歌丸さん、本気だなというのがわかりました。
「火焔太鼓」って言えば志ん生っていうぐらい、とことん普通の落語ファンには体じゅうに入っている。あえてその「火焔太鼓」を、古典をやる最初の一席にする。 |
歌丸 | おっしゃる通り、第一回目は「火焔太鼓」と、圓楽さんの所に行って「紺屋高尾」です。そのかわり、次の日から胃が痛くなりました。
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玉置 | それがいまだに続いて。それこそほんとに国立演芸場で大ネタっていうのは、今、歌丸さんだけですから。
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歌丸 | いや、やらしてくださるのがあそこだけなんですよ。ほかの寄席でトリとってもできませんので。
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対話で進めていくのが落語の本筋
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歌丸 | 平成八年から五年がかりで、圓朝師匠の「真景累ケ淵」を全部やりまして、どなたもやってないとこを、やっぱり下げをつけなきゃいけないというので、速記本をもとにやりました。これ、国立だからこそできたんです。
それが終わりましたので、ことしはまた圓朝師匠の「牡丹灯籠」を発端からやってみようと。 これはどなたも下げがついてないんです。発端からやると、どうしても下げをつけなきゃならなくなる。これは何年かかるかわかりませんが。 |