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有鄰


平成14年8月10日  第417号  P3

 目次
P1 ○私にとっての戦争文学  伊藤桂一
P2 P3 P4 ○座談会 清水次郎長 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  中谷そらと『ゆらゆら』        藤田昌司

 座談会

清水次郎長 (2)


黒鉄  すごいアイデアというか、悪知恵ですよね。それを節目、節目でちゃんとやりますでしょう。剣術を習ってみたり、それから博打もほとんどイカサマばっかしですよね。

藤田  それに次郎長一家にはユニークな乾分が大勢集まりますよね。大政、小政、それから石松……。ということは、次郎長は相当魅力的な性格だったんでしょうね。

黒鉄  それはそうですね。やくざに限らず、リーダーシップをとって束ねるのは、チャーミングじゃないと人はついてこない。勝蔵なんか、対比のためにひどく書き過ぎたんだけど、あれじゃついていかないですよね。(笑)

藤田  次郎長の顔は非常に魅力的で、渋みがあって東野英治郎をもう少しいい男にしたような感じですね。

黒鉄  イメージは勝新太郎さんの「駿河遊侠伝」。日焼けさせて酷薄な感じにして、あごの骨を出すと次郎長になるなと思って。


次郎長の姪が清水で遊郭「千畳楼」を経営

藤田  晩年の写真が残ってるんですよね。

諸田  あります。でも、次郎長の写真はみんな知っているものしかありません。

藤田  ところで、諸田さんは次郎長の末代に当たるわけですね。

諸田 
遊郭「千畳楼」
次郎長が「満つ」にやらせた遊郭「千畳楼」(諸田玲子さん提供)
次郎長に佐十郎というお兄さんがいてその子どもの一人に、満(ま)つという女の子がいたんです。満つは次郎長と血のつながった姪に当たります。次郎長には子どもがいなかったので養女にして、お嫁に出したりしているんです。 その満つが、私の祖母の祖母に当たるんです。やくざの話は嫌がって誰もしゃべらなかったので、私は二十歳ぐらいまで知らなかったんです。

清水の巴川畔に遊廓があって、「千畳楼」という遊廓を次郎長がその当時、四円出して満つさんにやらせたんです。私が子どものころはもう旅館になっていたんですが、伝わっているのは 次郎長が満つさんの長男に名前をつけたとか、山岡鉄舟の反故紙を障子紙にして張ったとか、そういう細かいエピソードだけです。

  私の生まれは静岡です。祖母が清水から静岡にお嫁に来たものですから。小さいころに巴川の旅館に連れて行かれましたが、暗い廊下のある大きな家でした。母に手を引かれて行くと、そこに曾祖母が座っていた。ちんまりとした老女なのに、ピンと張りつめた気配があったというのが記憶に残っています。あれは何だったんだろう、って子供心に思っていました。

黒鉄  遊廓は、当時の社会事情を考えたら、今で考えるようなものじゃないんです。

諸田  そうですね。曾祖父は教育委員長をやっているんです。みんな喜んで遊廓の前で写真を撮っている。この写真には満つの子どもが写っています。二階には祖母もいます。母の前の世代までは大いばりだったんですね。

諸田玲子さん
諸田玲子さん
 

  疑問が残った二代目お蝶の殺害の話

藤田  諸田さんは『からくり乱れ蝶』で二代目お蝶を、『空っ風』で小政、『笠雲』で大政を書かれた。お蝶さんとは直接つながりはないわけですよね。

諸田  そうです。お蝶との子どもはないわけですから。

黒鉄  次郎長には、女の影が本当にないんですよ。一番ねらわれるのは酒と閨ごとですから、避けたんじゃないですかね。一番目も二番目も三目もちゃんと本妻でいくでしょう。三人ともお蝶。あれも、女性の立場からすれば頭にくるでしょうね。前妻の名前をつけられるわけですからね。

諸田 
からくり乱れ蝶・表紙画像
諸田玲子著『からくり乱れ蝶』徳間書店
黒鉄さんの本では、二代目のお蝶のことも、いろんな説を出していらっしゃいますよね。あの辺もなるほどと思いました。

私は、一番最初に『からくり乱れ蝶』を書いたとき、二代目のお蝶が殺されたことについて、すごく疑問だったんです。指がパーッと飛んだ話とか、親戚からいろいろ聞いていましたが、この女だけ出自がわからない。評判もよくなかったらしい。二代目のお蝶が殺された後すぐに、次郎長は浜松の士族・篠原東五勝俊の娘の三代目お蝶と結婚していますよね。あんまりすぐなので、何かウラがあるのではないかと思いました。

お蝶を斬った新選組の木暮半次郎を次郎長が殺すところも、ちょっとおかしい。もしかしたら次郎長自身が仕掛けたんじゃないかと。

黒鉄  大急ぎで殺しますよね。

諸田  しかも、わからないようにね。だから、あの辺から次郎長というのは本当はどうだったのかなと思い始めたんです。時代の波にのるために不要なものを切り捨てる。身内でも、その辺のしたたかさはきちんと書きたいなと思いました。

 

  資料が少なくイメージのふくらむ次郎長伝説

黒鉄  またしつこいですけど、信長にも似てますよね。濃やかな気働きを見せるかと思うと、一方では皆殺しにしますね。次郎長もそうでないと、これだけ短期間に海道一の大親分にはなれないですよね。両方使えるということでしょうね。石松殺しも、背後は次郎長だと書かれたのは、永六輔さんだったかな。後から考えれば何とでも言える。これが楽しいんですけどね。

藤田  次郎長伝はいろいろ書かれていますが、今のお話のように納得できないところがいろいろあるわけですか。

黒鉄  資料が不足している部分を、何とかイマジネーションで埋めようとすると、自分の好きなほうに持って行きたがりますよね。

諸田  でも、黒鉄さんは、説を公平に全部出されて、こうもある、こうもあるけど、こう思うという書き方をしておられるから、説得性がありますね。

藤田  かなり虚構が入った話としてつくられているということでしょうか。

 

  江戸前のはずがない「喰いねえ、酒飲みねえ」の鮨

諸田  石松だって、本当のところはよくわからない人ですね。

黒鉄  隻眼で、吃音ではないですね。これはみんながつくったものですから。ということは、マイナスの材料を持つと共感がえられるということですね。

藤田  それから鮨の話も。久六殺しの成就祈願のお礼参りに金毘羅様に行く船のなかで、「海道一の親分は清水の次郎長だ。でも次郎長だけがえらいんじゃあない、いい乾分あってこその」という江戸っ子に、喜んだ石松が、「喰いねえ、酒飲みねえ」と言ってすすめる鮨。あれは江戸前鮨だと思っていたんですが、黒鉄さんは、金比羅様に行く船の中で江戸前鮨があるわけないと指摘されているのは、なるほど、と思いましたね。

黒鉄  映画などでは、みんな江戸前の鮨ですからね。

諸田  よく調べられたと思って。

クリックすると拡大画像が見られます
黒鉄ヒロシ著『清水の次郎長』(文藝春秋)から
黒鉄  好きなんですよ。村松友視さんは押し鮨じゃないかとおっしゃってる。虎造の鮨は大阪の蒸し鮨なんです。僕は熟(なれ)鮨じゃないかと思っているんですが。ほんとの鮨はいまだにわからない。鮨を持ち込んだかどうかもわからない。結局はやぶの中です。

 

  やくざ同士の抗争を超えている荒神山の喧嘩

藤田  最後の抗争が、次郎長は実際には参加してないという慶応二年(一八六六)の荒神(こうじん)山(現鈴鹿市)の喧嘩ですね。神戸(かんべ)長吉と穴太徳(あのうとく)の縄張り争いで、次郎長は長吉方につき、吉良仁吉を大将に、大政と大瀬半五郎らを荒神山に向かわせる。このとき仁吉が戦死し、その報復に次郎長は伊勢に行き、穴太徳とその後ろ盾の丹波屋伝兵衛を屈服させる。

黒鉄  けど、荒神山も考えたら政治ですね。あそこまでけたが大きくなったら、単なるやくざ同士の抗争事件じゃない。もっと視座を大きく引いて見ると、次郎長がそういうことを考えていたのかなって思いますね。荒神山は本当は高神山なんです。明治十七年に出版された『東海遊侠傳』で著者の天田五郎、この人は次郎長の養子ですが、彼が、「高神」を「荒神」と書き間違えたから今は荒ぶる神の山になった。


維新後の市中取締役は山岡鉄舟の推挽か

藤田  その後明治維新になって、次郎長は、山岡鉄舟に取り立てられるようになるわけですね。

黒鉄  『東海遊侠傳』の話は都合がよすぎると思うんです。明治元年(一八六八)に、箱館を目指した榎本武揚が率いる旧幕府の咸臨丸が途中で台風に遭い、難破船同然の姿で清水港に入ったのを官軍が砲撃した。七人が斬殺されて死体は海中に投棄され、咸臨丸は官軍艦によって品川まで曳航された。投棄されたまま海中に浮遊していた死体を次郎長が、官軍だろうが賊軍だろうが死ねばみんな仏様、と向島の松の木の根元に手厚く葬った。

この一件に山岡鉄舟が感動して、二人の交際が始まったとあるんですが、あまりにもとんとん拍子に行くんで、これは後からつくった話じゃないかと。僕は、江崎惇氏が『真説清水次郎長』で言っているさつた峠の話のほうが説得力があると思いますね。

山岡鉄舟が徳川慶喜の処置をめぐって、勝海舟の密命で、江戸総攻撃準備中の西郷隆盛を駿府に訪ねる途中、官軍に襲われ、一軒の茶店に身を寄せる。事情を知ったそこの主人が小舟を用意し、次郎長宛の紹介状をかき、次郎長が手助けをする。それで西郷と鉄舟との面会は成功裏に終わったという説です。

鉄舟は、徳川家達が駿府七十万石の藩主になると駿府へ居を移している。ですから、藩から市中取締役を任命されたのも咸臨丸の屍体引き揚げも、背後から鉄舟の糸引きがあったんじゃないかと。

 

  咸臨丸の死者を弔った美談は口実か

藤田  咸臨丸の死者を弔ったというのは美談ですね。

諸田  あれもいかがわしいですよね。鉄舟が「壮士墓」と揮毫したお墓を、明治十九年(一八八六)に次郎長が料亭の「末広」を開業したとき改築した。それで墓を掘ったら咸臨丸の関係者分だけでなく、その下から七柱分以上の人骨が出てきたという。私もカモフラージュだったのかと思いました。

黒鉄  咸臨丸、咸臨丸とやりすぎですね。明治二十年には咸臨丸の戦死者記念碑の除幕式もやっている。咸臨丸、咸臨丸といってやれば、どこからも文句が出ないから。これはやっぱり口実だったのかなとも思いますね。

それから、山田長政の記念碑建立のための資金集めという名目で相撲興行もやってますが、集めた金はどこに行ったかわからないんですね。碑も建ってないし。

ただ、経済を含めいろんな能力が次郎長にはあったんだなと。侠客の部分も当然ありますが、チャーミングで、それでいて単純で。石油が出れば飛んで行くし。

諸田  打算的だけど、子どもみたいなところがある。

 

  上の人の懐に飛び込むのが上手

黒鉄  それから、すごい反語を用いた人だったようですね。上の人の懐に飛び込むのがすごくうまい。

鉄舟に、「皆は先生のことを偉いと誉めるが先生がそれほど偉いとは思えない。先生から来る手紙は難しくて読めないし、意味もわからない。人が見て読めないような手紙を書く先生のどこが偉いのか自分にはわからない」と。鉄舟はずっと年下でしょ。俺が悪かったって。これね、俺が悪かったって思わせるところがすごい。(笑)

ましていわんや礼儀作法もですよね。新門辰五郎に会ったときも、あっ、この人は、とすぐわかるんじゃないですか。この人にはこういう対応の仕方、それが意外な出方をしたら、けつをまくるとか、すごい武器をいっぱい持っているわけですから。

 

  市中取締役の後、博徒の大刈込みで逮捕される

藤田  背後から鉄舟の引きがあって市中取締役に任ぜられたのでは、というお話でしたが、この市中取締役についてはいかがですか。

黒鉄  そうですね。全く政治ですよね。それと、清水に限らず、全国的に侠客は体制側に組み入れられたんです。

諸田  江戸時代の目明かしもそうですよね。蛇の道はヘビで、臑に傷のある人を上手く利用する。

藤田  市中取締役になった後、明治十七年に博徒の大刈込みで逮捕され、牢獄に入っている。市中取締役にまでなった人間がどうして逮捕されたりするのかなと思ったんですが。

黒鉄  次郎長も、「何でずら」と怒るんですね。でも、お上の大きいところでつくった法律は末端の事情までは来ないわけです。だから、これも全部に当てはめるから、清水だけを除くわけにはいかない。でも結局、運がいいというか、台風で監獄が倒壊し、次郎長は怪我をして入院するんだけど、特赦で釈放になるんですね。

 

  囚人を使って始めた富士山麓の開墾は失敗

藤田  次郎長が山岡鉄舟のすすめで富士山麓の開墾を始めたのは明治七年ですね。これは大事業ですよね。

黒鉄  『清水の次郎長』でも書いたし、『笠雲』にも書いてありますが、結局、余りうまくいかないんですよね。

諸田  まったくの失敗ですよね。当たり前ですよ、働くということを知らないんですから。

黒鉄  それは当然、最初から期待するほうが無理でね。別の才能をそこに入れないと無理なんですよ。

藤田  囚人を使って開墾したんですよね。

笠雲・表紙画像
諸田玲子著『笠雲』
講談社
黒鉄  そうです。だから、「逃げる者一人としてなく」とあるけど、あれもうそで、諸田さんがお書きになっている通り、数は少ないけど、逃げるんです。

諸田  今でも富士市の大渕に次郎長町という町名が残ってます。富士山が目の前に見える所で、バス停にも名前があります。



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