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平成14年12月10日 第421号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 「文学」と「時代のニュース」が両輪 (1) (2) (3) |
P4 | ○東巴(トンパ)文字 浅場克己 |
P5 | ○人と作品 神坂次郎と『猫男爵』 藤田昌司 |
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座談会 文藝春秋80年
「文学」と「時代のニュース」が両輪 (2) |
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篠崎 |
『文藝春秋』創刊のころの日本はどんな状況ですか。
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半藤 | 日本の文化は明治、大正と発展してきた。その果たした役割としてジャーナリズムにものすごい功績があるというのが、菊池さんの見方です。それは文部省以上である。ジャーナリズムが日本文化をつくったと言ってもいいのだ。したがって我々もジャーナリズムに参画する。先ほどのスローガンの形で力を尽くしたいというのが菊池さんの考え方なんです。
ただ、日本のジャーナリズムはみんな架空の論を振りまいて、余り地についていないから、我々はもう少し地についたジャーナリズムでいく、とも言うわけです。 ですから、評論よりも、むしろ現実そのものを作家の方に書いてもらうとか、あるいは大学の先生ばかりでなく、一般の人たちからも、いい話を持っている人を引っ張り出してこようという考え方を非常にはっきり示します。 もう1つは、菊池さんは小説家ですから、日本の文学をもっと立派なものにしたい。そのためにはジャーナリストは文学がわからなきゃだめである。文学がわかる人を『文藝春秋』に引っ張ってきて、編集者もジャーナリストも文学のわかる人にして、日本の文学をきちんとしたものにしたい。 この2つのことを最初のころはやった。その意味では、『改造』や『中央公論』とは一風変わったジャーナリズムとして出てきたんです。 |
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一般人の投稿も載せて、読者にわかりやすい文章を |
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白石 |
創刊初期の段階で、こんなことも言っています。この雑誌は一般人の投稿も、著名な人の原稿も載せていくが、どこを削るとか、タイトルはどうするとかいうのは、全部編集者が決めると。
ともすると、雑誌はその当時、その時代の著名な方の原稿を載せる貸し座敷という形になりかねなかったのを、菊池寛さんは編集権というか、編集者はもう少し原稿に介入していくべきだと考え、読者にわかりやすい、面白い文章を提供したいという気持ちが強かったんじゃないか。 それは『文藝春秋』という雑誌の大衆性につながっていくと思うんですが、うちはアカデミズムではない。ジャーナリズムだ。象牙の塔の中で物を考え、発表していくのではなくて、読者に向かってわかりやすく物を発表していくということです。編集者の仕事を初期段階でかなり意識していたことを言っています。 |
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『文藝春秋』には昭和の大事件の当事者が毎号出てくる |
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篠崎 |
『文藝春秋にみる昭和史』を見ると、文藝春秋さんの歩んでこられた時代が、それぞれの記事に実に見事に反映されています。編集されたのは半藤さんですね。
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半藤 |
私に言わせると、1巻目はものすごくよくできた。2巻目、3巻目は少し引き延ばしなんです。できは少しよくないと思いますが、ほかの人は一切口を出すなと独断と偏見で一人でやったんです。 やりながら感服したのは、創刊以来の『文藝春秋』は、実にきちんとその時その時の大事な問題を、当事者やその時代に生きている人たちをよんできて話を聞いています。ですから、あらゆる昭和の大事件は『文藝春秋』を読むと当事者らしい人が必ずちゃんと出てくるんです。 戦前の『文藝春秋』の編集者たちは、座談会をやると、余り整理しないでドカーンと載せるんです。長くて面白くないのもあるから、少し落としましたが。ただ、そういう意味では『文藝春秋』は非常につくりやすい。『中央公論』でつくろうとすると、論ばかりになって、恐らくできないんじゃないですか。 これは論は何もない。全部当事者なんです。菊池さんたちからの方針である現場主義、地についたジャーナリズムが徹底していたみたいですね。 |
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軍部の独走をはっきり批判している当時の『文藝春秋』 |
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篠崎 |
例えば「西田幾多郎を囲む座談会」に三木清や谷川徹三さんらが出ている。半藤さんが言われたように、近衛文麿、松岡洋右、それに宇垣一成が組閣工作を書くとか、当事者の声が聞こえるような形の編集だと思います。
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半藤 | 例えば、「満蒙と我が特殊権益座談会」は、「敵中横断三百里」の陸軍の建川美次、中野正剛とか、すごい大物も入れてちゃんとやっているんです。これは昭和6年の満州事変を、軍部の独走を珍しいぐらいはっきり批判している。建川さんが皆からやられて、たじたじとなっているところもあります。「五・一五事件の厳正批判」とか、「改訂小学読本批判」は座談会じゃないんですが、私の時代の「サイタサイタ サクラガサイタ」の教科書が時代をおかしなほうにひん曲げていくんじゃないかと予感しているようなことがあったり、なかなかしっかりしているんです。「言論の自由と圧迫を聴く座談会」なんて、実に言論の圧迫がひどくなっているじゃないかと。
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篠崎 |
だけど、よく発行できましたね。
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半藤 |
かなり危なかったんじゃないですか。ただ『文藝春秋』が非常にいいのは、当局のほうが論評雑誌じゃなくて、菊池さんが「六分の慰楽、四分の学芸」と言っているから、半分娯楽雑誌と思われていたんじゃないか。
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半藤 | 新聞は昭和6年の満州事変以降はがたがたになります。雑誌は『中央公論』も『改造』も頑張る。『東洋経済』は石橋湛山がいますから特に頑張ります。我が『文藝春秋』もどうしてどうして。
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篠崎 |
新聞と雑誌ジャーナリズムの違いは、いかがでしょうか。
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白石 | 私が編集長をやっているころ、社の首脳部から言わたことで印象に残っているのは、『文藝春秋』の大きな役割の1つは、新聞批判だということを言われました。だから「新聞エンマ帖」というのを、4ページ程度ですが、ずっとやっている。あれが『文藝春秋』にとって、非常に意味のあることなんだと言っていました。
新聞は、雑誌に比べてメディアとしての影響力は絶大である。新聞は権力なんだ。雑誌は権力に向かって闘うものであるから、政府批判・官僚批判をやるのと同じぐらい力を入れて新聞批判をやるべきである。新聞が世論を誘導していく。その誘導の仕方で非常に危険なときがあるから、目を離してはいけない。常にチェックする役割を持っているんだということを言われたものです。編集者は、そういう先輩の言うことを随分頭に入れて、実際の編集作業に当たっていくことが多い。 |
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篠崎 |
具体的には田中金脈問題がまさにそうだったんですね。
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白石 |
そうですね。あのときも新聞記者は、金脈の実態を知っているけれど、日常的にそれを見ているだけにニュースと思わなかった。そういう意味で言うと、雑誌は、政治部、社会部、経済部なんてない。言ってみれば、雑誌の編集者は素人なんです。素人ゆえに、いろんなものに対して喜怒哀楽を感じる。そういう立場にいつも身を置いている。ある意味では非常に自由で、感受性を持ち続けられるところがあるようですね。
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世論が一方的に動くときにアンチテーゼを出すことも |
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白石 | そのことで先輩編集者からよく言われたのは、例えば、今、国民感情が何かのことで沸騰して、ワーッと1つの方向に行こうとしているときに、その渦中に入って、我先にと先を競って走り出すようなことはやめろ。雑誌とは、もっと冷静な気持ちをいつも持ち続けて、今進んでいるこの方向が、果たしていいのかどうかを見極めろと、折に触れ言われたものです。
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半藤 | 例えば一番象徴的なことでは、戦後の『文藝春秋』は、菊池さんが追放になって、文藝春秋社は俺の一代で終わりにするというんで、後に残った人たちが文藝春秋新社という形でスタートした。だから昭和21年に2か月ぐらい休刊しています。いずれにしてもスタートが遅れたから相当苦闘したんです。
その苦闘の昭和24年、池島信平さんが編集長のときに、「天皇陛下大いに笑ふ」という座談会をやって当たったわけです。池島さんになぜやったのかと聞いたら、ちょうど東京裁判があり、天皇は免除されていますが、各雑誌や新聞などが天皇批判で、かなり国民世論がわいているころです。 そのときに池島さんが、日本人の天皇に対する気持ちはもっと素朴なものじゃないのか、そういう世論に対するアンチテーゼとして「天皇陛下大いに笑ふ」をやったと。初めは「天皇大いに笑ひ給ふ」という題でしたが、どうせアンチテーゼで出すなら、世論に格好つけないで「天皇陛下大いに笑ふ」でいいと佐佐木茂索が言ったという話です。 誰か批評で書いていました。『文藝春秋』も世論に乗って「給ふ」を抜かしている。代りに「陛下」をつけている、何事であるかと。世論が一方的に動くときには雑誌の果たす役割があるんだということはよく言われましたね。 |
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超一級の資料「昭和天皇の独白8時間」 |
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篠崎 | 昭和天皇に関しては「昭和天皇の独白8時間」がありますね。
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白石 |
この聞き書きの存在は、断片的に『側近日誌』によって暗示されていましたが、この年に発掘された記録は全内容を天皇の語りのままで、「私は……」という一人称で記録してあり、戦中の昭和天皇の姿が初めて明らかになったと言えます。 この記録を残したのは、当時、昭和天皇の御用係を務めていた寺崎英成氏で、娘のマリコ・テラサキ・ミラーさんが父上の遺品を整理されて発見されたと、連絡が入った。 資料が本物かどうか、半藤さんに見てもらいました。しかし、何のためにこの記録が作られたのか、不明な点は多いのですが、当時は戦犯逮捕や天皇退位が検討されていた時代状況です。独白録は「天皇無罪論」を補強するため、天皇ご自身からお話を伺う機会をもったものとも考えられるし、逆に、自ら昭和を回想して後世に記録をとどめようとのご熱意を抱かれたとも推察される超一級の資料です。 |
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白石 |
非常に新鮮で魅力的な企画でしたよ。城山先生と『文藝春秋』とのご縁は非常に長いし、頻度も高く、いろんな分野にわたっています。
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城山 | アメリカ講演旅行も第1回目ですから。柴田錬三郎さんと私と山崎朋子さん。 |
白石 | 今年だけでも『文藝春秋』に3回お書きいただいています。7月号では「私をボケと罵った自民党議員へ」、これはメディア規制に対してお怒りになって書かれた。4月号では「危機の蔵相 その生と死」、2月号では「企業戦士の悠々自適」、これは「無所属の時間」が、いかに大切かを説かれたものです。
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半藤 |
つまり、評論家にやらせると経済問題とかは複雑になってしまうから。とにかく城山さんは便利なんです。
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白石 |
『文藝春秋』は経済に弱いという弱点があったんです。専門家の学者に経済問題を書いてもらっても編集者が大体理解できない。城山さんがお書きになると、人間が生きてきて、非常に面白い。
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半藤 |
編集者が読んで理解できないものは載せたくないんです。
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自民党の政治家を描いた「賢人たちの世」は『文藝春秋』の連載 |
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篠崎 |
城山先生は、お若いときから作家になろうと思われたのですか。
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城山 | 私は商家の長男ですから跡を継ぐことになっていた。それで本ばかり読んでいるから、これにうちを継がせたら、うちはつぶれるということが親はわかってきて、10歳違いの弟に家督を。だけど経済の学校へ行けと。
名古屋で商家の長男の場合ですと、名古屋商業学校ということになります。そこから行けるベストのコースの学校というと一橋。しかし、卒業後は一橋に残ることよりも、とにかく本を読むことをしたい。そしたらおやじが、学者でいいから名古屋に帰ってこいというので、愛知学芸大学へ。11年勤めました。 |
白石 |
私が『文藝春秋』の編集長をやっているときに、城山さんに「賢人たちの世」というのを書いてもらったんです。連載です。
昭和の三賢人と呼ばれた政治家、椎名悦三郎、前尾繁三郎、灘尾弘吉の3人です。このころ自民党は腐敗し切っていたんですよ。これは田中角栄の後遺症などがあって、権力闘争が激しかった。総裁選で依然として金が乱れ飛ぶという時代でした。 |
城山 |
そういうときに竹下さんが総理になってすぐ、そういう批判にこたえるために民間から賢人と呼ばれる人を何人か集めて顧問にして、政治をよくしたいために賢人会議を発足させるといって、小渕官房長官から直接電話がかかってきた。
「賢人会議のメンバーになってほしい」「いや、私はそういうことはしませんから」「でも、話だけでも聞いてほしい。三拝九拝してもいい」と。それで「今から旅行に行くことになっていますから」と言って、バッと箱根に行っちゃった。 それで賢人たちが昭和にいたというから、賢人と言われる人が日本にいたのかと調べ出した。やっぱり3人とも立派な人ですね。 |
白石 |
こういう方も自民党にいるということで、非常に大勢の方に読まれました。
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