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平成15年3月10日 第424号 P3 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 高座郡衙の発見と古代の相模 (1) (2) (3) |
P4 | ○山の作家・深田久弥 田澤拓也 |
P5 | ○人と作品 浅倉卓弥と『四日間の奇蹟』 藤田昌司 |
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座談会
高座郡衙(たかくらぐんが)の発見と古代の相模 (3)
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明石 |
横浜市緑区の長者原遺跡で確認された都筑郡衙の郡庁域は約50メートル、今小路西遺跡が大体50メートルクラス。それに比べて高座郡衙は64メートルと非常に大きい。国庁にしてもおかしくない規模です。さらに、7世紀の終わりから8世紀初頭にしては非常に整いすぎています。正殿があって、北に後殿、東西に脇殿があるという構造のものがこの時期に出るということは、中央と直結するような建物構造をとっていたとも考えられます。
長者原遺跡(都筑郡衙)も今小路西遺跡(鎌倉郡衙)も大体同じ時期で、それで一番整っているのは高座郡衙なんです。その辺に、疑問を感じるんです。 |
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地元の勢力ではなく中央の強い方針でつくられた可能性 |
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明石 |
もう1つ、7世紀末から8世紀初頭は、実はいろいろと問題を抱えています。
国府の件ですが、国司は中心部の政庁や国庁で実務をする前に、どこかの郡衙に住まなければいけない。それを荒井さんは国宰所(こくさいしょ)と言われ、小田原市の下曾我遺跡を考えられていますが、相模の国庁がつくられる前に、そうした国司が郡庁の所をうまく間借りして、そこに住んでいたのかなと、私は想像するんです。 そうすれば、立派な郡庁でもいいのかなと。 |
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荒井 |
正確には評衙なんです。その後、郡衙に変わる。
長者原遺跡(都筑郡衙)もそうですが、最初からいきなり公的につくるのではなく、地元の豪族の屋敷を改築するような形でつくられ、次の段階で正式なものにしていくという二段階を踏むんですが、高座郡衙は、いきなりちゃんとしたものをつくっているので、地元の勢力というより、中央の強い方針でつくられたものだと思います。今の明石さんの話は、心情的には国府が平塚へ移るという伏線になっているわけです。それも1つの考え方かなと思います。 |
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明石 |
考古学で出てくるのは、建物跡と遺物だけでしょう。ですから、それを歴史の一環として解釈を加えるにはなかなか難しいんです。
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大上 |
奈良文化財研究所の山中敏史先生に見てもらったのですが、郡庁域の正殿の柱穴は大きいと言われていましたので、この立派さは間違いないと思います。
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国司より郡司のほうが強かった地元に対する影響力 |
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篠崎 |
そうすると、国宰所ということでしょうか。
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荒井 | 全国的に国府は8世紀の第2四半期にならないと遺構が出てこないもので、それ以前は、国司は評衙や郡衙とかに併設された国宰所にいたんだろうと、大方の人が共通見解として持っていると思うんです。ただ、それが一定の場所にいたか、国内を移動していたかという問題はあります。
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明石 |
律令国家は農民から税金を取り立てるでしょう。税金を取るさいに、一番の実力者は地域の豪族です。彼らが郡司層になるんですね。ですから、ここに基本的に郡衙(評衙)を先につくっておいて、税を取るわけです。その後、郡衙を取り仕切る国の国府をつくるというほうがわかりやすい かなと思うんです。
中央が最初に地元をきちっとつかまえる。それで中央から国司が派遣されて仲よく手を握ったりして、うまく1つの国をまとめ上げるということだろうと思うんです。だから、郡司に逆らわれたら国司は困る。逆らったかわりに首になるかもわかりませんけど。
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荒井 |
国司は任期制で替わりますが、郡司は終身職が原則で、しかも世襲しますから地元に対する影響力は当然、郡司のほうがはるかに大きいんですね。
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篠崎 |
兵力みたいなものも持っていたんですか。
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荒井 |
もともと国造層は私兵みたいなものをもっていました。それが律令体制のなかで、兵士となり軍団の兵に転化されていく。
もともとは在地の豪族、つまり郡司の在地支配を基準にした間接支配、これが律令国家です。国司からいきなり人民に行かず、間に郡司が入るんです。 |
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壬生氏の本拠地から離れた茅ヶ崎にあるのは中央の政策か |
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篠崎 |
10世紀に編纂された『和名類聚抄』に、高座郡の郷名が出てきますが、この遺跡はその郷名に当たるような場所だったんでしょうか。
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大上 |
郷というのはいくつかのムラが集まってできる行政単位で、高座郡には高座郷というのがあって、一般的に郡名と同じ郷名の所に郡衙がある。それを当てはめれば下寺尾西方A遺跡の所は高座郷という可能性もなくはない。
けれども、海老名市の本郷遺跡とは限らなくても、海老名市の辺りに高座郷を比定するのが一般的な理解なんです。
もしそうであるならば、海老名市辺りに郡衙があってもいいのに、南の茅ヶ崎の下寺尾に郡衙があることは、1つの大きな問題になってくると思うんです。 壬生氏の本拠地は、伊勢原の比々多神社のほうだろうというお話がありましたが、幾つかの縁者、一族からなっているんでしょうから、相模川の東で壬生氏の1つの勢力があってもいいのかなと思っています。 仮に海老名市本郷の辺りが高座郷ということであれば、その辺りに壬生氏の本拠地があって、中央の政策的なもので茅ヶ崎のほうに郡衙が置かれたと、今のところ私は考えているんです。 |
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郡衙が移転したのは交通網の変動に関係か |
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大上 |
先ほども話に出ましたが、寒川町の宮山中里遺跡で、30メートルぐらいの前方後円墳が見つかっていまして、そこは距離的には下寺尾と海老名の本郷遺跡のちょうど中間になるんです。時期は六世紀後半から七世紀初めぐらいなので、その辺とのかかわりも、今後考えていかなければと思っています。
郡衙が茅ヶ崎のほうに位置しているのは、東海道が海岸寄りを走っているからで、多分それは流通とか中央の政策的なもので郡衙の場所が選ばれたと考えられないかなと思うんです。 |
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明石 |
そう思います。
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荒井 |
国分寺が海老名にあるというのが最大のポイントで、天平期ころには高座郡のなかでは、やはり海老名辺りが文化の中心なんです。
ただ、相模の場合、この遺跡の時期の問題とも絡んできますが、交通網からいうと、武蔵国は東海道ではなく、東山道です。ですから東海道は横浜、川崎のほうに行かないで三浦半島から房総半島に行くのが最初です。それが宝亀2年(771)に武蔵国が東海道となって、海老名から東京都の府中のほうへ上がっていくルートに変わるから、その時期に、相模国内の公的施設は配置替えがあるはずなんです。その時期とうまく合ってくれれば、郡衙が動いた理由は多分、交通網の変動、つけ替えで済むんですが。 |
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篠崎 |
最後に相模の国府をめぐって、神奈川の古代の様子を教えていただきたいのですが。一般的には、海老名市に国分寺跡があるので、その近くに最初の国府が置かれたのではないかと言われておりますね。
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荒井 |
もう1つは、海老名の国分寺が完成する前の仮指定の国分寺が小田原の千代寺院跡だという考えです。この寺は7世紀末にさかのぼる可能性がある古い寺院で、武蔵の国分寺の鬼瓦と同じ型で製作された鬼瓦が出土しています。そうすると、必然的に国府は小田原だとする説が生れる。 ですから、順番でいくと、小田原→平塚→大磯と、海老名→平塚→大磯の2つと、あと、小田原と海老名は状況証拠だけですから、そうしたものを切り取った場合、国府の場所は平塚と大磯しか残らないという考え方があります。 それが明石さんの考え方で、私も奈良時代の終わりは平塚でいいかなと思っています。 そこから先、どこまでさかのぼれるかというのは難しいところですが、国府とか郡衙は路で結ばれているのが一般的なので、今回、高座評(郡)衙が茅ヶ崎で発見されると、東海道が海岸線を通っていると考えられる点では、国府の位置は海老名説よりも平塚説にかなり有利なんです。ただその後、なくなっているのがまた次の問題ですが。 |
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平塚市四之宮周辺を決定づける「国厨」の墨書土器 |
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明石 |
それで私は、現在の平塚市四之宮一帯に国府があり、それは8世紀前半までさかのぼるだろうと思っています。というのは、東海道が、平塚の海岸線から5キロぐらい行った所に、幅9メートルの道路が、最初の遺跡で43メートルぐらい、その後の調査で大体900メートルぐらいが、ほぼ東西に延びていることがわかりました。そして出土遺物から8世紀の中ごろにつくられたことがわかっています。 もう1つは、「国厨(くにのくりや)」という墨書のある土器が四之宮の稲荷前A遺跡から出土しています。相模国の台所を預かる所を意味する文字で、これが少なくとも8世紀後半です。小田原説も海老名説も、『日本三代実録』に載っている元慶2年(878)の地震で被害を受けたことを契機に平塚に移転したというものです。 「国厨」の墨書の土器の年代と比較すると、約百年のギャップがある。そうすると、大きな2つの移転説の根拠はちょっと苦しいので、そういう意味では相模国府の位置は平塚でいいと思うんです。 |
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大住郡衙の場所は高座郡衙と同じ東海道の要衝 |
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明石 | あともう1つあります。高座郡衙が7世紀の終わりから8世紀初頭と言われましたね。平塚からは、その時期のもので、「大住厨」という墨書土器が出ています。それが八世紀の前半で、第2四半期ですから、その時期に大住郡の郡衙が成立していたと考えられ、そうしたものも今の国府の中に入ってくるだろうと。
もう1つは、平塚の天神前という遺跡ですが、そこからは7世紀の終わりから8世紀初頭の鍛冶工房跡が出ています。ですから、隣の高座郡衙の状況を見ると、大住郡衙も本来なら伊勢原のほうにあってもいいはずなのに東海道筋にあるということも、中央との意向が強いというふうに。 まず最初に大住郡衙を四之宮に持ってきて、そして高座郡衙のほうも茅ヶ崎の下寺尾に持ってきて、そこで基盤をつくって、その後、平塚のほうに要である国府を置いているんだと、私は思うんです。 |
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交通ルートの変更に伴い、海老名に郡衙を移し国分寺創建か |
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篠崎 |
大住郡衙と相模の国府は同じ場所にあったと考えていいのですか。
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明石 |
という可能性が高いと思います。
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荒井 |
とにかく国分寺の問題だけなんです。平塚に国分寺があれば何でもないんですが。
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明石 |
国分寺と言われましたが、私も海老名周辺に最初、評衙というか郡衙があってもいいんですが、これもやはり東海道筋という所を考えれば一番近い所の下寺尾周辺に評衙を持ってきて、でき上がった後、海老名にもって行っていいんだろうと。
そうすると、問題になってくるのは、下寺尾寺院です。あれは残ってくる。それは例えば、下寺尾寺院跡を国府の出先機関と考えるか、郡衙の出先機関と考えるか、そこに郡が移っても、その地域に1つ公的な施設を残せばいいわけです。そして自分の本来の本貫地であった海老名周辺に郡衙をつくる。つくった後に国分寺をつくれば筋は通る。 海老名に置かれているのは、立地条件からいうと、相模と武蔵を通るルート上で、確かにいい所にあるんです。そこで国分寺をつくればいいだろう。 |
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篠崎 |
聖武天皇の詔によって全国に国分寺がつくられることになる天平13年(741)は、高座郡衙が下寺尾の場所からすでに移転した後ですからね。
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荒井 |
国分寺は基本的に、相模国のための寺じゃなく、律令国家のための寺として相模にある。天平期に天然痘とか藤原広嗣の乱とか、国内が乱れているので、それを鎮めるための国家の寺ということで、基本的には中国のまねです。相模のためのお寺は、下寺尾寺院とか、地元の豪族が建立した寺院ですね。
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明石 |
多分、壬生氏の一族が総力を挙げて国分寺をつくったと思うんです。その中心が高座の郡司でもいいと思うんですが、まだ、仮説ですから。
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篠崎 |
どうもありがとうございました。
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大上 周三 (おおうえ しゅうぞう) |
1948年兵庫県生れ。 |
明石 新 (あかし あらた) |
1950年新潟県生れ。 |
共著『図説 平塚の歴史』郷土出版社(品切)、ほか。 |
荒井 秀規 (あらい ひでき) |
1960年東京生れ。 |
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