Web版 有鄰

  『有鄰』最新号 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版目録)


有鄰


平成15年8月10日  第429号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 関東大震災80年 (1) (2) (3)
P4 ○フランス山の風車  中武香奈美
P5 ○人と作品  清原康正と『山本周五郎のことば』        藤田昌司

 座談会

関東大震災80年 (3)



(大きな画像はこちら約〜KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。

相模湾沿岸を襲った津波と山津波

篠崎 神奈川県の場合は、火災のほかに津波や山津波の被害も大きかったですね。

寺嵜 一番被害が大きかったのは根府川の山津波ですね。根府川駅に八両編成の蒸気機関車が入ってきたところに地震が起きて、先頭の六両が海に落ち、後ろの二両が海に落ちないでころがった。先頭の機関車の車体プレートが交通博物館に残ってます。200人の方が犠牲になったと言われてますが、鉄道省の調査だと107名です。

寺嵜
土砂に埋った根府川の集落
土砂に埋った根府川の集落 (大きな画像はこちら約65KB)
神奈川県立歴史博物館蔵
『大正十二年九月一日 大正震災写真帖』から

そのほかに白糸川を流れ下り、根府川の鉄橋を押し流し、根府川集落を埋めてしまった山津波があります。水を含んだ土石流です。

上流で山津波が起こったのは、本震の揺れによるものです。それが川に沿って流れ下り、本震から5分後に根府川にやってきた。

根府川の住民の方の証言によると、近所の家にいて大きな地震に遭った。揺れがおさまったので自分の家に戻ったときに、また大きな揺れがあって、雨戸が外れた。これがおそらく東京で言っている12時3分の3回目の揺れですね。そのとき、「山が来たぞ!」という声がして、ダアーッと山津波が来た。ちょうど時間が合いますね。

 
  由比ヶ浜で100名、江ノ島桟橋で50名が津波で行方不明に

篠崎 相模湾沿岸の津波もひどかったようですね。

寺嵜 鎌倉や小田原の津波の被害は大きいですね。

鎌倉国宝館に、藤原草丘というアマチュアの日本画家が描いた「鎌倉大震災絵巻」(6巻)がありまして、津波が襲ってきた様子がリアルに描かれています。そのほかにも、火災の被害や、大仏がちょっと前のめりになったとか、海賊船、今でいう「不審船」みたいなものが出たといううわさで人々がワッと押し寄せているところなども描かれている。『鎌倉震災誌』という公式の報告書には、そういうことは余り載ってないんです。

鎌倉・七里ヶ浜の津波の跡
鎌倉・七里ヶ浜の津波の跡 (大きな画像はこちら約63KB)
神奈川県立歴史博物館蔵
『神奈川県震災誌』から

武村 津波では、鎌倉の由比ヶ浜海水浴場で100名、江ノ島桟橋で50名の行方不明者が出ているし、根府川では、子供たち20名が海辺で遊んでいて山津波と津波、両方にはさまれたという話もあります。

篠崎 津波は海底の隆起によって起こるということですが、どのへんが隆起したのですか?

武村 房総半島や相模湾沿岸は随分隆起してます。

寺嵜 三浦半島の油壷では1.4メートル隆起しています。


孤立と不安がパニックと流言の素地に

篠崎 地震の後、壊滅状態の横浜は孤立してしまいますね。

今井 東京の場合は被害が大きいけれども、半分は残っているわけです。だからすぐに救援が来るし、軍隊もある。

ところが横浜の場合は、全市がほとんど壊滅状態で、まったく孤立してしまう。着たきりで食べ物がなく住む家もない数十万の人々が、あちこちの避難先にたむろする。「倉庫内に多大の残米あるも配給の路なく、罹災民の取るにまかす、4日中に尽くる見込み」。これは3日夕方の政府への報告で、配給する力もないわけです。住民は非常な不安にかられ、掠奪も横行します。

そうしたなかで朝鮮人が井戸に毒を入れたとか暴動を起こしたという流言が起こり、それを今度は警察や軍隊が信じ込み、中央からの情報として全国的に流されます。そこで戒厳令が布かれます。

この戒厳令は、戒厳令の一部を、被災地の秩序維持と人心安定と罹災者救援のために施行した行政戒厳ですが、軍隊では朝鮮人の暴動を鎮圧する軍事力行使のための対敵戒厳だと思ったようです。自警団などの朝鮮人虐殺もますます激しくなります。

篠崎 軍隊も警察も抑止力になっていないんですね。

今井 先頭に立ってしまいます。5日ぐらいになって、間違っていたということで方針変更を始め、言論弾圧が厳しくなります。

武村 警察そのものにも、正確な情報は入っていないわけですね。

 
  神奈川県下でも起きた中国人虐殺事件

今井
震災2、3日後の旧横浜外国人居留地一帯 (関内地区)
震災2、3日後の旧横浜外国人居留地一帯 (関内地区) (大きな画像はこちら約68KB)
O.M.プール氏旧蔵

横浜では、中華街で木骨煉瓦造りの建物が崩壊して2,000人近い死者を出しますが、それとは別に中国人虐殺事件が起こっています。中国人虐殺事件では亀戸に近い大島町事件と王希天事件が有名ですが、横浜など神奈川県下で殺害された中国人は、100人近くにのぼります。

朝鮮は当時は日本の植民地でしたから、朝鮮人虐殺事件は記録に残せなかったのですが、中国は日本に圧迫されていたとはいえ、独立国でしたから、帰国者から聞き取るなど、記録は残しています。日本政府も外交問題になるので、厳秘にしながらも記録を残しています。

横浜開港資料館では、10年前に台湾の近代史研究所所蔵の虐殺された中国人の名簿を入手し、展示しましたが、最近は中国の資料や日本外務省記録を用いた密度の濃い研究が生まれています。

 
  情報不足のなか長く続く余震が不安をかきたてる

武村 時計なんか持って避難してないでしょうし、ある場所も少ない。時間すらよくわからないうえ、ラジオ放送もまだ始まってませんから、情報は街角に貼られた官報や新聞の号外しかない。

何も情報が与えられず、どこで何が起こっているのかわからないということが、人々の不安をかき立てた。しかも9月1日、2日は揺れっ放しというぐらいの余震が来ていますので。

静岡県の富士浅間神社(現・富士宮市、当時の大宮町)の主典(さかん)を務めた河合清方という人が、丹念に日記を付けているんです。

その日記によると、大きな余震が来ると、必ず流言が出ている。余震が人々に不安を与え、流言などを起こしやすい要素になっているようで、余震を軽視はできないという気がしますね。

寺嵜 それは、横浜や東京など、特に都市部に多かったんじゃないでしょうか。

例えば今回、展示でお借りしたものに、湯河原町に村の中だけで配るガリ版刷りの新聞があるんです。地震が起きたあとの9月3日から発行しているのですが、これを見ますと、村内の有志たちができるだけ冷静に情報を与えることによって不安を取り除き、村の秩序維持に努めているのがわかります。

熱海線(現・東海道線)の工事に朝鮮人の労働者がたくさんいて、内輪もめが起こった。それを周りが暴動だと思って、警察が先頭に立っていくわけです。それを村の重鎮たちが止めたというエピソードもあります。

今井 小さい社会だと仲間は皆わかっていますが、見知らぬよそ者には警戒します。

この時期は、朝鮮人労働者も中国人労働者も急増した時期で、それに朝鮮の独立運動に加えて、中国でも日本の満蒙利権の回収運動がおこるなど、国際、国内の情勢も厳しさを加えていました。

そういうなかで警察は朝鮮人や社会主義者に対する警戒を強めていました。それが流言の素地になります。

横浜では斉藤秀夫さんが戦後、早くからこの事件の研究を始めています。そして警察がとった治安維持のための朝鮮人保護が流言をひきおこすきっかけとなったのではないか、と主張しました。

最近では、今言ったような状況から、警察が地域のリーダーたちと協力して地域の秩序維持をはかる、自警の動きが神奈川県下各地で広がり、自警団がつくられていたことが指摘されています。


もういちど再現したい震災の記憶

篠崎 今回の展覧会の概要をご紹介いただけますか。

寺嵜 80年たって、いろいろな記録や人々の記憶をもう1回再現しようというのがコンセプトなんです。その一つとして、神奈川県内各地に残っている震災の記念碑や供養碑のリストを調べたのですが、100か所近くありました。山北町とか南足柄市とか、県西部に比較的多いのは、やはり被害が大きかったということと、都市部は再開発などで石碑が取り壊されたりしたようです。一番早い碑は大正12年の12月です。

それが、昭和4年に横浜市の復興記念式が行われ、昭和5、6年になると慰霊より、震災の復興とか、土地改良に変わってくる。そして、昭和十年の山下公園での復興記念横浜大博覧会以降は、戦時体制になっていって、震災のことはいわれなくなる。

武村 碑はいつぐらいまでつくられているんですか。

寺嵜 根府川駅に昭和17年10月に建てられた受難碑がありますし、戦後に建てられたものもあります。

関東地震の東京の地震計の記録
関東地震の東京の地震計の記録 (大きな画像はこちら約38KB)
東京大学地震研究所蔵

それから、東京大学地震学教室の地震計の記録が地震研究所に残ってまして、これも展示します。

もう一つ、珍しい映像があるんです。震災2か月後の11月9日に、奈良市で神奈川県主催の震災の事情報告会を開催しています。これは、震災直後に、大阪を筆頭に関西の九府県が連合して横浜に事務所を置いて、病院や仮設住宅をつくったりして援助してくれた、そのお礼も兼ねています。そのときに上映した震災の状況を撮影した映画が残っています。今回、8月17日に上映会をやります。

これは、横浜シネマ商会という映画会社が飛行船から撮影したもので、横須賀の追浜海軍飛行場を出発し、江ノ島を回って横浜の正金銀行や横浜港を通り、東京駅、銀座、本所の被服工廠跡、浅草まで行って、追浜に戻ってくるという12分の映画です。

今井 関西からの救援は大変早かったのです。情報が届くのは9月2日の未明ぐらいですが、その日の午後に神戸と大阪の両方から出港しています。大阪は大阪商船、神戸は日本郵船の船で、二つが競争するようにして横浜に着くのが9月3日夜です。まだ東京からの救援が来ないときです。

ところが横浜の当局は、市内が混乱して海軍陸戦隊が上陸中だとして上陸を許さず、せっかく物資が来ているのに何もできない。結局、港内の船に物資を渡したり、医療班が移って治療したりする程度で、6日になってようやく上陸して、救護所を開きます。

関西からの救援で最も注目されるのは震災救護関西府県連合で、加工した建築材料、技師、労働者、テント・寝具、食糧、飲料、車両、慰問品などを汽船に積み込んで、仮病院とバラックを建設し、寄贈したことです。1,000人収容の仮病院は、中村町の石油倉庫跡に9月25日には竣工し、ついで、その横の関西村と呼んだバラック52棟をはじめ65か所200棟のバラックが逐次、建設されました。

 
  地震学、防災の観点からも地震博物館を

今井 横浜には昔、震災記念館が野毛山にありました。それが戦争中に市民博物館になり、ついで市会議場にされ陳列物は地下倉庫に投げ込まれたという話ですが、今は何もありません。残念です。

寺嵜 震災記念館は1年後の大正13年に横浜小学校の校庭に仮につくられたのが最初です。その後、野毛山に建てられた。被害のジオラマ写真や、焼け焦げた金庫など、遺品類がいろいろあったそうです。

今井 小学生の作文が一部分だけ市の中央図書館にあります。横浜市史編集室もごく一部入手したそうです。

横浜市震災記念館
横浜市震災記念館 (大きな画像はこちら約60KB)
神奈川県立歴史博物館蔵
『横浜市復興記念写真帖』から

武村 震災当時、地質調査所が調査した「関東地震調査報告」も、東京、千葉、埼玉は出版されたのですが、神奈川、山梨、静岡は、原稿すら行方不明になっている。これは、地震学や地震工学、防災の観点から考えても大きな損失です。ですから、地震博物館のようなものをつくって、保存してほしいですね。

篠崎 貴重なお話をありがとうございました。




 
今井 清一 (いまい せいいち)
1924年群馬県生れ。
著書『日本の百年5 震災にゆらぐ』筑摩書房(品切)『新版大空襲5月29日』有隣堂(有隣新書)1,050円(5%税込)、ほか。
 
武村 雅之 (たけむら まさゆき)
1952年京都市生れ。
著書『関東大震災』鹿島出版会2,415円(5%税込)、『大地震と都市災害』(共著)同2,730円(5%税込)、ほか。
 
寺嵜 弘康 (てらさき ひろやす)
1957年新潟県生れ。
 

書名(青字下線)』や表紙画像は、日本出版販売(株)の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売(株)が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.comの【利用規約】や【ご利用ガイド】(ともに外部リンク・新しいウインドウで表示)
を必ずご一読くださいませ。






ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.