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平成16年10月10日 第443号 P2 |
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○座談会 | P1 | ジャズの街・横浜 (1)
(2) (3) 五十嵐明要/澤田駿吾/平岡正明/バーリット・セービン/柴田浩一/松信裕 |
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○特集 | P4 | 明治の棟梁たちの西洋館 増田彰久 | |
○人と作品 | P5 | 玄侑宗久と「リーラ」 |
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座談会 ジャズの街・横浜 (2)
~「モカンボ・セッション」の時代を語る~ |
約~KB … 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
◇進駐軍の影響が大きかった戦後のジャズ |
松信 |
戦後はやはり、進駐軍の影響は大きかったんでしょうね。 特に横浜には大勢の進駐軍が駐留していましたからね。 |
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柴田 |
僕は戦後生まれですけど、戦争に負けて横浜に進駐軍が来た。 その辺はよく覚えているんですけど、それがなかったら横浜はもちろん日本にジャズはこれだけ根づかなかったと思います。 横浜駅の東口にトラックが止まっていて、東京に帰るミュージシャンを荷台に乗せて帰ったという話を聞きましたけれど。 |
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澤田 |
進駐軍のクラブの送り迎えは、トラックとかバスでやってくれていたんです。 新宿の甲州口と東京駅降車口にミュージシャンが集まっていて、楽器を持って立っていると、そこに進駐軍のバスが着くんです。
それで「ミュージシャンであいているのはいないか。」と言って、バスに乗せられて、そこでバンドを編成して演奏させられる。 仕事が遅くなって電車がなくなったときは、クラブで車を出してくれた。 |
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平岡 |
それは何年ごろですか。 |
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澤田 |
昭和26、7年ごろです。 我々は5人で仕事をしていましたけれど、クラブからは8人編成で来てくれとか、オーケストラで来いという注文があるんですよ。
そうすると、足りないから甲州口で拾っていこうといって、楽器を持っている人に、「あんたトランペット、来て。」と言ってバスに乗せて、車の中でオーケストラをつくった。
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セービン |
ジャズらしいです(笑)。 コラボレーションですね。 バンドそのものの組み方もコラボレーション。 |
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澤田 |
新宿駅の甲州口は甲州街道沿いにずらっと屋台があるんですが、一時は、そのほとんどがミュージシャンの楽器預かりの店でした。 飲み屋の棚にドラムセットとかが置いてあるんですよ。
帰りには楽器をそこへ預けていく。 翌日仕事にありついたら、また楽器を出す。 バスがいつも2、30台並んでいて、「追浜のほうに行くよ。」とか「厚木だよ。」とか。
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松信 |
進駐軍のキャンプの施設へ行くんですね。 |
アーニーパイル劇場のオーディションで出演料が決まる |
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柴田 |
当時、キャンプでの出演料はどうでしたか。 |
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五十嵐 |
給料制です。 普通よりよかったです。 |
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澤田 |
最初の給料は査定で決まるんです。 米軍のアーニーパイル劇場、現在の東京宝塚劇場とかでオーディションをやるんです。 そこでABCDというランクをつけられて金額が決まる。
例えばAクラスは1時間600円。 1ドル360円の当時で約2ドルです。 演奏時間で計算してくれて、用紙にマネージャーがサインしてくれる。
それを劇場の窓口へ持っていくと支払ってくれる。 |
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五十嵐 |
そこはPDといったよね。 |
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澤田 |
そう。 グレードアップするには、またオーディションを受ける。 個人ではなくグループ単位です。 Aランクをとれば、どこのキャンプに行ってもその値段で稼げた。 キャンプの中には、オフィサーズ・クラブと、サージャント・クラブ、サービス・クラブとかアーミー・クラブとか、3つ必ずありましたね。 |
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セービン |
海軍の場合はCPOクラブ。 |
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澤田 | ||
セービン |
横須賀のEMクラブは珍しく基地の外にあって、ずいぶん有名な人がやっていたんですよね。 |
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澤田 | 我々もやりました。 あそこは大きいホールと小さいのがありましたね。 |
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平岡 | EMクラブは日本軍がつくったんですね。 最初ホテルだったらしい。 |
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五十嵐 |
結局はネービークラブだった。 |
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澤田 | 取り壊す前にテレビで演奏してくれというので、僕ら最後に演奏したんです。 床が抜けちゃっていて、「踏むと危ないよ。」とか言いながらステージに上がりました。
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日本人のミュージシャンはほとんど軍楽隊出身 |
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平岡 |
どうしてそんなにたくさんの日本人のミュージシャンがいたんでしょうね。 |
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澤田 |
ほとんどみんな軍楽隊出身ですよ。 |
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五十嵐 |
それから戦前からのミュージシャン。 でも、まず楽器がなかった。 僕なんかも楽器をようやく買って、それからスタートしたんです。 |
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澤田 |
10セントパートと言って、ペンタゴンで出した10セントで買えるオーケストラの譜面があったんです。 それは軍隊用の譜面なんですが、実によくできていて、フルのメンバーでも、楽器が減って最後はコンボになっても、ちゃんと演奏ができるようにアレンジができているんです。
コーラスパートもあって、兵隊たちも楽しめるようにつくってあるんですよ。 |
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五十嵐 |
それはキャンプで持っていて、サービス・クラブに行くと、いろんな曲の譜面があるわけです。 それをすぐ演奏するんです。 |
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澤田 |
どうせ譜面はないんだろう、って配ってくれてね。 |
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五十嵐 |
それが自分たちのレパートリーになっていくわけです。 |
横浜にいくつもあったジャズのクラブ |
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松信 |
当時、一般の横浜のクラブというと「ハーレムクラブ」が有名ですね。 |
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五十嵐 |
僕が覚えているところでは、「ゴールデンドラゴンクラブ」というのがありましたね。 |
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松信 |
どのあたりですか。 |
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五十嵐 |
今の横浜スタジアムのそばです。 それから加賀町警察署前に「ゼブラ・クラブ」があった。 |
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澤田 |
それと石川町の「クリフサイド・クラブ」。 |
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平岡 |
クリフサイドは現在もありますね。 |
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澤田 |
それから、火事で焼けちゃったけど、中華街の入り口の「チャイニーズ・クラブ」は大きかった。 |
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五十嵐 |
本牧のほうの「シーサイド・クラブ」。 たしかあそこはブルー・コーツがずっと出ていたのかな。 |
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澤田 |
弁天通りの近くに、「ザンジバル」っていうクラブもあった。 |
当時は珍しかったクラブのネオンサイン |
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松信 |
「ゼブラ・クラブ」は、その後、大桟橋近くに移転して、私が中学生のころだと思うんですが、夜、自転車で通りかかると、白とブルーの斜めのゼブラのネオンが輝いている。
当時ネオンなんて珍しくて、きれいでしたね。 ドアが開くと中から音が聞こえてくる。 自転車を止めて聞いた覚えがあるんですよ。 |
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柴田 |
伊勢佐木町の手前の吉田橋のそばに「オリンピック」ってあったでしょう。 あそこは電飾がチカチカ、チカチカしていて、子供心にきれいだなといつも思っていた。 それから有隣堂の裏に「午後」っていう店があった。 大橋巨泉が企画構成をやってたんですよね。 |
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松信 |
昭和34年のプログラムに「有隣堂裏」とあるんですよ。 国道十六号線に面したところだったらしい。 |
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◇夜中から朝まで続いた「モカンボ・セッション」の演奏 |
柴田 |
昭和29年の「モカンボ・セッション」には、どんないきさつで出るようになったんですか。 営業時間が終わった後と聞いてますけれど。 |
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澤田 |
我々はあそこのバンドだったんです。 そもそも、僕がリーダーで、交通公社が仕切っていた進駐軍回りをやっていたんですが、「横浜にこういうクラブがあって、進駐軍じゃないけどやってみないか。」と言われて、レギュラーのバンドの休みの日に一回僕らが出演したら、社長もマネージャーも気に入って、「このバンドにしよう。」と言って、翌月から僕らが入っちゃったんですよ。
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柴田 |
社長は植木幸太郎さんという人でしょう。 |
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澤田 |
植木さんです。 あの人は横浜銀行の支店長をやりながら、本牧でチャブ屋をやっていた。 今じゃ考えられないですよね。 (笑) |
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柴田 |
危ない人だ。 でも、いい時代だな。 |
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松信 |
「モカンボ」は伊勢佐木町の二丁目にあったんですね。 そのころの伊勢佐木町はどんな感じでしたか。 |
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五十嵐 |
いいところでしたね(笑)。 遅くまでやっている根岸屋があって、けっこう遊べたんですよ。 |
日本ではほぼ初めてのジャム・セッション |
柴田 |
じゃ、「モカンボ」がホームグラウンドだったんですか。 そうすると、渡辺貞夫さんなんかは。 |
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澤田 |
ビジターです。 我々がこういうジャム・セッションをやるから来ないかって誘ったんです。 |
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五十嵐 |
当時、ジャム・セッションというのは余りやっていないんですよ。 |
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澤田 |
日本ではね。 皮切りでしょう。 |
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五十嵐 |
もっと前には渋谷に外国人クラブがあって、そこで我々はずっと演奏していて、そこはシビリアン・クラブ、つまり軍属のクラブだったんですが、進駐軍の兵隊さんもよく来ていた。
楽器を持ってきたりする人もいて、一緒にまざってよくやった。 僕らは勉強になるし、一か月に一遍ぐらい、夜中に集まってセッションをやっていた。 |
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澤田 |
東京のミュージシャンだけじゃなくて、土曜日には横浜あたりからも、進駐軍の中の元ミュージシャンが聞きつけて、来るようになっていたんですよ。 |
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五十嵐 |
そこがだめになって、我々は「モカンボ」に行ったんですが、「モカンボ」でジャム・セッションをやらないかという話が出て、澤田さんが発起人になってやり出した。 |
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澤田 |
お店が終わるのが、11時ちょっと過ぎで、その後12時から朝まで貸してくれと言ったんですが、お店の人たちが、すごく理解があって、「無料で貸すけれども、そのかわり飲み物や食べ物は別だよ。」って、ホールはそのまま借りられたんです。
バーテンダーなんかも好意的にみんな残ってくれて、おにぎりとか、サンドイッチをつくってくれた。 入場料は手売りで300円か、500円か。 |
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五十嵐 |
でも、あれは後に取ったんだよね。 最初は無料だった。 |
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澤田 |
あんまり混むようになったので、入場料を取ろうかということになったんですよ。 セッションでも、みんな遠慮してステージに上がってこないから、ハナ肇に仕切らせればいいだろうって、3回目のときに、司会もお金の管理も、全部ハナ肇がやったんです。 植木等も手伝いに来ていましたね。 その時の演奏が、レコードに残っているわけです。 このモカンボのセッションの後に、ハナちゃんと植木の2人は、フランキー堺のシティ・スリッカーズで腕を磨いて、クレージー・キャッツを結成したんですよ。
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柴田 |
僕は信じられないんだけど、当時若かったにしてもよく朝までやりましたね、いくら好きだと言っても。 |
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五十嵐 |
それは別に全然不思議じゃないですね。 ものすごく楽しくて平気だったんですよ。 |
本物のジャズを見せたいという反発心がきっかけ |
平岡 |
このレコードで、五十嵐さんが出ていらっしゃる「パーディド」なんて、すごくエネルギッシュですね。 |
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五十嵐 |
1曲が30分なんて、そのぐらい平気で吹いていました。 |
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柴田 |
編曲の譜面なんかはどうしたんですか。 |
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澤田 |
ジャム・セッションは譜面なんかないんですよ。 みんな覚えているんです。 テーマは一緒にやって、あとはアドリブで、好きなだけ何コーラスでもやる。 |
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平岡 |
ピアノの守安祥太郎さんが最後に弾いて、そろそろ曲を締めようかという感じで、もう1回頭が出ておしまいになる。 ほんとに400メートルリレーの競走みたいで、五十嵐さん、渡辺貞夫さんを含めた4人のアルト・サックス奏者が次々にバトンを受け渡すように回していく。
これがすごく楽しいんだ。 |
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澤田 |
ジャム・セッションをやろうと言ったのは、そのころ、有楽町の日劇とか大きいところでは、大衆受けする音楽ばっかりやっているわけです。 当時のはやり歌、「テネシーワルツ」とか、そういう曲。 我々は若いから反発心もあって、そんなのはジャズじゃないんだ。 本物のジャズはこういうものなんだということを見せてやろうじゃないかというのが発端だったんですよ。 だんだんアドリブをやる機会が減るし、お店でアドリブで延々とやると、嫌われて首になっちゃうから、どうしても発散する場が欲しかったんですね。 すると、みんな我も我もと来るわけですよ。 アドリブの勉強にもなるし、周りのプレイヤーたちの情勢がわかる。 こいつは新しいことをやっているなとか、自分ももっとエッセンスを吸収してやらなくてはいかん、とか、すごく刺激になった。 |
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柴田 |
すばらしいですね。 |
つづく |