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平成16年10月10日 第443号 P4 |
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○座談会 | P1 | ジャズの街・横浜 (1)
(2) (3) 五十嵐明要/澤田駿吾/平岡正明/バーリット・セービン/柴田浩一/松信裕 |
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○特集 | P4 | 明治の棟梁たちの西洋館 増田彰久 | |
○人と作品 | P5 | 玄侑宗久と「リーラ」 |
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明治の棟梁たちの西洋館 増田彰久 |
増田彰久氏 |
開智学校の額 |
金太郎のような顔をしたエンゼルたち |
約〜KB … 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
急速な近代化を支えた江戸時代の高度な工芸技術 |
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1853年(嘉永6年)、浦賀にアメリカのペリー艦隊が軍艦4隻でやってきた。 いわゆる黒船来航である。 翌1854年(安政元年)には横浜で幕府は日米和親条約を結び、215年という長い鎖国の眠りを覚ました。 ペリー来航の衝撃と急速に流れ込む西洋文化、そして明治政府の富国強兵、殖産興業のため、西洋の進んだ科学技術を積極的に取り入れ、それを日本流に消化し、短いわずかな期間で見事に定着させた。 なぜ日本がこのような近代化を急速に発展させることができたのか。 それには、江戸時代に、すでに長崎の出島などを通じて、蘭学を始めとする西洋の事情がある程度知らされていたからである。 また寺子屋の教育により識字率も高かった。 さらに江戸時代は「職人の時代」とも言われ、極めて高度な工芸技術が発達していたことなども挙げられる。 西洋の文化を受け入れる知的な潜在力や技術力があったのである。 明治維新には、近代化を始めることのできるさまざまな基盤が用意されていたと言ってもよい。 そして、日本は30年という短い期間にアジアで最初の近代国家に生まれ変わった。 それは世界史のなかでも例をみない東洋の奇跡とまでいわれた。 この近代化の動きの中で生まれた近代産業が現代の発展の基礎となった。 明治という時代は日本が国を挙げて、西洋の文化や技術を追い掛けた時代である。 建設もまたその例外ではなかった。 開国と同時に横浜をはじめ長崎、神戸、函館といった港町には、異国の香り漂う塔やベランダのついた洋館が次々に建てられた。 人々に文明開化を強く印象づけた。 明治政府は庶民の生活のすべてにお役所が口を出す。 社会のどんな事柄においても監督する官庁が生まれた。 中央官庁から各地方へと指令が伝達されていく、中央集権のはじまりである。 このため役所がやたらと増えていく。 多くの役所を西洋館でつくり、それを日本中に広めていった。 その役所のほかに学校も管理をする。 それには日本各地に洋風の建物を急いで、たくさん建てる必要がある。 しかし、これらの建設に貴重な外国人技術者や建築家の力を使うことは、ほとんどなかった。 このことが当時の大工や棟梁にスポットを当てることになった。 今まで日本の伝統的な神社仏閣を手がけてきた彼らに地方の官庁や学校の仕事を任せることになった。
その結果、世にもまれな面白い表現の建物が続々と誕生したのである。 村に白いペンキ塗の塔のついた建物が建つことによって、村人は文明開化がそこまでやってきたことを目でも強く感じたのである。 |
日本と西洋をミックスした宮殿を思わせる富士屋ホテル |
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明治4年、青雲の志を抱いてアメリカに渡った青年がいた、この人が、箱根・富士屋ホテルの創設者・山口仙之助である。 仙之助は横浜の「神風楼」という遊郭の出身で、帰国後、慶応義塾に学び、福沢諭吉から国際観光の重要性を説かれたこともあって、ホテル業を決意したという。 箱根にあった500年の歴史を誇っていた「藤屋旅館」を買収し西洋風に改造して、明治11年、わが国最初の本格的リゾートホテルを開業した。 当時は交通もきわめて不便であったが、外国人客用のパンや肉などは横浜から馬車便で小田原まで運び、そこから宮ノ下のホテルまでは毎朝、人を出して運搬させ、朝の食卓に間に合わせていたという。 明治も20年代に入ると東海道線が全線開通、国府津と湯本の間は馬車鉄道で結ばれ、箱根への交通は飛躍的に便利になり、ホテル客の激増がおおいに期待されるのを受けて、明治24年に本館の建設が行われた。 ホテルのプランは西洋に学び、広いロビーやフロント、メインダイニングなどを設けそれに和で装飾をほどこすという和洋折衷様式。 日本瓦を葺いた大きな屋根は土蔵造風で、玄関上には社寺のような破風飾りがつき、その下には孔雀(米軍に接収された際にペンキで白く塗られた)が客を迎える。 全体としては日本と西洋をミックスした宮殿を思わせるつくりになっている。 いまの人が見ると洋と和が直接ぶつかりあったキッチュな建物に見えるが、当時の外国人旅行客には、これが日本を感じさせたのである。 工事は地元、小田原の棟梁・河原兵次郎をはじめ日光から集められた宮大工の手によるものである。 関東大震災にも耐え抜いた、しっかりとした造りである。 この富士屋ホテルは日本のリゾートホテルの原点である。 このあと明治政府は日本を観光立国とするため、外貨獲得のためにと、風光明媚な土地を探し、日本各地に外国人専用の観光ホテルを次つぎと建設していった。
その多くは「和」のデザインが強く入った富士屋ホテルを写したような建物が多い。 |
ノビノビとした自由奔放さがある棟梁たちの西洋館 |
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棟梁たちの西洋館には日本独特の装飾のおもしろさがあると思う。 ヨーロッパなら、ここはコリント式の柱頭だから地中海地方に自生するアカンサス(西洋アザミ)の葉っぱで飾る。 ところが日本に来ると柏や桐や菊の葉っぱになったりする。 それがかえっておもしろい。 そして柏の葉っぱにとどまらず、柱頭に千生りビョウタンのようなものを付けたり、牡丹をモチーフとしたり、何でもありである。 日本の西洋館の装飾というのは、分析のしようがないというか、大工の棟梁たちが好き放題に夢を極限までに増幅させノビノビとやったというか自由奔放というか勝手気ままである。 明治時代の大工たちの技量はずば抜けて優れていた。 まことに器用ということもあるが、それにもまして棟梁たちには主体性があった。 それはただ見てまねて西洋館を建てていたのではない。
棟梁たちは自分たちの手で新しい何かを生み出そうと考えたのではないか。 伝統的な今までの技を使いながら自分たちの文明開化を建築で具現化しよう、表現しようと情熱を傾けたのである。
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日本の伝統を見据えながら「和」の精神を大切にした建築 |
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日本で最初の建築家たちは建築をまったく西洋の様式建築と遜色のないものにしたいと思った。 そこには西洋の建築を学んだ西洋はあるが、日本はない。 棟梁たちは西洋館という今まで見たこともない建築に出会ったとき、建築とは何なのか、建築の本質を彼らの経験と鋭い感性で即座に見抜いたのではないか。 そして日本の伝統的な建築を意識し、創造性あふれる洋風建築を夢想していたのではないか。 どちらも日本の西洋館のもとは西欧であるがスタート時点での考えというか受け取り方の違いは大きい。 もちろん、棟梁たちには、これしかできなかったと言う人もいるが、棟梁たちの建てた西洋館は日本が世界に誇れるオリジナリティあふれる代表的な建築の一つであるのも事実である。 近代西欧という異文化との出会いが日本の建築に与えた影響は大きい。 その中でも明治という時代を疾走した棟梁が日本の伝統を見据えながら「和」の精神を大切にしたことが、現代にも生きていると思う。
いま、日本の建築家が世界で活躍しているが、その作品には日本人としてのアイデンティティが見え隠れしている。 |
増田彰久 (ますだ あきひさ) |
1939年東京生まれ。 写真家。 著書 『棟梁たちの西洋館』
中央公論新社 1,785円(5%税込)、『写真な建築』
白揚社 2,940円(5%税込)、共著 『歴史遺産日本の洋館
1・2・3・4・5・6』
講談社 各3,780円(5%税込)、ほか多数。 |
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