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平成16年11月10日 第444号 P4 |
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○インタビュー | P1 | 瀬戸内寂聴さんに聴く 源氏物語、そして幻の一帖 「藤壺」 (1) (2) (3) 聞き手・ 松信裕
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○特集 | P4 | 百歳になる片岡球子先生 山梨俊夫 | |
○人と作品 | P5 | 出口裕弘と「太宰治 変身譚」 | |
○有鄰らいぶらりい | P5 | 馬見塚達雄著 「『夕刊フジ』の挑戦」/秋庭道博著 「サムライたちの遺した言葉」/渡辺淳一著 「幻覚」/安岡章太郎著 「雁行集」 | |
○類書紹介 | P6 | 「火山噴火」・・・三宅島、浅間山、次は? 日本列島には86の活火山が並んでいる。 |
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百歳になる片岡球子先生 山梨俊夫 |
山梨俊夫氏 |
95歳のときに描かれた「面構 一休さま」 |
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片岡球子画伯の絵に一休宗純を描いた一点がある。 一休は、最近はそうでもないのだろうが、ひところは知恵を回し機転をきかして大人を手玉に取るとんちを得意にする少年僧としてよく知られていた。
もともと室町時代の臨済宗の禅僧で、一説には後小松天皇の子ともされる。 若いころは寺院組織の禅を嫌い、野に出て禅を修めていった。 晩年は大徳寺を再興し、87歳の長命のうちに禅宗を商人階級など庶民層にも広めた。
とんちの一休さんは、江戸期になってからの伝説である。 さて、片岡画伯の絵であるが、横長の大きな画面を二分して、左手に一休禅師、右手に海老とそのひげに止まった鶴が、まるでまったく違う絵のように描き分けられている。 平成12年、いまから4年前、画伯が95歳のときに描かれた。 題名は「面構[つらがまえ] 一休さま」。 一休の姿に威儀をただす様子はなく、長い太刀を立てかけた椅子に片足をあぐらのように組んで、頂相[ちんぞう]像のポーズを取る。 足元の台に沓[くつ]をはいた片足を乗せる。 右手に錫杖[しゃくじょう]を持ち身体を少し傾けてこちらを見ているふうでもある。 右手の画面はまったく対照的に、深い青の地を背景にして鶴と海老がいる。 左右に構図上のつながりはない。 つながりは、鶴と海老にまつわるエピソードが、一休禅師が語ったものであることによる。
あるとき一羽の鶴が南の果てを目指してひたすら飛んでいた。 飛びつづけた羽の疲れを休めようと木の枝に降りた。 枝と思ったのはじつは海老のひげで、海老の言うことには、自分も南の果てに向かっている途中だが、疲れたので休んでいるとのこと。 ところが海老が休憩していたのは亀の眼の中。 亀もまた南の果てを目指している。 南の果てはとてつもなく遠い。 一休さんの説くところは、三者三様に南の果てを目指しているが、それは到底かなわないこと。 人は分に相応しいことをしなければならないという教訓である。 分とは何か。 分に相応しいとはどういう意味かについての詮索はここでは措く。 この一休禅師の話からひとこまを取り出して、片岡球子画伯は、鶴と海老を一休の姿と同じほどの大きさで向き合わせた。 亀は描かれていない。 一休さんの容貌は、少し乱暴に表わされている。 まばらでばさばさの髪、不精ひげ、衣裳も、いつも片岡画伯が描いてきた装飾性豊かな美しいものでなく、ごく簡素である。 鶴も海老も粗描きのような筆遣いで大まかに描写されている。 しかし、この作品は大きい。 画面が大きいという物理的な面を言っているのではない。 縦160センチ、横320センチの大きさなら、片岡画伯が年ごとに秋の院展に発表している作品のなかではむしろ小さいほうである。 一見、荒々しく描かれているけれど、そのじつ、この作は、少し距離を取って見ると、画面は締まり絵としての強さをもって、こちらの眼に向かって大きく押しだしてくる。 そういう意味で、作品として大きい。 片岡球子画伯のことについて少し語ろうとして、いきなりこの一休宗純の絵を持ちだした理由は、それがこうした一種独特の強さをもった作品だからであり、装飾性への志向と簡潔さへの意識を均衡させながら絵を描いてきた片岡画伯の最近の変化の節目にある作だと思えるからである。 背景をひとつの色彩で塗りこめ、何もない空間として人物のありようを浮き立たせる簡潔な処理は、ずっと以前から変わらない。 しかしこの作品では、絵を通して伝えようとすることが単一になるという方向で、簡潔さを志す意図が全体をつくりだし、絵が一層強くなっている。 |
歴史上の人物を描いた「面構」シリーズ |
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この「面構 一休さま」は言うまでもなく「面構」のシリーズをなしている。 1966年に愛知県立芸術大学が開校して、女子美術大学で教授をしていた片岡画伯は新しい大学に日本画科の主任教授として招かれる。
「面構」は、それを機に、ライフ・ワークとして制作が開始された。 以来、今年で39年、三十九作の「面構」が、毎年秋の院展で発表されている。 文字通りライフ・ワークであって、片岡球子という長命で大きな仕事をいまなお続けている画家の、骨組の根幹をなしている。
「面構」ではいつも歴史上の人物が描かれ、浮世絵師がもっとも多く登場してきた。 それ以外にも、雪舟、足利一族を始めとする戦国武将、この一休宗純や夢窓国師、日蓮、白隠といった僧などがいる。 そして画伯は、そうした歴史上の人物を傍らに呼び招いて熱く対話を交わし、共感を深くして、彼らに生命を吹きこんでいく。 これまでも、これからも、画家片岡球子を語るとき、「面構」の連作を抜きにして語るわけにはいかない。 この連作は、画家の存在そのものと化しているからである。 かつて、画伯は筆者に、「面構」への思いをこう語ってくれたことがある。
奔放に、自在に自らの世界を繰りひろげ、「面構」を描くとともに「遠慮しないで私は私の考え方をしようと決めた」と語る画家は、なによりも「面構」連作に、絵画について自分の思い定めるところを集中させている。 その思いのほどは、いまも絶えることがない。 |
描くことと教えることは切り離せないもの |
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「面構」は、画伯が愛知県立芸術大学の教授に就任したことをきっかけに始められたと述べたが、画伯は「日本画」の規矩に収まりきれない、エネルギーの迸[ほとばし]る熱の高い絵を描きつづける一方で、女子美術大学を卒業して以来現在にいたるまで、最初は小学校、のちに美術大学で教鞭を執ってきた。
いまなお愛知県立芸術大学の客員教授として、大学に出かけては日本画科の学部生、大学院生全員の絵を丹念に見て、ひとりひとり指導する。 99歳の高齢を思えば驚異的である。
若い人々に接して、話をするのが一番の楽しみだと笑いながら語る。 描くことと教育者であることを両立させているのではない。 そのふたつは自分にとってはひとつで、切り離せないものとしてあると言う。
これほどの生き方は稀有なことだ。 前に引用したインタビューと同じ折に、画伯はこうも語っている。
話を伺うとき筆者は画伯に対して先生と呼びかけている。 画家を先生と呼べば、画家であるその人のもっとも大事な部分をないがしろにするような気がして普段はあまり先生と言わないようにしている。 しかし、筆者にとって画家片岡球子だけは別である。 文字通り先生だからである。 横浜に長く住んでいるならば知っている人も多いかと思うが、片岡画伯は、女子美大を卒業してからの30年間、弘明寺[ぐみょうじ]の大岡小学校で先生をしておられた。 筆者は、その30年目の生徒である。 もっとも、小学校の先生として絵だけでなく全教科を教えておられ、5、6年生の受持ちをされていたから、片岡先生の30年目に入学した筆者は、コンクールでもあったのだろうか、放課後、数人の同級生とともに残されて絵の指導を受けただけだ。 だから片岡先生の薫陶は短かい。 そのときに、中庭にあった池を上から見て紫色で描いた自分の絵は妙にはっきり覚えているが、先生の記憶はおぼろげに過ぎない。 しかし、25歳違いの母も大岡小学校で学んだから、母や父兄会の祖母から後年、いろいろ片岡先生の話を聞いていた。 美術館に勤務してから、当時の館長が「この男は片岡さんの生徒だよ」と紹介してくれた瞬間から、画家片岡さんは僕の先生に戻ってしまった。 いまも、画伯と対座すると、ちょっとこわい片岡先生がそこにいる。 |
百歳を記念して来年春に回顧展を開催 |
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片岡画伯は、1月5日が誕生日だから、来年になるとすぐ百歳を迎えられる。 常人には容易に得られない節目の年を記念しながら、神奈川県立近代美術館の葉山館で、来年の春、先生の代表作をずらりと並べて大きな回顧展を開くことにしている。 もちろん、先生だからというのではない。 迫力に満ちた奔放な絵をもって現代の絵画に大きな問いかけを発しつづける卓抜した画家として、ひじょうに重要だからである。 画家片岡球子の力のほどが見る人の胸中にこのうえなく強い印象を刻むことと期待している。 |
山梨俊夫 (やまなし としお) |
1948年横浜生れ。 神奈川県立近代美術館長。 |
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