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平成17年4月10日 第449号 P1 |
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○座談会 | P1 | 金沢文庫と称名寺 (1) (2)
(3) 有賀祥隆/永村眞/高橋秀榮/鈴木良明/松信裕 |
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○特集 | P4 | 70歳のピースボート 佐江衆一 | |
○人と作品 | P5 | 中島たい子と『漢方小説』 |
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座談会 神奈川県立金沢文庫75周年
金沢文庫と称名寺 (1)
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右から鈴木良明氏・永村眞氏・有賀祥隆氏・高橋秀榮氏と松信裕 |
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はじめに |
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松信 |
横浜市金沢区には、鎌倉時代の中頃にこの地に別業(別荘)を設けた北条実時[さねとき]によって開創され、現在も広大な伽藍と庭園をそなえる称名寺があります。 北条氏は邸内に膨大な量の書物を収集した文庫を設け、北条氏滅亡後も、それらは長く称名寺に伝えられてきました。 昭和5年(1930年)、神奈川県立金沢文庫が、称名寺に伝来した蔵書や文化遺産を保管し、整理・研究するための施設として、境内の一画に復興されました。 本日は、神奈川県立金沢文庫が開館して、ことしで75周年を迎えたことにちなんで、金沢文庫を創設した北条実時とその一族、菩提寺である称名寺、あるいは現在に至るまで700年以上にわたって伝えられてきた仏教関係の文化遺産や古文書についてお話しいただければと思います。 ご出席いただきました有賀祥隆先生は、東北大学名誉教授でいらっしゃいます。 奈良国立博物館仏教美術研究センター、文化庁美術工芸課に勤務された後、東北大学に移られました。 平安期の仏画を中心に、仏教美術がご専門です。 永村眞先生は東京大学史料編纂所助教授などを経て、現在、日本女子大学文学部教授でいらっしゃいます。 奈良東大寺や京都醍醐寺、また関東の諸寺院に伝来する資料の調査に当たられ、寺院の組織についても研究しておられます。 高橋秀榮先生は神奈川県立金沢文庫長で、中世仏教史、特に仏教典籍がご専門です。 金沢文庫に残された古文書を長年にわたり研究しておられます。 鈴木良明先生は神奈川県立金沢文庫学芸課長で、長く神奈川県立歴史博物館で近世史を担当され、神奈川の街道や社寺参詣などにご造詣が深くていらっしゃいます。 |
◇北条実時が六浦に居館と文庫をつくる |
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松信 |
まず金沢、当時の六浦の地と北条氏の関係からお話いただけますか。 |
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高橋 |
鎌倉幕府の大きな事業として、仁治2年(1241年)に朝比奈の峠に切り通しを開いて六浦[むつら]とのパイプをつなげました。 鎌倉には外国の大きな船が停泊できる港がありませんでしたので、六浦に天然の良港としてあった三艘[さんぞう]の湊を使って、物資輸送を往還するということが目的の一つでした。 それからもう一つ、鎌倉の東側を固める砦が金沢の場所であったと思うんです。 この二つの柱を、第三代執権の北条泰時が、一番末の弟の実泰[さねやす]に所領を与えて守らせた。 実泰の子供の実時が正元元年(1259年)にそこにお寺をつくり、最晩年の建治元年(1275年)ごろ「文庫[ふみくら]」と称する私設書庫を建て、合わせて自分の住まいである居館をつくった。
「別業」と言われる別宅ですが、ここから金沢[かねさわ]の中世の歴史が始まると私は理解しています。 |
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松信 |
鎌倉に本宅があり、金沢は別宅だったんですね。 |
金沢氏は一族存続の拠り所を学問に求める |
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高橋 |
北条実時は京都とのつながりもあった人物で、非常に学識豊かといいますか、いわゆるの武将とはちょっと違うイメージがあります。 幼いときから本を読むことが大好きだったようで、日本の書物だけでなく、中国の漢文の書物を読むことを自分の任務にもしていたようです。 鎌倉の歴代執権の中では、特にすぐれて人徳もある北条泰時が、自分の後の執権になるべき経時に、学問の友だちとして実時と水魚の交わりぐらい昵懇[じっこん]になって、鎌倉幕府を治める上でのノウハウを学び合いなさいと諭している。 そのぐらい泰時も実時に対しては子供のときから目をかけていたんでしょうね。 将来、幕府の仕事にかなりの力を発揮してくれる人物だと見抜いていた。 実時は、個人で書物を集めたのではなくて、後ろ盾があって、鎌倉幕府の公的な予算も使いながら蔵書を増やせる環境にあったんじゃないかと思います。 |
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永村 |
北条氏一族の中での職務分担が、この金沢氏の存在にも特徴的に見られると思います。 北条氏一族内では、得宗[とくそう]家(北条家の家督を継いだ嫡流の当主)によるさまざまな粛清が行われましたが、その中で大事なく鎌倉末まで存続したのが金沢氏でした。
金沢氏は一族存続の拠り所を学問に求め、またそれを受容する能力を十分持っていたと思われます。 幕府の中で、金沢氏なりのアイデンティティの持ち方があったんじゃないでしょうか。 |
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高橋 |
同時に、京都から下ってくる将軍とその取り巻きたちと文化的なサロンで情報を交わし合う。 それに見合うだけの人物を鎌倉幕府が備えているかどうかということもありました。
歌が詠めるか。 字は書けるか。 和漢の読書の世界に通じているか。 教養が人物を評価する一つの判定材料になる。 |
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永村 |
金沢氏一族は、全体として漢籍にたいへん造詣が深く、また和歌や物語にも幅広い教養を持ち、武家社会の中では希有な存在だと思います。 御家人の中では、例えば宇都宮氏のように京都の貴族たちと互角に渡り合う教養を持つ一族がいたわけですが、幕府の中でそういう資質をもつことが、重要な意味を持ったはずです。 |
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高橋 |
宇都宮氏と言えば、実時のお父さんの北条実泰が宇都宮の歌壇に交わって歌を詠んでいる。 『東撰[とうせん]和歌集』という関東でつくられた和歌集には、実泰も、実時も、主な武将たちも一緒に歌を詠んだものが残っているんです。 |
実時が叡尊を招き念仏から戒律の寺に |
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松信 |
称名寺は、実時が母親の菩提を弔うために建てた阿弥陀堂が前身なんですね。 |
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高橋 |
称名寺は文庫より10年ほど早くできています。 金沢区大道[だいどう]にある宝樹院の仏像から称名寺の開山・審海[しんかい]の願文[がんもん]が発見され、称名寺が1259年につくられたことが明らかになりました。 翌年が実時のお母さんの7回忌に当たるので、それに合わせて阿弥陀堂がつくられたんです。 昼と夜に念仏を唱えながら亡き人の菩提を供養する。 そういうことで発足したのが浄土系の称名寺です。 ところが、弘長2年(1262年)に、実時が奈良の西大寺から62歳の叡尊[えいぞん]を招いた。 鎌倉の宗教界は念仏の声が暇なく騒がしいし、妻帯をする人たちもかなりいた。 それで時頼と実時がはかって、宗教政策の軌道修正をしようとしたんでしょうか、戒律をきちんと守っているお坊さんに、もう一度鎌倉の仏教を見直してほしいということで招いた。 そのときに実時は、叡尊にほれ込んで、念仏をしている自分のお寺も戒律のお寺にかえますから、ぜひ住職をしてくださいというお願いまでしているんです。 鎌倉の釈迦堂に叡尊が逗留するんですが、その間、実時は幕府の仕事の暇を見つけては梵網経古迹記[ぼんもうきょうこしゃっき]という戒律の講義をされるのを何度も何度も聞いている。 こうして称名寺は真言律宗に変わっていく。 本尊まで弥勒菩薩[みろくぼさつ]にかえるんです。 |
義経の成仏を願う実時の妻の願文が本尊像内に奉納 |
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つづく![]() |