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平成17年4月10日 第449号 P2 |
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○座談会 | P1 | 金沢文庫と称名寺 (1)
(2) (3) 有賀祥隆/永村眞/高橋秀榮/鈴木良明/松信裕 |
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○特集 | P4 | 70歳のピースボート 佐江衆一 | |
○人と作品 | P5 | 中島たい子と『漢方小説』 |
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座談会 神奈川県立金沢文庫75周年
金沢文庫と称名寺 (2) |
<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。> |
◇金沢北条氏四代の肖像画は国宝に指定 |
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松信 |
金沢文庫には国宝の画像が5点ございますね。 |
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有賀 |
実時、顕時[あきとき]、貞顕[さだあき]、貞将[さだゆき]の四将像。 それと貞顕の兄の顕弁[けんべん]の肖像画が附[つけたり]で国宝になっています。 もう一つ、実時の父の実泰の肖像画、伝北条実泰像があります。 これは重要文化財です。 国宝の画像に比べると、絵は小さいけれども、肖像画としては見るべきものだろうと思います。
描き方は本格的というか、いわゆる似絵風[にせえふう]の描き方で、13世紀、実泰が亡くなってすぐぐらいのものです。 |
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高橋 |
美術史家の濱田隆先生も鎌倉中期までと言われてましたから、実泰が亡くなった弘長3年(1263年)ころと合う。 |
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有賀 |
四将像はそれぞれ制作の時期が違うので、描き方も違ってくるんです。 実時と顕時は、法体[ほったい]像といって頭を剃った姿で描かれ、貞顕と貞将は俗形[ぞくぎょう]と言って、烏帽子に狩衣[かりぎぬ]の装束です。 実時と顕時は寿像[じゅぞう]か、遺像[いぞう]なのか。 つまり描かれたのが生前か、亡くなってからかということなんですが、肖像画の場合、必ずそれが出てくるんです。 実時は、頭を剃って隠居して、その次の年に亡くなりますから、寿像でもぎりぎり最後か、あるいは1周忌につくった。 その辺がちょっと確かめがたい。
遺像だとしても亡くなってから非常に近い時期に描かれていて、本当に肖像性があるので、判断が非常に難しい。 見る人によって、寿像と遺像とに分かれるんですが、いずれにせよ実時像は絵としては非常にすぐれたものだと思うんです。 |
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高橋 |
実時が六浦に隠居するのが建治元年(1275年)で、その前年に、一度目の蒙古襲来の文永の役があって、心労が重なって病気になったんでしょう。 隠居した翌年に亡くなっています。 病気をすると顔立ちが少しずつもろけていきますけど、そういうところのぎりぎり寸前のところで描かれた、恐らく最晩年の寿像ですね。 |
俗形の貞顕・貞将像は追善像か |
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有賀 |
三代目の貞顕は、烏帽子を被って狩衣姿で、上げ畳の上に座っている形で描かれている。 1326年に出家するんですが、これも、出家前に描かれたものだというのと、俗形の姿を、1周忌なりに追善供養で使ったという二つの見方がある。 私は追善像じゃないかと思っています。 貞顕は北条高時と東勝寺で自害しますが、寿像という見方もできるぐらい面貌の描写もしっかりしています。 四代目の貞将も、鎌倉で新田軍に攻められて、32歳で、討ち死にみたいな形で亡くなる。 恐らく亡くなってからすぐではなく、3回忌か、もう少し下ると亡くなって6年ぐらいのものではないかと思うんです。 |
四将像に共通する銀の使用は供養像の色の感覚 |
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有賀 |
金沢四将像に共通しているのは、衣や狩衣に銀をたくさん使っていることなんです。 晴れの場合は金を使うんだけど、銀を意図的に使うのは、供養像という色の感覚があるんじゃないか。 京都ではそういうのは余りないんです。 だから、私は京都の絵かきじゃなくて、鎌倉の在の腕の立つ絵かき、そういう独特の感覚を持った絵かきではないかと思うんです。 京都では、この時代を前後してたくさんの肖像画がつくられます。 最近、東京文化財研究所の米倉迪夫さんが、今我々が言っている神護寺の源頼朝像は足利尊氏の弟の直義[ただよし]で、平重盛像は尊氏、藤原光能像は二代将軍の義詮[よしあきら]だといわれた。
そうすると、制作年代が150年ぐらい違って、1330年~1340年ぐらいになる。 頼朝像は南宋の肖像画の描き方に近いんで、私自身はそこまではという感じがちょっとしているんですが、それが14世紀だとしても、金沢の四将像とは趣が全然違うんです。 |
◇北条氏滅亡後は湛睿が称名寺を支える |
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永村 |
北条氏の滅亡後、一体誰がどういう形で追善のための大きな法要を営んだのでしょうか。 |
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有賀 |
三代目の住持の湛睿[たんえい]が1346年ぐらいまで生きて、ぎりぎりかかわるぐらいですね。 その後四代実真[じっしん]がいるけど、湛睿ぐらいまでじゃないかなという感じがします。 |
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有賀 | その後の室町時代も続いてずっと残っていきますね。 何かうまいんですよ。 どこかが称名寺を支えていく。 |
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高橋 | 足利氏でしょうね。 |
湛睿は文庫の管理者を任命し、経典の保存に努力 |
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永村 |
南北朝時代の文書によれば、寺領荘園が幾つか残されているのですが、実際の経営はどうだったのでしょうか。 |
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高橋 |
湛睿という人は、北条氏が滅んだ後、6年後に釼阿[けんあ]の後を継いで三代目に就任するんですが、授戒といって戒律を授けたり、華厳経を講義するんです。 称名寺が今で言う会場になって講義しますので、法席が日に盛んになったということで、元禄年間の『本朝高僧伝』という本に、称名寺の歴代の中では湛睿だけが取り上げられています。 称名寺がもっているたくさんの書物は、経蔵という文庫[ふみくら]の中に入れているのですが、毎年7月7日が人事異動の日と定められており、湛睿自身が1340年から1353年の13年間、1年、1年、経典の管理者の人事をかえながら、代々、管理当番させている。 そういうふうに、北条氏が滅んだ後も、経済的にピンチになりながらも守るべきものは守ろうと努力した。 それだけの見識ある人だから、画像も残される。
湛睿がいなかったら称名寺はもっともっと疲弊していたと思います。 |
東大寺とのネットワークが濃厚だった称名寺 |
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高橋 |
湛睿が住職になったときに東大寺と称名寺はネットワークがすごく濃厚だったと思うんです。 |
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永村 | 東大寺戒壇院住持の凝然[ぎょうねん]が撰述した聖教[しょうぎょう]の紙背文書[しはいもんじょ]から、関東との盛んな交流を知ることができます。 |
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高橋 |
凝然が著わした『声明[しょうみょう]源流記』という音楽の資料に、称名寺の二代住持の釼阿の名前がでてくる。 釼阿は10代のときから、声が良くて声明を学んでいた。 それで仏教音楽関係資料は釼阿が自ら書き残したりしたものが称名寺に残っていて、その数は相当なものです。 芸能僧として活躍できるはずだったんだけれど、貞顕のめがねにかなって、審海亡き後に入寺する。 釼阿はそういう意味で、鎌倉幕府の中枢の仕事にもすこし参画するようなところがあったようです。
貞顕の耳目と言われて、政治的な、黒幕的な働きをしていたようです。 貞顕から釼阿宛に送られた手紙の中には「絶対他人に見せてはいけない、すぐ火の中にくべろ。」と書いた文書もあるぐらいです。 |
◇紙背文書が語る幕府の動きや武士の信仰 |
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松信 |
金沢文庫には膨大な数の古文書が残されているんですね。 |
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高橋 |
4,149点が重要文化財に指定されています。 |
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永村 |
寺には経営にかかわる文書が伝わるものです。 しかしそういう表向きの文書からは、日常的な仏教行事とか、人の動きなど、生活に密着したものは意外に見えないことが多い。
ところで、金沢文庫には紙背文書という形で膨大な書状が残されている。 もとは書状だったものを裏返しにして綴じ、仏教経典を書き写したものです。 これらは住持の周辺で授受されたもので、しかも、発給者としては金沢北条氏歴代のものが多いのです。 これらは政治の具体的な様子とか、幕府内の動きなどを非常によく語ってくれます。 また、日常的に武士たちがどのような信仰生活を送っていたのかがうかがわれます。 これらは非常に珍しい研究素材ですね。 私が特に興味を持ったのは北条氏一門の願文なんです。 それを見ますと、自らが救われるための、阿弥陀如来と弥勒菩薩の役割をきちんとわきまえている。
最終的には弥勒菩薩に救われたい。 でも、弥勒菩薩が下生[げしょう]して衆生を救うまでにはまだ時間がある。 その間は阿弥陀如来に帰依しようという内容があっさりと書かれている。 |
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松信 |
弥勒菩薩に救ってもらえるのは、56億7千万年後ですからね。 |
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永村 |
僧侶の書いた願文はよく見られるのですが、教えを受け信心を持つ側の心情を語る史料は意外に少ない。 ところが、それが金沢文庫文書には少なからず見られ、これは、たいへん注目すべき特徴だと思います。 そういう意味で、金沢文庫文書の、特に紙背文書の中から、表向きの文書にあらわれない世界、本来ならば忘れ去られる世界が、数多く掘り出されることになります。 |
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高橋 |
北条氏歴代の人たちの追善供養のための仏様へ捧げる諷誦文[ふじゅもん]とかが多い。 |
京都の名刹のテキストを底本に多数の書物を写す |
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高橋 |
文庫には仏教関係の書物が多く残っているんですが、平安時代の仏教も学び取れる残し方をしている。 鎌倉には、京都から下ってくる人たちがたくさん書物を運んできます。 釼阿なんかは「写させてください。」と、うまく近づいていって写させてもらったものがかなり残っている。 その原本を見ると、京都では仁和寺、醍醐寺、和歌山の高野山、女人高野の室生山、そういうところのテキストを底本にして写したというのがあるんです。 ですから、称名寺の本は鎌倉仏教のエリアだけじゃなくて、さかのぼって平安仏教の一こまも垣間見ることができるという意味で、重要なんです。
権威のある関西方面の名刹のものが残っているのが強みですね。 |
平安仏教・鎌倉仏教の仏典を伝える希有なライブラリー |
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永村 |
私は、諸宗にわたる仏典を万遍なく伝えてきたのは東大寺だと思います。 また東国で、八宗のほか浄土教や禅宗など幅広い経巻や聖教を伝えるのが称名寺なのです。 例えば南都六宗の律や華厳、さらに、天台、真言、浄土、禅、これらは平安仏教、鎌倉仏教の姿を示す貴重な仏典であり、それらが伝えられている。 これは、東国では希有なライブラリーといえます。 称名寺に残されている史料を見る限り、鎌倉の諸寺にも同じようなライブラリーがあったと思われますが、それらはすべてなくなっており、称名寺だけに残ったわけです。 |
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高橋 |
東大寺の八宗兼学の要素が、審海、釼阿、湛睿、この三代に継承されて、称名寺が東国のミニ八宗兼学のお寺になっていたんだろうと思いますね。 |
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永村 |
例えば、下野[しもつけ]薬師寺は鎌倉時代に再興されましたが、その寺僧が称名寺に来て仏典を書写している。 一方、称名寺にない仏典は、下野薬師寺で写される。 そのような寺僧の往来が、仏典の奥書に記されており、平安仏教、鎌倉仏教が、実際にどのように修学されたかを知ることができます。 称名寺では真言、浄土、禅が併存しており、今日のような縦割りではない、諸宗が一体となった中世仏教のあり方がありました。 それを当時の武家社会、東国社会はどういう形で受け入れていたのかを具体的に示す経巻・聖教が、ある時期を区切って称名寺には残されているのです。 しかも、それらの裏には紙背文書があるわけで、称名寺の史料は表と裏で2倍、3倍に楽しめると言いますか、数千点のものが実は1万点の内容を持っているんです。 |
書物を守ったのは中国からお経と一緒に来た「金沢猫」 |
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高橋 |
称名寺の聖教を守ったのは、実は猫なんです。 実時が、西大寺へ寄進するお経と、称名寺へ寄進するお経と合わせて1万4千冊を中国に求めた。 それを運んできた船が三艘湊に着くんですが、そのとき船底に中国の猫を飼っていた。 金沢に着いたものだから金沢猫と言って、その後「かな」と呼ばれるんです。 それが代々子孫をふやして、室町時代には六浦の千光寺に猫塚がつくられています。 経蔵でもどこでも、ちょろちょろして書物をかじるネズミを捕まえてくれたのは金沢猫なんです。 なでると背が低くなる。 そんなことまで書かれている記事があります。 文化財を守ったのは人間だけじゃなくて猫も(笑)。 金沢猫は称名寺の涅槃図にも描かれているんです。 |
関東でつくられた涅槃図や、中国伝来の十王図なども |
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有賀 |
仏画では戦後、称名寺の天井裏から三千仏図が発見されました。 三千仏図は、年末に、過去・現在・未来の各千の声明をあげて1年間の罪業を償う仏名会[ぶつみょうえ]の本尊としてつくられたものです。 この三千仏図は、称名寺の子院の海岸尼寺にもともと伝来していたんですが、軸(内面)から「澤間[たくま]長祐」の銘が出てきた。 それから、茨城の法雲寺に、もと六浦の蔵福寺に伝えられたという長祐の同じような図柄の涅槃[ねはん]図があるんですが、これが、京都や全国的につくられるものと違う。
お釈迦さんが亡くなって、母である摩耶夫人[まやぶにん]が阿那律[あなりつ]を先頭にして兜率天[とそつてん]からおりて来る。 その一行が、お釈迦さんの足元に到達した場面を描き入れてある。
そういう一つのストーリーを持った涅槃図なんです。 これは手本が中国にあるかないかは別にして、京都にはない図像なんです。 鎌倉というか、関東でつくられた涅槃図という意味でおもしろい。 |
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高橋 |
十六羅漢とか、十王図とか、セット物が多く残っていますね。 |
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有賀 |
十六羅漢図は「羅漢供」という年中行事に用いられたものです。 十王図は、死んだ後に地獄に行って裁断を受けるときの本尊で、称名寺には、今五幅しか残っていないんですが、有名な陸信忠[りくしんちゅう]という中国の画家が寧波[ニンポー]で描いた絵が入ってきている。
十三仏は信仰的にはそんなに古くはなくて、いろいろな仏さんを十三体描くんですが、称名寺の十三仏の特色は、中尊が虚空蔵菩薩ではなく、弥勒菩薩なんです。
十二神将像は描写もしっかりしている。 尊像もさることながら、草花とか波とかの描写が準国宝級です。 |
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高橋 |
国宝に匹敵する。 |
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有賀 |
それと顔料がものすごくいいんですよ。 これは京都のあの時期の顔料に比べたら上じゃないでしょうか。 |
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松信 |
仏像彫刻もすばらしいものがありますね。 |
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高橋 |
清涼寺式釈迦如来や十大弟子などもあります。 |
つづく![]() |