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第4回 2006年6月29日 |
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漱石を読み返すための3冊 |
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今年に入ってから、書店の近代文学のコーナーに、やけに夏目漱石の関連本が平積みされていることにお気づきだろうか? そう、今年は夏目漱石没後90周年。 そして来年は生誕140周年。 騒がしくておちおち眠っちゃいられないよ、と草葉の陰から漱石のぼやきが聞こえてきそうだが、せっかくなので今回は漱石作品を読み返したくなる3冊をご紹介しようと思う。 まず初めに、小林信彦の新刊『うらなり』。 漱石の『坊っちゃん』をお読みになったことのある方ならすぐにピンとくると思うが、本書は、『坊っちゃん』の中で脇役の一人に過ぎなかった悲運の人「うらなり」を主人公にした物語である。 『坊っちゃん』当時から30年後の東京・銀座で、古賀(うらなり)と堀田(山嵐)が再会する場面で本書は幕を開ける。 うらなり側から見た30年前の回想や、『坊っちゃん』では当然触れられていないそれ以後のうらなりの人生が描かれていて、あまりの面白さに一気に読めてしまう。 脇役のその後の人生をきちんと書いてくれるなんざぁ、全く粋な御仁だよ、小林さん(失礼は承知で)、と思わず手を叩きたくなる快作だ。 たった2日間の再会ではあるが、うらなりも山嵐も「古賀さんは変わらないなあ」「この人物は少しも変わっていない」と相手を認める。 満州事変や関東大震災を経て、日本という国も、町の風景もすっかり変わってしまった中、久方ぶりに再会した2人が、昔と変わらない空気を共有している。 その姿に、読んでいるこちらまで懐かしい気持ちで胸がいっぱいになる。 新しい物が良しとされる時代に、人が変わらないでいることの美しさを、変わらないと思えることの貴さを、訴える小説だと思う。 ちなみに、本書を読んだ後に『坊っちゃん』を読み返すと、以前とは確実に違う印象を受ける。 でも、『坊っちゃん』という作品が持つ輝きは、変わらない。 石原千秋『学生と読む【三四郎】』は、成城大学の教授である著者が、大学2・3年生を対象にした「近代国文学演習 I 」の中で、学生達がいかに『三四郎』論を展開させていくかを記録した1冊だ。 漱石の『三四郎』に重点が置かれているわけではなく、著者が担当する授業のカリキュラムに関する部分が大半を占めているので、『三四郎』の文字に魅かれて本書を読もうと思われている方は、第五章「大学生が読む『三四郎』」から読み始めてもよいと思う。 かなり専門的な内容であることはお断りしておく。 私事で恐縮だが、10年以上前、日本文学を専攻していた私も「『三四郎』における絵画」という題でレポートを書いたことがあるのだが、いつのまにか先行論文の丸写しになっていた、という苦い経験がある。 あの時、この本が手元にあったら…と思わずにはいられないので、日本近代文学を専攻する学生の皆様には迷わず本書をおすすめする。 最後に、漱石作品ではなく、漱石その人自身が登場する小説、鳥越碧『漱石の妻』を。 悪妻として有名な夏目漱石夫人・鏡子を主人公にした長編小説だ。 貴族院書記官長の父を持ち、蝶よ花よと育てられてきた鏡子が、夏目漱石の妻となり、6人の母親となっていく過程で、強く、図太くなっていく様子が説得力をもって描かれているので、本書を読んだら鏡子に感情移入せずにはいられないだろう。 胃潰瘍、神経衰弱を患う夫を献身的に介護し、癇癪を起こしては家庭内暴力を振るう夫から子供たちを必死で守った鏡子のどこが悪妻なのだ、とフィクションとは知りつつも憤りを覚えてしまうが、「夫婦の真実など、この世には存在しないかもしれない」という最後のセリフに、程度の差こそあれ、本書は普遍的な夫婦の物語なのだ、と気付かされる。 夫婦のことは夫婦にしか分からない、そのことだけが真実なのだ、と。 面白いのは、学のない愚妻として漱石が罵倒し続けた鏡子が、実は漱石作品の鋭い批評者として描かれている点だ。 『坊っちゃん』は痛快、『虞美人草』はじれったい、『三四郎』は、連載の続きが待ち遠しいほど面白い、といった鏡子の率直な感想を読んでいると、漱石作品をついつい読み返したくなる。 これこそまさに内助の功ではないか。
文・読書推進委員 加藤泉 構成・宣伝課 矢島真理子 |
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