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平成11年6月10日 第379号 P1 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 ペリー来航と英学事始め (1) (2) (3) |
P4 | ○ゲーテの心 小塩節 |
P5 | ○人と作品 上野正彦と『毒殺』 藤田昌司 |
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座談会 ペリー来航と英学事始め (1)
横浜開港140周年にちなんで |
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はじめに |
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はじめに | 篠崎 |
今年は、安政六年(一八五九)六月に横浜が開港されて、
ちょうど百四十周年になります。 その前年に結ばれた通商条約に基づいて横浜では、 アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で自由貿易が始まりました。 多くの外国人が横浜を訪れるようになりましたが、 居留外国人は、中国人以外では英語圏の人が多かったため、 コミュニケーションは英語が主となりました。 江戸末期の日本には英語を話せる人は皆無に近く、横浜で英語が使われたのは、 一八五四年にペリーが二回目に来航したときが初めてといわれています。 本日は、開国と開港前後の横浜の英学についてお伺いできればと思います。 ご出席いただきました加藤祐三先生は、現在、横浜市立大学学長で、ご専攻は中国近代史です。 ご著書の『黒船異変・ペリーの挑戦』の中では、 日米和親条約の条約交渉に際しての通訳の問題などを取り上げておられます。 川澄哲夫先生は、慶応大学教授をへて、 現在はマサチューセッツ州ケンダル捕鯨博物館学術顧問でいらっしゃいます。 『資料・日本英学史』全三巻の編著がございます。 捕鯨船と漂流民などから見た日本の開国、 また福沢諭吉と英学の関わりについてお伺いしたいと思います。 小玉敏子先生は関東学院女子短期大学教授で、ご著書の『明治の横浜』では、 横浜の英学塾や、英学修業に横浜を訪れた人物などを紹介しておられます。 最近、外国人のつくった言葉集について新たな発見があったと伺っています。 |
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篠崎 |
まず、ペリーが日本に来航したのはどういう理由からでしょうか。
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加藤 |
一八五三年七月八日、浦賀沖に、ペリー艦隊が率いる四隻の黒船が停泊し、
全艦が臨戦体制に置かれた。しかし、浦賀等の砲台は発砲せず、
奉行所から二人の役人が乗った小さな船が艦隊に近づいて行った。 そして蒸気船ミシシッピー号の、海上二十メートルほどの甲板に向かって、 大きな声で、最初に何語で何と言ったか。この最初の出会いがすごく重要だと思うんです。 英語でI can speak Dutch(わしはオランダ語が話せる)と言った。 それだけが彼の知っていた英語だといわれている。 これをどう考えるかということです。 その通訳はオランダ通詞の堀達之助で、彼はもう少し英語を知っていたはずですが、 甲板には水兵らしかいない。 船は何をしに来たのか、誤解のないように、 意識的に最初のワンセンテンスを英語でやったと私は考えています。 ペリー側はすぐに二人を艦隊に乗船させ、オランダ語通訳のポートマンを出して、 話し合いが始まった。中嶋三郎助という与力とペリーの副官コンチ大佐が、 堀とポートマンの通訳で話す。それが大変象徴的です。 |
発砲交戦なしで結ばれた交渉条約 |
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加藤 |
当時の世界では、戦争が一般的でした。中国はイギリスとのアヘン戦争に負けた。
この情報が日本に入ってきていて、発砲交戦を避けたいという避戦論が日本にはかなり定着していた。
長崎にはオランダと中国の情報が定期的に入ってきていた。ペリー艦隊が、
すでに中国沖に結集しているという誤報、本当は「結集する予定」なんですが、
この情報が来航の前年の一八五二年に長崎に入っている。 つまり、日米双方が相手をどう見ていたか、そのためにどういう情報収集や分析をしたか。 これを調べるうちに、今までいわれてきたことと違うことに気づいたんです。 大部分の日本人の理解は、多分こんなようです。 幕府が無能無策で、そこに強大なアメリカの軍事的圧力がかかった。 したがって、極端な不平等条約を結んだ、という三段論法。だから条約改正が必要だと。 最近は大分訂正されてきていますが、この理解が私には不思議でならなかった。 最初に言葉が通じ、発砲交戦がなく、最後まで一門の大砲も火を噴いていない。 戦争を伴わずに結んだ条約を、私は後で交渉条約と名づけましたが、 そういった交渉条約がなぜ日本の場合できたのか。それが私の最大の関心事だったんです。 |
ペリー来航は艦隊を増強させた米海軍の内部事情 |
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加藤 |
日本側の資料は活字になっており、アメリカ側の資料もかなり入手できるようになった。
それを見ていくと、いま言った三段論法がいかにおかしいかわかる。 まず、ペリーを日本に派遣する目的を整理してみた。 メキシコ戦争のときのペリーの部下のオーリックが提督に任命されていたが、更迭されてペリーになった。 そこでペリーは海軍長官に「十二隻からなる堂々たる艦隊」を要求して受諾される。 結果的には、二回目の来航では九隻来ますが、それはどういう意味を持つのか。 これはアメリカ海軍の内部事情がかなり大きい。一八四六年に始まったメキシコ戦争が四八年で終わる。 ところがメキシコ戦争が始まったときに発注した船が五〇年と五二年になってできる。 サスケハナ号とポーハタン号の二隻です。ミシシッピー号はその前。 メキシコ戦争は終わっているから、そんな多くの蒸気軍艦は、メキシコ艦隊に必要ない。 北太平洋艦隊も太平洋艦隊も地中海艦隊も安定している。 そこで東インド艦隊へということになる。 必ずしも東インド艦隊で戦争をするためではなく、一時的に他の目的、つまり条約を結ぶために使おうと。 日本や朝鮮とは条約を結んでない。まず日本だということで、就役していた蒸気軍艦五隻のうち、 いま言った三隻を日本へ投入する。それがペリー派遣の内部事情だと思います。 |
漂流したアメリカ人の保護は大義名分 |
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編集部 |
読ませていただくと、歴史上の人物が身近に感じられるのも魅力ですね。
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加藤 |
大義名分としては、捕鯨の問題、その他いろいろありますが、
基本的には北太平洋を漁場とするアメリカの捕鯨船が難破し、北海道に漂流した。
そのアメリカ人の保護が目的です。アメリカ西海岸に漂流した日本人を送還しようとした例もある。
その漂流民を一回ごとの送還ではなく、条約を結んで、お互いに送還したり、
船舶の補修や必要な物資の補給などができないか。これが一番大きな目的です。 なぜなら、日本に漂着したアメリカ人が自分の国に戻れないとなると、アメリカ国民に対して、 政府としての役割が果たせない。飛行機はまだないから海軍が自国民の保護をおこなう。 捕鯨船が難破したケース、 それからプリマス号のマクドナルドのように北海道に意識的に潜入したケースなど、 いろいろあります。 第二に、太平洋航路、蒸気船の航路を、アメリカがイギリスより先に結びたい。 そのためには蒸気船の燃料の石炭の補給基地が要るという問題が出てくる。 |