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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成11年10月10日  第383号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 源頼朝の実像 (1) (2) (3)
P4 ○岡本太郎と川崎  岡本敏子
P5 ○人と作品  別所真紀子と『雪はことしも』        藤田昌司

 座談会

源頼朝の実像 (1)
−没後800年にちなんで−

   東京大学大学院人文社会系研究科教授   五味 文彦  
  神奈川大学短期大学部教授   山本 幸司  
  神奈川県立歴史博物館学芸部長   八幡 義信  
              

はじめに

編集部 今年は鎌倉に幕府を開き武家政治を創始した源頼朝が亡くなってから八百年に当たります。これを記念して、頼朝ゆかりの鎌倉でさまざまな行事がおこなわれており、また神奈川県立歴史博物館で十月二十三日から十一月二十八日まで特別展「源頼朝とゆかりの社寺の名宝」が開催されることになりました。

頼朝は正治元年(一一九九)一月十三日に五十歳で生涯を閉じましたが、一介の流人から平家を壇の浦に滅ぼし、東国に政権を確立するまでに、さまざまな危機的状況、あるいは転換点に立たされています。本日は、頼朝の人間像を幾つかの転換点に即してご紹介いただきながら、頼朝が鎌倉をはじめ、東国に残した文化についてもお話しいただきたいと思います。

ご出席いただきました五味文彦先生は『吾妻鏡の方法』で、源氏三代の政権がもつ共通した性格を興味深い視点から紹介しておられます。また最近、『平清盛』を執筆されましたので、頼朝と清盛という二人の人物の比較などお話しいただきたいと存じます。

山本幸司先生は、昨年、『頼朝の精神史』を出版され、この中で頼朝を、冷徹酷薄な政治家と人情の厚い信仰家の二つの顔をもつ人間として描き、頼朝の分身ともいうべき側近の役割にも注目していらっしゃいます。

八幡義信先生は、神奈川県立歴史博物館で、長年、鎌倉を中心とした中世文化の紹介に努められ、今回の特別展を統括していらっしゃいますので、主な展示品と、その見どころなどをご紹介いただきたいと思います。

貴族的な性格をもった武士として成長

編集部 まず頼朝の生まれについてお願いします。

五味 頼朝の父親は義朝ということはよく知られています。義朝は東国で成長し、「上総曹司」といわれ、鎌倉の亀ケ谷に居館があって、鎌倉で活動していたことがわかっています。上総で育っていたのが、鎌倉に来て、やがて熱田大宮司の娘と結婚していますから、ほぼ東海道を軸にして活動していただろうと思うんです。

そういう中で田舎育ちではありますが、熱田大宮司との関係もあり、京都で鳥羽上皇の周辺に仕えた。その中で生まれた子供が頼朝です。義朝には何人か子供がいますが、頼朝の場合は、熱田大宮司家は京都との関係もあるので、生まれたのは京都だろうと考えられます。

そういう点からいくと、根っからの貴族的な性格を持った武士として成長したのではないか。その貴種と しての性格が、東国武士団を統合していくときに、重要な意味をもっていたと考えられます。

それともう一つ、平治の乱のときが初陣ということで、幼いときに合戦を目にしたのが、後に挙兵におくれをとらなかった。つまり、幼いときの体験が、いろいろと意味があったのではないか。

山本 貴族性というのは非常に重要な点だと思います。例えば後に、慈円と歌のやりとりをして、慈円が感心するぐらいの和歌の教養は一体どうして身についたのか。その辺が、京都生まれで、母方も貴族文化に近いということもあるかもしれない。

頼朝自身も京下りの人間をかなり好んだという話がよく出てきますから。

五味 熱田大宮司家の姉妹は後白河院の姉の上西門院に仕えています。当時のあり方から見ると、父親はどこで遊んでいても、母親が京都育ちですから、頼朝が京都で生まれたというのは、まず間違いないだろうと思う。だから、義朝に育てられたというよりは、京都の文化的な中で育ったのではないか。

八幡 頼朝は義朝の三男ですが、嫡子であったことは間違いないですね。
山本 はい。

 

  伊豆に流されたのはかなりの優遇

編集部 平治元年(一一五九)に平治の乱が起こる。このときに義朝が敗北して頼朝は父と一緒に逃げる。

八幡 尾張の雪深い山中で頼朝は一行とはぐれ、一人でさまよっているところを捕らえられる。

編集部 捕らえられた後、京都で清盛の継母の池禅尼に命を助けられますが、平家の内部で何かあるんですか。

五味 あまり関係はないと思う。決して根絶やしにするという発想があるわけではないので。例えば平氏の知行国に流されることは、ほぼ死を意味した。伊豆は源頼政の知行国だったと考えられるので源氏の国に流されたわけだから、やはり優遇されていたことは間違いないでしょう。

以前、『院政期社会の研究』に、後白河法皇と頼朝は親しい関係にあったかもしれないと書いたことがあります。小さいころに、後白河らに接した生活がやはり大きな意味をもっていたと思いますね。

八幡 後に旗揚げしたときに、劣勢から、頼朝が鎌倉に入って、かなり短期間に勢力を持ってくるというバックには、後白河法皇や文覚上人らから情報が入ったんじゃないかという話もあります。鶴岡八幡宮にある国宝の螺鈿蒔絵硯箱は、後白河法皇が下賜したものを頼朝が奉納したと伝えていますね。

 

  伊豆での孤独な生活が政治家として大をなす要因に

編集部 流人時代の伊豆での生活は、どうでしょうか。

山本 今まで大体、流人といいながら、実際には狩りや遊興で、割合自由にやっていた面が強調されています。しかし、京都文化の中で育った人間が、いきなり草深い伊豆に行き、しかも、普通は武士団だから族で行動しているのに、個人です。どうしても孤独感があったと思う。つまり孤独の中でものを考えるというのが、政治家として大をなしていくときに大きなファクターになったんじゃないか。

五味 確かに人間を見る目を養うというのはある。集団で群れているときは、群れている間の人間関係しかわからないけれど、さまざまな間を相対化できるのは、そこから外れている人間です。しかも、京都で育ち、ちょっと斜に構えながら外から見ている。だから弱い立場になったとき、人間はどう対応するのか、そうした機微まで知った。そういう意味では苦労人だと思う。

八幡 十三歳から約二十年伊豆にいましたから、一番成長するときです。その段階での熱田大宮司家の支援を示す史料は出てこないですね。

五味 後には熱田大宮司家の受領に取り立てたりしているし、無関係ではないと思う。

山本 事件がないと史料に残らないんで、日常生活というのは出てきませんね。

八幡 何人かの乳母の支援は、随分よくわかってきました。安達藤九郎(盛長)の一族とか、比企尼、寒河尼、山内尼のような東国に勢力をもった人のほか、三善善信の母の姉妹のような京都の人もいました。そういう意味では中央の情報はかなり入っていたことは間違いないでしょうね。

五味 乳母の存在は大きいですね。ある種の女性のネットワークみたいなものがあったと思う。



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