■『有鄰』最新号 | ■『有鄰』バックナンバーインデックス |
平成12年1月1日 第386号 P2 |
|
|
目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 ことばと文化 (1) (2) (3) |
P4 | ○石坂文学再評価への期待 長部日出雄 |
P5 | ○人と作品 湖島克弘と『阿片試食官』 藤田昌司 |
|
座談会 ことばと文化 (2)
|
徳岡 | わからないから覚える。それがいいんです。 |
||
鈴木 | フランスでは、二百年前のラ・フォンテーヌも全部暗記させる。ところが日本は、わからなきゃいけないというので、教科書までみんな身近な言語にして、人類の知恵、故事来歴、中国のことわざなどを全部排除した。
|
||
自国の歴史・文学に自信を持っているヨーロッパ
|
|||
徳岡 | 私がパリにいたときに、ある偶然からデヴィ夫人と知り合ったのですが、娘のカリーナちゃんは小学校三年くらいで、世話をしてくれる日本人のおばさんと一緒に私のホテルに遊びに来たりしていた。彼女はフランスの学校に行っていましたが、日本語もしゃべれる。私に「ムッシュは学校で何を勉強したの」と聞いたんです。「リテラトゥール(文学)だよ」と答えると、「あら、そう。それじゃビクトル・ユゴーでは何が一番お好き?」と。フランスの小学校の教育の仕方が全部わかりましたね。
|
||
鈴木 | つまり、古典しか教えないんですよ。 |
||
徳岡 | しかもフランスの文学が一番いいんだと教えている。中でもビクトル・ユゴーは一番偉いんです。こっちは『レ・ミゼラブル』しか知らないけど、たくさん書いている。とにかく覚えろと。これはすごい教育ですね。
|
||
鈴木 | 戦争に負け、そこにアメリカのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムも加わって、戦前のものは全部だめと言って、日本人もそれに簡単に乗った。ただ古いということだけで悪い、新しいということだけでいいと。新しいということが、それ自身で価値を持つのはアメリカ文明と日本文明だけ。ヨーロッパでは、新しいというのはうさん臭く、危ないし、ちょっと様子を見ようと。
|
||
徳岡 | この間、皆既日食がイギリスの西部をかすめて、フランス、ドイツを通ってパキスタンまでいった。そのときにパリの新聞は、この前にフランスで皆既日食があったのは、ルイ十五世のときだと書いた。日本は逆に次にあるのは何年だ、と書く。日本人は新聞を読んで、「あっ、私はもう生きていないわ」と。ところが向こうは、そのころはマリー・アントワネットが生きていたとか、自国の歴史にものすごく自信がある。
日本で小学生が、文学研究中の外国人に「漱石では何がお好き?」と聞きますか。フランスは絶大な自信がある。先生に自信があるから子供も自信を持つ。 |
||
東ドイツは古いもの西ドイツは新しいものを良しと
|
|||
鈴木 | ヨーロッパの中でもフランスはそういう意味での自信が一番強い。ドイツ、ロシアは、日本と似ていて田舎者だというコンプレックスがある。ドイツは、プロシアでやっと日本の明治時代に統一国家になって、資本主義もおくれた。
|
||
徳岡 | ドイツ人も「ゲーテの中では何が一番お好き?」と言うんじゃないですかね。 |
||
鈴木 | 今は東ドイツがむしろそうで、西ドイツはアメリカ式になった。というのは、東ドイツは新しいことをやると思想的な問題でこじれるから、古いものがいいと。ドイツが統合したときにドイツの教授が「東ドイツの学生は古いところを知っていて、西ドイツの学生は新しいところを知っている。両方の学生がまざると、ドイツの歴史が完全になる」と。
|
||
徳岡 | 日本の最近の広告のコピーを見ると、日本語だけでなく英語も破壊している。JR東日本の広告“トレイング”は英語には存在しない。
|
||
鈴木 | “ディスカバージャパン”はまだ英語を使っているので、かぶれた程度ですが、今度は英語にあらざる英語をわざわざ作って使っている。
|
||
|
|||
徳岡 | 私の留学先はニューヨークの北方、シラキューズの新聞学の大学院ですが、あるとき、試験が終わって先生が、「この中で英語のスペルを全然間違えなかったのは、ミスター徳岡だけだ」と言った。それで私にコンプリートスペラーというあだ名がついた。我々日本人はスペルを絶対間違えない。単語カードに書いて、Young ヤング(若い)、と覚えている。
|
||
鈴木 | 日本人は漢字のおかげで言語はリテラシー(読み書きの能力)のほうが重要なんです。向こうは文字が書けない人が結構いる。大学生でもセクレタリーのRは一つか二つかとかよく聞いている。子どもが、「アイ・ノウ」のKnowをNoと書いたり。だから韓国人、中国人、日本人が英語のスペリングがうまいのは漢字は目で覚えるから。日本人は字を見て覚えようという文化的な訓練がある。
ですからフランスとアメリカではファンクショナル・リテラシー(機能的文盲)と言って、アルファベットは拾い読みできるけれど、まとまった文章は読めない人が、少し前の調査で全人口の一五%ぐらいです。 |
||
文字を目で見ないと落ちつかない日本人
|
|||
鈴木 | 彼らのメンツのために言いますと、一つには、彼らの言語は字を知らなくても言語活動ができる。日本人はどういう字を書くのか、無意識に手なんか出して字を書いてみたりしますね。または、「ちょっと書いてください」と言う。
|
||
徳岡 | やはり書かないとわからない。特に名前は。 |
||
鈴木 | 朝鮮語の勉強を始めたときに私の先生が、音だけで言語を教えるという世界共通の近代的教え方を朝鮮語に応用して日本人に教えると、さっぱり覚えない。初めからハングルで書くと一番早く覚えると。
つまり、日本人は目で見ないと落ちつかない。ところが外国の人は、文字なしで何千年とやってきたから、文字は要らないと。でも、日本語はいろいろな理由で文字の情報が不可欠だから、文字がないと落ちつかない。 |
||
徳岡 | 幼い子供を外国に連れていく時、一から英語の学校に入れるのには反対です。せめて小学校二年生ぐらい、九九を覚えるまでは日本にいなさいと勧める。というのは九九というのは、すばらしいもので、もう詩です。
特に累乗、二×二が四、三×三が九、四×四=十六、九×九=八十一まで、こんなにすごい文化を持っている国はほかにはどこにもない。そして意識しなくても、数字を尊敬することを覚える。 英語のトウ・バイ・トウ・イズ・フォーなんて、記憶に入らない。詩ではない。 |
||
声に出して読むことで理解が深まる
|
|||
鈴木 | 日本人は、とおっしゃるけれど、それはある段階までの日本人で、今は違う。戦後の教育を受けた人は、もう私たちとは住む世界が違います。今の日本の教育の場では、みんなが声を出して暗唱することほどばからしいことはないと、全部やめた。国語も英語も読まない。黙読だから、頭に入らない。
|
||
徳岡 | イギリスのチャーチルはマコーレーの『英国史』を暗唱した。当時は中学校で暗唱リサイタルがあって、何百行もあるような長い文を一生懸命暗唱した。これがどれだけ役に立っているか。
|
||
鈴木 | フランスのENAとか、いわゆる国家的指導者をつくる学校の試験は三、四時間も、何を見てもいいから論文を書けとか、そういう文科系の教養を非常に重んずる。日本ではそういうのは全然だめ。だから結局、戦後の日本は一番大事な言語をないがしろにした。日本人として、ある程度日本語でモノを考えたうえで英語というのでなく、小学校から英語を教えても、そもそも土台がない。
|
||
徳岡 | 私も女子短大で教え始めたとき、親たちは「すぐ役に立つ英語を教えてくれ」と言う。「それなら駅前の学校に行ってください。我々は文化を教えるんだから、すぐには役に立ちませんが、文化を習えば、人間は内側から輝いてくるんです」と言った。
そして、『大草原の小さな家』を初めから終わりまで読んでみなさいと。第一巻は百ページもないんです。そして外国に行ったときに、「私は英語の本をまるごと読んだことがあります。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』だ」と言ったら、向こうの人は日本語で一冊も読んでいないから絶対びっくりする。英会話を習っても、死ぬまでに何回、外国人から道順を聞かれるか、と言うんです。 |
||
|
|||
徳岡 | 先ほど先生が、日本人は日本語を全然大事にしないと言われたけど、たった一つ大事にしている人たちがいて、それは皇室です。
歌会始、これは大変なものです。特に昭和天皇の亡くなる前の年には、那須のアカゲラの歌があります。「あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ」。つまり、自分一人だけ残って、みんなが死んでいくのを見ているわけです。恐らく『万葉集』にもこんなに厳しい歌はないだろうと思います。 昭和二十一年の歌も立派です。「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ」。戦争に負けたけれど、というわけで、これもたいへんすばらしい歌です。 |
||
鈴木 |
要するに、民族の中核価値をあっさりと相手に引き渡せるから物質的繁栄、太った豚になれるわけです。ところがイスラム、インド、中国は、どんなにやせても枯れても、ヨーロッパ、またはほかの国に自分の民族の魂、中核価値を売らない。 そうすると、インドなどは三百年、四百年と大英帝国の植民地になる。中国もアヘン戦争以来みじめになる。イスラムはいまだにまだ立ち上がれない。 ところが、日本だけは魂なんていくらでも、のしを付けてあげます、と。これは、ある意味では非常に便利なんですよ。それができる環境に日本はいたんですね。 ユーラシア大陸で、周りが全部敵の場合には、魂をあげるなんて言ったら、肉体まで吸い取られるわけで、日本は魂をあげることで、大きくなってきた。これは海のおかげです。 明治の人は、日本は東洋の大英帝国になるんだということを随分書いている。要するにヨーロッパ大陸の西端に島国のイギリスがある。日本はユーラシア大陸の東端の島国であると。 ところが、日本と大陸の間は平均して二、三百キロありますが、ドーバー海峡は四十キロしかない。ですから、イギリスは歴史上わかっている限りで、三回か四回、異民族によって完全に支配されている。ケルト人、ローマのシーザー、アングロ・サクソン、バイキングという後続のゲルマン、フランスのノルマンから来たウィリアム征服王。だから今のイギリスの上院や王室は、全部フランス系ですよね。 |
||
「勝った」と喜ぶ日本語新聞と客観的な英字新聞
|
|||
徳岡 | しっかりとことばの枠にはまっている若松賤子訳『小公子』私は『英文毎日』にいて、英語で原稿を書いたことがあります。仲間と「昭和」という連載を、一年一章の割で五十回やったんです。そして昭和五十年にそれを一冊にして出した。それ以前に日本人で英語で現代史を書いた例が一つもなかった。びっくりしましたね。それで外国の新聞に、唯物史観によらない珍しい歴史だと書評された。
そのときに過去をさかのぼって調べたら、英語が禁止された戦時中の日本で、『ニッポンタイムス』と『ザ・マイニチ』は最後まで毎日出ていたんです。 |
||
鈴木 | 私は、中学生のときにそれで勉強したんです。真珠湾の奇襲攻撃はサプライズ・アタック、フロティラとか。だから、ザ・グレーター・イースト・エイシア・コープロスペリティー・スフィア(大東亜共栄圏)というのを中学生のときに覚えたんです。
|
||
徳岡 | ありがとうございます。 戦時中の英字新聞を調べて気づいたのですが、大本営の発表があると、日本語の新聞は「勝った、勝った」と大喜びですが、英語の新聞は英語では喜べない。単に「……と大本営が発表した」と書いてある。読者も書くほうもワーッと喜べない。だから、英語には日本語よりも、そういう客観性があるんじゃないか。 |
||
鈴木 | 言語そのものとなると、私はちょっと承服できないんですが、軍人がばかなことをしているということを日本語で書くとすぐ憲兵に連れて行かれるけれど、英語で書くと読めないし、ニュアンスがわからない。それから英語で書くということは、読者が日本人以外が対象でしょう。
|
||
客観的なジャーナリズムが育っていない日本
|
|||
徳岡 | 今もその差はあります。例えば高校野球で、日本語は「やったぞ、横浜高校」と喜ぶ。書き手が横浜高校の監督になりきったような興奮が英語ではできない。
|
||
鈴木 | それは、もしかしたら日本のジャーナリズムはすぐ当事者意識で乗ってしまい客観的なリポートだという意識に徹して書けないのかもしれない。イギリスには大衆紙がたくさんあって、見出しを比べると『タイムズ』はクールだけど、大衆紙はセンセーションで売らなければいけないので全然違う。逆に言うと日本には、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』みたいな客観的なジャーナリズムがまだ育ってないんじゃないか。
話は飛びますが、私の書く日本語は、ヨーロッパ語、朝鮮語にすぐ翻訳される。普通に名文といわれるものは、翻訳しようと思うと主語は何なのかわからなくなるが、同じ日本語でも私のようにわかるように書こうと思えば書けるんです。私は外来語は使わない。しかし、どうしても困るのはアイデンティティ。 |
||
徳岡 | 私は、自己存立基と訳しています。 |
||
鈴木 | もともと日本人の精神構造にないものは、英語もよそよそしいけど、漢語で書いても何のこっちゃと。それは明治時代のバターとチーズによく表れた。バターは牛酪、チーズは乾酪と訳した。仏教が入ってくる前の時代に、牛酪、乾酪があった。ところが明治の人はどっちもモノを知らない。それならバター、チーズのほうがいいと。
|
||
しっかりとことばの枠にはまっている若松賤子訳『小公子』
|
|||
徳岡 | 若松賤子はフェリス女学院の第一回、かつ、一人だけの卒業生ですけれど、彼女の『小公子(Little Lord
Fauntleroy)』の翻訳は絶品ですね。「しっかり、しっかり歩いていきました」とか、「セドリックはちっとも知りませんかった」と。 |
||
鈴木 | 「……せんかった」というのが実に印象に残る。 |
||
徳岡 | 会津若松の口調ですね。岩波文庫で出ていますが他は誰も訳していない。訳してもあれに勝てる訳はない。しっかりとことばの枠にはまっている文章のすばらしさ、あるいは句でも五七五の句にはまっている句の強さ、あるいは三十一文字の強さ。人間は制限を受けたほうが、かえって心が自由に躍るんじゃないかと思うんです。
|
||
鈴木 | それは音楽でも芸術でも、全部古典主義のうるさい制約があると、すごいものができるけど、何でもいいとなると、歴史に残るものは全然ない。やはり制約があって、それを乗り越えるエネルギーで美なり、道なりができる。
|
||
暗いところを学ばないのが日本文明の伝統
|
|||
鈴木 | ところが、今の日本は制限がまったくない。例えば写真にしても、人の家をのぞき見して撮れば捕まりますが、公に写真を撮ってはいけない所はほとんどない。宮城もヘリコプターで撮れる。ところがフランスは駅、橋、港などはみんな、写真を撮ったら捕まる法律が残っている。フランスは世界で一番の警察国家で、パリ警察は世界で一番の拷問の名所なんです。
|