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平成12年6月10日 第391号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 横浜はダンスのメッカ (1) (2) (3) |
P4 | ○装丁にみる出版文化 臼田捷治 |
P5 | ○人と作品 垣根涼介と『午前三時のルースター』 藤田昌司 |
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座談会 横浜はダンスのメッカ (2)
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藤田 |
横浜の居留地では、山手のゲーテ座で明治十八年四月から定例的な舞踏会が開かれ、翌十九年には、イギリス海軍艦隊士官のための舞踏会が開かれて、チャールズ・ワーグマンが挿絵を書いています。 ゲーテ座ではワシントンの生誕記念舞踏会とかイギリスの聖人を記念した舞踏会などがおこなわれ、海岸通りにあったユナイテッド・クラブなどでも舞踏会が開かれていたといわれています。 |
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杉浦 | 日本には、社交ダンスがすんなり受け入れられない土壌があるわけです。当時から今日にいたるまで、いろんな問題が起こっており、後には風俗営業に関する法律なんかにも関連してきますが、野球、ゴルフ、サッカーなんかは、だいたいすんなり日本に入ってきたのに、社交ダンスは、すんなりとは入れなかった。
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日本で最初のダンスホールは鶴見の花月園
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藤田 | ホールとして、日本で最初にできたのは、大正期にオープンした鶴見の花月園ですか。 |
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杉浦 | そうです。ですからその意味でも、横浜がやっぱり起源です。 |
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もりた | ホテル・ニューグランドの前身で、海岸通りにあったグランドホテルでも、お客さんのためのダンスホールというか、こぢんまりしたものはあったそうです。
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藤田 | いつごろですか。 |
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杉浦 | 大正の初めです。帝国ホテルとグランドホテルで大正の初期から社交ダンスは始まっているんです。ただ、これは外国人が中心の、いわゆる内輪の舞踏会です。
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藤田 | 花月園のダンスホールは、一般の人に開かれたダンスホールの最初ということになるわけですか。
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杉浦 |
永井良和氏や加年松城二氏の研究によれば花月園は、新橋の花月亭という料亭のおかみの平岡静子さんが亭主の広高さんにつくらせたようです。 広高さんがパリ郊外にある遊園地をまねて大正三年(一九一四)に花月園をつくった。あそこは子どもを対象とした遊園地ですから、大きなすべり台の施設とか宝塚みたいな少女歌劇団もあった。ホールができたのは大正九年です。グランドホテルや帝国ホテルもその前後です。 |
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もりた | 夜会と舞踏会はどう違うんですか。 |
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杉浦 | 舞踏会は踊りが目的です。夜会は飲食・歓談が主で、ダンスが入ったり音楽があったりします。
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藤田 | 花月園のダンスホールは非常に盛んだったようですね。そのころは、花月園が一般の日本人を対象にしたダンスホールで、ホテルは外国人のためということだったんですね。
ダンスホールは、そのあたりから続々とでき始めるんですか。 |
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杉浦 | そうですね。その少し前に加藤兵次郎という人がアメリカに流通業界の視察に行って、その時に向こうのダンスホールを見てくるわけです。これは商売になるなと思ったらしく、それを持ち込んでくる。これは職業婦人がちゃんとお相手をするホールです。
日本に帰ってきて、函館に最初のダンスクラブをつくった。そのアイディアから、その後大阪に本格的な営業ホールができる。関東大震災の後の大正十三、四年のことです。 |
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藤田 | 関東大震災で東京、横浜のダンスホールは壊滅状態になり、それで大阪が主な舞台になったといいますね。
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杉浦 | それは影響があったでしょうね。 |
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藤田 | そのころのダンスの形は、ブルース、ジルバ、タンゴ、フォックストロットとか、いろいろありますがどんな……。
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杉浦 | タンゴとかフォックストロットです。 |
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堀 | 一番最初に日本に入ってきたのはワルツだとか。 |
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石田 | そう言われますね。 |
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堀 | 今のワルツではなく、速いワルツなんです。踊りは全然違うんです。 |
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杉浦 | 万延元年(一八六〇)の遣米使節がアメリカで舞踏会を見たときの記録に、コマネズミが回るがごとし、という表現がある。これはウインナワルツでしょうね。
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堀 | 今のワルツじゃないですね。社交ダンスを本格的に日本に持ち込んだのが目賀田綱美男爵で、ダンスの普及に日本人で最初に貢献した人なんじゃないですか。
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杉浦 | 目賀田男爵は昭和元年に日本に帰ってくるんですが、大正十二年の国際連盟の会議に全権大使で出席するお父さんに随行していく。パリに居ついて、ダンスに熱中してしまう。このときに彼が習ったのはタンゴです。
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もりた | タンゴの歴史は古いんですか。 |
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杉浦 | いや、意外と新しいんです。アルゼンチン・タンゴは十九世紀末にブエノスアイレスの港町の酒場で自然発生的に生まれたものです。
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バレリーナのエリアナ・パブロバも指導
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藤田 | 目賀田男爵の前に指導的な立場にあった人は誰なんですか。 |
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もりた | ロシア人のバレリーナのエリアナ・パブロバが基本的なものを教えたんじゃないのかな。 |
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石田 | 夫もロシア人に、横浜の港で教わったと申してましたね。 |
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杉浦 | その前にドイツ人でヤンソンという東京農大の獣医学の先生がいます。鹿鳴館時代に井上馨が官僚の子女を集めて講習会を開きますが、そのときの講師がヤンソンだったそうです。明治二十年代ですね。
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堀 | そういう人は国が招いたんですかね。 |
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杉浦 | ヤンソンは国が招いたお雇い外国人です。パブロバは私費で来ていた。鎌倉にスタジオをつくってバレエを教えるんですが、これでは食べていけないので、社交ダンスのレッスンもしているんです。そういう意味ではパブロバは先駆者の一人ですね。
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演奏は海軍軍楽隊から専属バンドへ
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藤田 | 踊り方ではワルツ、タンゴ、フォックストロットが最初だったということですが、そのころのバンドは。
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堀 | バンドじゃなくて、海軍の軍楽隊ですね。 |
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もりた | 鹿鳴館もバンドは軍楽隊です。 |
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杉浦 | バンド自体がなかったんです。 |
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石田 | 大勢で演じるのは、軍楽隊しかなかったんじゃないでしょうか。 |
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もりた | 海軍軍楽隊が引っ張りだこだった。 |
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杉浦 | だから、海軍の将校で、ダンスをやっている人はとても多かった。やっぱり外国と交流があって、スマートなんですね。陸軍はどちらかというと剣道、柔道の世界。
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石田 | 海軍は何となくモダンな感じでしたよね。海軍の軍楽隊は、積極的に洋物の楽譜を手を入れていたという話ですね。
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藤田 | 花月園で最初にホールができたころは、バンドだったんですか。それともレコードがもうあったんですか。
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もりた | 専属バンドがいたそうです。 |
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藤田 | ホールでやるようになったのは、花月園が最初だとすると、専属バンドも最初だったかもしれませんね。
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もりた | 花月園がやはり口火を切ったんじゃないでしょうか。 |
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昭和十五年の奢侈禁止令でダンスホールが閉鎖
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藤田 | 石田さんは、いつ頃からダンスをおやりになっていらっしゃるんですか。 |
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石田 | 石田と結婚した昭和十二年以降です。 |
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藤田 | 十五年のいわゆる奢侈(しゃし)禁止令でダンスが禁止になる直前ですね。 |
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石田 | 禁止になってよかったと思いました。 |
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藤田 | どうしてですか。 |
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石田 | 主人が踊りにばかり行っている。サラリーマンなのに、毎日毎日ダンスを踊って、帰宅が朝の三時、四時です。それで朝早く起きて会社に行くわけですから、よく体が続いたと思いますよ。ですから、禁止になってほっとしました。
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藤田 | 昭和十五年十月末日をもって、贅沢は敵だということで、ダンスホールは閉鎖になるわけですね。
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もりた | ラストダンスという言葉は昭和十五年にダンスホールが閉鎖したときに日本で生まれた言葉だそうです。ラストダンスという歌が戦後はやりましたが、バンドマスターは、ラストワンと言います。これでおしまいだと。ラストダンスとは言わない。
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藤田 | その本当のラストダンスのときは、ダンスのファンは大変だったでしょうね。 |
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もりた | ダンスホールをはしごしたようです。東京都内には十幾つありましたから。 |
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不良のやることと思われていたダンス
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藤田 | ダンスは、今は非常に健全なスポーツになっていますが、あの当時は社会的には大分偏見を持って見られていたんじゃありませんか。
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石田 | そうなんです。今と全く違います。 |
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藤田 | 資料で読んだ範囲でも、例えば北杜夫の母親で、斉藤茂吉の奥さんのてる子さんは、昭和の初め、ダンスホール通いに熱を上げ、結局警視庁につかまって、豚箱に入れられる。早い話が不良のやることだと思われてたんでしょうかね。
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もりた | 吉井勇さんの奥さんもそうですね。それがもとで吉井さんも斉藤茂吉さんも別居する。吉井勇さんは離婚します。
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石田 | ダンスをする人はまれでしたが、みんなまじめでしたよ。 |
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もりた | 女たらしというかジゴロ教師というのは二、三人いたそうですよ。資料によると、やっぱり腕がいい。知的レベルの高い有閑マダムをくどくんだからうまい。ダンスもめっぽううまい。(笑)
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藤田 | ダンスの教師は全部男性だったんですか。 |
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石田 | いいえ私たちもやりました。 |
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堀 |
戦後の昭和二十一年にダンスホールの営業許可が再開されて、ダンスホールとダンス教室の両方が乱立するような形になった。石田先生なんかは、プライドをお持ちでしたから、俺たちはものを教えるプロなんだ。ダンスを教授することが全てなんだと言っておられた。戦後は、そのように二分されていったんです。 名選手を育てる力を持っている先生方が努力を重ねて、徐々に枝葉を広げていき、現在に至っているわけです。 |
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藤田 | 百花繚乱の時代を迎えるわけですね。復興に導いた功労者というと、どんな人がいるんですか。
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堀 | トップに藤村浩作先生。それから、石田千春先生、中原光夫先生、助川五郎先生、関西では小山賢之助先生とか。
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もりた | 社交ダンスには、競技ダンス、ステージダンスと言って人に見せるダンス、それからパーティーというかダンスホールで踊る社交ダンスの三種類あるんです。
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堀 | だから、みんな考え方が違っています。 |
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石田 | 踊り方も違います。 |
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堀 | ええ。競技に勝つために指導している先生と、営業を目的としている先生とは完全に違いますからね。
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藤田 | 今日、ダンスが非常に隆盛なのは、競技ダンスがもとですか。 |
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堀 | はい。今言った藤村浩作先生をはじめ石田先生、中原先生、助川先生らが一つ一つの競技会を丹念に積み重ねていって、今の日本武道館でやれるような姿にまで持ってきたわけです。昔は、元町のクリフサイドという小規模な会場で全関東選手権をやっていたんですから、踊りも規模も小さかった。
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もりた | クリフサイドは今でもありますね。 |
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堀 | あります。今は出場者が多く、そういう小さい所では競技もできないし、観客も収容し切れないから武道館や後楽園ホールや幕張メッセになったんです。
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藤田 | 競技ダンスが始まったのは戦後ですか。 |
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杉浦 | 戦前からです。フロリダで昭和七年に第一回の全日本社交ダンスアマチュア選手権が開かれています。
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堀 | 石田先生がナンバーワンだと言われたゆえんは、チャンピオンを三、四人育てたということです。助川先生もそうですが、そのほかにも超一流の指導者はたくさんいました。
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農耕文化の日本では肌を触れ合うことに拒絶反応
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杉浦 | 社交ダンスは最初に申し上げたように、日本人にとっては異文化だった。ヨーロッパの狩猟民族の、肌を触れ合う文化から生まれたものです。キスをしたり、握手をしたり、抱擁したりして、あなたの敵じゃないよということを日常的に表現する文化にとって、肌を触れ合うことはごく自然なことなんです。
一方、日本は農耕文化で、一定の土地の中で悠々自適にやってきているから、他人に対して敵だとか味方だとか日常的に表現する必要がない。だから「こんにちは」とおじぎの文化になっている。肌を触れ合う必然性がない。 農耕ですから、土地に執着して、これが男社会になっていく。血縁で土地を継いでいくから、女性を入れると土地相続が不明瞭になる。長子相続という形で日本の文化は続いてきた。そこにダンスが入ってきたときに、むやみやたらに男女が肌を触れ合うのはけしからんと。 大正十五年(一九二六)に当時内務省の生活課の係官が十八歳未満の青少年のダンスは許せないと言って、大正十五年の第五十一回帝国議会に舞踏禁止令という法案を出したぐらいなんです。ダンスの愛好者たちが、この風潮をどうにかしようと、スポーツ性を重視した競技ダンスという発想が生まれてきます。 つまり競技として美しさを競っている。単なる男女の交際の道具じゃないとアピールしていく。それが藤村浩作先生をはじめとする先駆者たちが打ち出していった政策で、これが戦後に花開いていくわけです。これは明治、大正、昭和初期にかけての社交ダンスの歴史を検証した結果の政策なんです。 |