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平成12年7月10日 第392号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 昆虫の世界 (1) (2) (3) |
P4 | ○宣教師ルーミスの横浜からの手紙 岡部一興 |
P5 | ○人と作品 山本一力と『損料屋喜八郎始末控え』 藤田昌司 |
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宣教師ルーミスの横浜からの手 |
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アメリカの長老派教会本部へ宛てた手紙
ルーミスは一八三九年三月四日、アメリカ合衆国ニューヨーク州バーリントンの農家に生まれた。ルーミスの祖先は、ロンドンの南約五十キロのブラントリーから一六三九年、アメリカのコネティカット州ウィントリアに移住した頑固なピューリタンで、バーリントンには祖父ジョセフ・ルーミスの時代に引っ越してきた。ルーミスの父はノア・コールマン、母は、ニュー・イングランド気質を持ったマリア・ミーチで、ヘンリーは八人兄弟姉妹の下から二番目であった。 ヘンリーは二十歳の時、牧師の導きでハミルトン大学に入学した。ところが一八六一年に南北戦争が勃発、二年生も終わりに近づいたころ、リンカーン大統領の呼びかけに応じて北軍の義勇兵として参戦、二度の負傷にもめげず、ファイブホークの戦役後、大隊長となり、陸軍大尉となった。六五年七月除隊し、同年秋、ハミルトン大学に戻り、翌年秋、オーバン神学校に入学した。ルーミス二十八歳の時であった。
ルーミスは一八七四年(明治七)九月、横浜第一長老公会を創立、これが横浜指路教会へと発展したのであるが、ルーミスの書簡四十通は米国長老派教会本部へ宛てたもので、フィラデルフィアの長老派歴史協会に、ほとんど人の目に触れることなく保管されていた。これらの書簡はルーミスが一八七二年五月に来浜し、七六年四月末に健康を害して離日するまでに書かれたもので、日本に最初の長老派教会が誕生した当時の宣教活動とはどのようなものであったかを明らかにしている。 彼はその後、家族とともにカリフォルニアで静養し、八一年(明治十四)に再び来日、一九二〇年(大正九)に逝去するまで、日本で過ごした。最初の四年間は横浜第一長老公会を設立した牧師として、再来日後の三十九年間はアメリカ聖書協会の責任者として活躍した。 ルーミスが来日した一八七二年の九月、日本に滞在する宣教師によびかけて横浜居留地三九番のヘボン邸で宣教師会議が開かれた。カトリックとは異なってプロテスタントには多くの教派があったが、米国オランダ改革派教会、米国長老派教会、米国組合派教会などの宣教師が中心となって開かれた。その会議で三つのことが決まった。第一は教派によらない神学校の設立、第二は共同訳の聖書を翻訳すること、第三は教派によらない教会の形成、すなわち超教派の教会を建設していくことであった。
そして七二年十月末ころから長老派のルーミスのもとに集まった人びとと、J・H・バラの教会員とが居留地三九番のヘボンの施療所で共に礼拝をおこなった。しかし、この構想は、次々に日本に入ってくる教派によって後退を余儀なくされ、七三年(明治六)五月からは別々に礼拝をおこなうようになり、長老派はこの運動から離脱して独自の歩みを始めることになった。 こうして米国長老派教会は七三年十二月、日本長老会を組織し、長老制度の教会を形成するようになった。ルーミスは、ヘボン塾から受け継いだ生徒を教えるなかで、七四年七月五日、十名に洗礼を授けた。九月十三日には七名の受洗者が出て、すでに転入会した南小柿洲吾(みながきしゅうご)を含めて十八名のメンバーからなる横浜第一長老公会を創立した。先に作成した信仰告白とともに横浜第一長老公会規則をつくり教会の体裁を整えた。 ルーミスは、居留地三九番のヘボンの施療所で礼拝をおこなっていたが、日本人への伝道は日本人街に出ていっておこなうことが不可欠であるという視点から、尾上町の現在の指路教会の位置に講義所を設け、また七五年五月には太田町に講義所を移した。しかし、ルーミスは、あまりの熱心さで伝道したため病気になり、医者から帰国して静養しなければ健康を回復することはできないと宣告され、七六年四月末、カリフォルニアに帰国せざるを得なかった。 農作業に汗を流し、田園生活の中で健康を取り戻したルーミスは一八八一年(明治十四)五月、再び来日、L・ギューリックの後を受けて、アメリカ聖書協会横浜支局の支局長となった。また同朝鮮支局長としても尽力し、両方の責任者として、聖書の発行、販売、配布をおこなった。 ルーミスが再来日して二か月後、朝鮮から使節が来日した。その随員の一人に、日本の農業を研究しにきたものがいた。農学者の津田仙を訪問した彼は、「山上の垂訓」の漢文の掛け軸に関心を持った。津田は彼に掛け軸を渡そうとしたが、彼は、朝鮮ではキリスト教は禁教なので受け取れない、といった。朝鮮に帰った彼は「山上の垂訓(すいくん)」について朝鮮王廷に勤めていた李樹廷(イスジョン)に語った。李は東京帝国大学朝鮮語講師になって来日、直ちに津田仙を訪ねた。また長老派教会初代日本人教師の安川亨、ルーミスの後任の指路教会牧師G・W・ノックスと接触をもった。 そこでルーミスは李を訪ね「聖書を朝鮮語に翻訳してみませんか」と勧めた。李は日本語の聖書を朝鮮語に翻訳する仕事に取り組み、八三年、マルコによる福音書を訳し終え、アメリカ聖書協会から出版した。この年、ルーミスは朝鮮のアメリカ聖書協会の支局長になった。朝鮮では宣教師が布教のために入国する前に聖書が入ったのである。 またルーミスは金玉均とも交流を深めた。日本の貨幣制度と郵便制度を学ぶために一八八二年に来日した金玉均はキリスト者であることを表明しなかったが、八四年、宣教師の朝鮮入国許可を認め、京城に高価な土地を与えた。ここに朝鮮は長老派教会が受容されることになった。 今も歌われているルーミスが編纂した日本語の讃美歌 ルーミスの日本における貢献は讃美歌の翻訳・編纂にもみられる。 一八七四年、讃美歌集「教(おしえ)のうた」(十八篇)を、ヘボンの日本語の教師でのちに牧師になった奥野昌綱と作成した。この前年にも賛美歌集を発行したといわれるが、発見されていない。 横浜第一長老公会時代は、礼拝のときの奏楽は夫人のジェーン・ヘリングが担当していた。礼拝後には、必ず夫人が弾くオルガンの調べにあわせて讃美歌を練習した。また教会員のなかには夫人からオルガンの手ほどきを受ける者もいた。 現在、プロテスタント教会で使用されている「讃美歌」(第二編付き、一九七一年初版)には、「主われを愛す」「主よみもとに」「うきよのあらなみ」「いさおなきわれに」「まごころもて」「ひのてるかぎりは」「イエスきみのみなに」など、ルーミスが翻訳・編纂した讃美歌が数多く取り入れられており、今日まで歌いつづけられている。 また、ルーミスは、昆虫や植物の採集、考古学にも関心を持っていた。一八八二、三年(明治十五、六)ころ、千葉県鹿野山でシジミチョウの一種を発見、友人のH・プライアーによってルーミスシジミと名づけられ、学会で紹介された。 ルーミスは一九二〇年(大正九)に八十一歳で亡くなったが、この書簡集からは、創立当初の教会や日本人への伝道のようすがわかるだけでなく、宣教師たちの喜びや悲しみ、あるいは宣教師同士の間に軋轢があったこと、さらに同じ教派のヘボンやカロザースはもちろん、フェリス女学院の創設者キダー、女子学院のツルーなど、当時、横浜や東京で活躍した宣教師の動向も垣間見ることができる。 ちなみに、ルーミスの娘クララは、一九〇一年(明治三十四)米国婦人一致伝道協会から派遣されて現在の横浜共立学園の第四代校長となり、三十五年にわたって日本の女子教育に貢献し、父親の伝記『東洋の友—ヘンリー・ルーミス』を書いた。一九六八年(昭和四十三)に逝去し、横浜外国人墓地のルーミス夫妻のそばに彼女の記念碑が建てられている。 |
おかべ かずおき |
一九四一年東京生まれ。 |
横浜指路教会長老、相洋高校教頭。 |
編著『図説キリスト教文化史』(共著)有隣堂(品切)、 『宣教師ルーミスと明治日本』有地美子訳 有隣堂1,050円(5%税込) ほか。 |