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平成12年12月10日 第397号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 『星の王子さま』の魅力 (1) (2) (3) |
P4 | ○鏑木清方と金沢の游心庵 八柳サエ |
P5 | ○人と作品 猪瀬直樹と『ピカレスク 太宰治伝』 藤田昌司 |
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鏑木清方と金沢の游心庵 |
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清方が金沢を初めて知ったのは、ごく幼いころ、歌川広重の『草筆画譜』にある金沢八景の図を目にした時であった。 その後、清方は亡き父が遺してくれた唯一の形見という『江戸名所図会』からも金沢のことを知るようになり、この地に 憧憬の念を抱くようになる。『江戸名所図会』は天保七年(一八三六)に完結した地誌で、八景の景勝や旅亭東屋など、 金沢を大きく紹介していた。 清方が初めて金沢を訪れたのは四十歳にもなろうとする大正七年(一九一八)のことであるが、この時期、清方はひとつの 岐路に立っていた。金沢を訪れ、別荘を構えるようになるのは自らの進むべき方向性を模索していたからでもあろう。 別荘はすでにあった家屋を譲り受けたもので、母屋と別に高台に四阿(あずまや)があった。ここからは、居ながらにして金沢八景の ほぼ全容を見渡すことができた。四阿は「游心庵(ゆうしんあん)」と名付けられ、後に一通りの生活と制作ができるよう改築された。 鎌倉市 清方は大正八年から数年にわたり、ほぼ毎夏、身近な人人と過ごす金沢で、卑近な情景や自然の景観を題材に日々の様子を 画冊に描き綴り、賛を付した。これらは「夏の生活」「游心庵漫筆」「金沢絵日記」など、年によって作品名は異なるが、 連作として意識された五作を含めて『游心庵絵日記』と総称している。いずれも清方が亡くなるまで手許に置いた作である。
絵日記は清方が初めて金沢の地を訪れた翌年から始まり、以後数年間のものがほとんどである。 大正八年にはまだ別荘を購入しておらず、清方と妻照、清子、泰子の二人の娘と金沢の東屋に逗留した。金沢への途次、 立ち寄った鶴見の花月園、花香苑(はなかえん)、磯子の八幡橋などを描き、金沢では夏島や野島、能見堂の旧跡などを歩いたことを 伝えている。また、帰路、横浜の知人に招かれて海岸通りのオリエンタル・ホテルに宿泊、ホテルの浴室や西洋式の蚊帳を 吊ったベッドなど、四図を描いている。 小柴での海水浴や鷹取山の石切場
大正十一年(一九二二)の絵日記には藤色やピンクなどの水着を着けた家族の姿が残されている。清方自身は海に入ることは ほとんどなかったというが、妻や子どもたちは別荘から水着に着替え、称名寺から小柴へ向かう途中の海で泳いだ。遠浅の磯浜は 波もなく、プールのように泳ぐことができ、潮が干くと砂利の凹凸と岩肌が見え、浅蜊や蛤が欲しいままに採れたという。 また、海から帰る途中の田んぼには、夕方になると蛍が出たという。清方が住む東京・本郷龍岡町とは異なり金沢はゆたかな自然を満喫できた。 また、別荘のある金沢から近隣へ出かけた折りのことも描かれている。大正十二年には、能見堂を越えて氷取沢(ひとりざわ)のドイツ人の 別荘を見に行ったり、大正十三年の絵日記には逗子の神武寺見物に出かけ、神武寺山頂から鷹取山の石切り場へ、木の間をかきわけて 道なき道を進んで行った様子が、戯画的な連続性をもって描かれている。 このほか絵日記には、金沢へ向かう途中に、工事が一部完成して「映画で見る外国の道路」のようになった京浜国道のことや、 手向けの塔婆が立てられた磯子の関東大震災の跡、あるいは要塞地帯のため写生が禁止されているはずの横須賀海軍追浜飛行場の夜間演習の 模様なども描かれ、大正期の横浜の歴史の一コマをかいま見させてくれる。 八幡様の村芝居や菓子店の美人 また、清方は別荘近くの八幡様で行われた村芝居を敢えて「東京大歌舞伎」と記し、称名寺門前の菓子店の美人を 寺の菩薩になぞらえて描くなど、洒落っ気とユーモアを随所に発揮している。祭りでひっくり返った神輿を捉える など、清方の眼差しが絶えず庶民のおおらかさに向けられていたことも、絵日記は教えてくれる。 清方が絵日記という形式を手がけるようになった直接のきっかけはわからない。ただし、清方が幼年期から 親しんでいた絵草紙など、手にとって楽しめる作品の形式への愛惜の念があったからではなかろうか。 この後まもなく清方は、手元で親しむ作品に通う美意識の見直しを喚起して、「卓上芸術」を提唱した。これは、 会場芸術や展覧会芸術、また床の間芸術と対照され、色紙、短冊、画帖の類いで、手に取って鑑賞する作品を指す。 屏風や大幅の軸などの「仰いで視る展観芸術」に対し、卓上芸術とは「俯してこまかい筆を味はふ」ものである。 清方は十三歳のときに水野年方(としかた)に入門、肉筆画家を目指す前にまず、机の上で文芸作品から自ら構想した映像的 イメージを膨らませる挿絵の仕事から出発した。 挿絵の仕事が性に合っていた清方は、大展覧会出品作の制作で葛藤し続ける一方、自らが楽しんで描ける卓上芸術に、 作画の心地よさを見出す。清方言うところの「かいた人がやつぱり職業意識を棄てゝ、楽しんでかいたもの」で、 「安坐(あぐら)をかいて番茶を飲んで、心おきなく楽しめる」絵日記作品は、繊細な清方の筆を味わう卓上芸術である。 清方の卓上芸術への志向は、大正末期ころに芽生えたとされ、昭和二年五月の第十二回郷土会展出品作《註文帖》が 嚆矢と見なされているが、絵日記作品は、それに先んじた卓上芸術の萌芽とみることができる。 金沢で描いた《朝凉》で進むべき方向性を見出す
作品サイズも異例の大作で清方は、同時代の都会のうら若き娘に清澄な美を託し、添景としての江戸期の女性像で は成し得なかった、一つの美の典型をここに描き出し、大正十四年(一九二五)の帝国美術院展に出品した。 この《朝凉》に到達するまでの数年間、清方は、独自の絵画世界を築くことに腐心した。金沢を訪れたのも、南画の 「游心」の境地で自然を多く盛り込みながら、山水のみではなく庶民の情感を通わせた風俗画の性質をそなえる、 新しい風景画を試みようとしたからである。 また大正十年(一九二一)に金沢で取材したと思われる《水汲》では、《朝凉》の都会的な女性像とは対照的に村娘を描き、 太くがっちりした首や足腰と節くれだった指といった、人体の写実的な表現に取り組んでいる。 こうした試行を重ねた後、清方は《朝凉》にいたって、自己の進むべき方向性を見出したものと思われる。《朝凉》の 制作された大正十四年以降、これまで毎年のように制作されていた絵日記がまとまった作として残されていないことも、 こうした事情を物語っている。 この延長線上に、清方畢生の名作、昭和二年(一九二七)作の《築地明石町》が生まれた。《築地明石町》は、清方が 江戸の名残をとどめた明治の東京に育ち、失われゆく明治の面影を描き留める中に、自己の絵画世界を確立した記念碑的な作である。 清方は日本画壇に押しも押されもしない存在となり、愛妻と娘二人に囲まれた幸せな家庭を築いた。絵日記作品は 家族の日常の様子を留めるアルバムでもある。第二次大戦後の理想の核家族を先取りしていて、今に生きる我々に、 心温まる懐かしさと共感を呼ぶところがある。 絵日記のような、構えない作品で自由な筆さばきを愉しむ一方、新たな美の規範となるような女性像の大作を完成 させる境地を切り拓くことができたのは、游心庵が与えてくれた時間とそこでの生活が大きく関わった。 清方は金沢に永住の望みさえ抱いたが、やがて横須賀軍港の隣接地域としての発展がそれを空しくしていった。 |
やつやなぎ さえ |
一九五九年東京生まれ。 |
横浜美術館学芸員。 |
著書『鏑木清方と金沢八景』有隣堂2,940円(5%税込)。 |