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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成13年1月1日  第398号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜公園とスタジアム (1) (2) (3)
P4 ○古文書にみる相模野の女たち  長田かな子
P5 ○人と作品  北方謙三と『水滸伝』        藤田昌司

 座談会

横浜公園とスタジアム (1)
開港から現在まで

   関東学院大学講師   田中 祥夫  
  (株)横浜スタジアム取締役社長   鶴岡 博  
  文化庁建造物課   堀   勇良  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
横浜公園とスタジアム
横浜公園とスタジアム
(株)横浜スタジアム提供
横浜市中区のJR関内駅前にある横浜公園は明治九年に日本で初めて、日本人が利用できる洋式公園として誕生 しました。開園とともに外国人向けにつくられたクリケット場は、現在、横浜ベイスターズの本拠地・横浜スタジアムとなり、 また公園内では、毎年六月に「開港記念バザー」が開かれるなど、広く市民に親しまれております。

本日は、横浜公園が計画される前の幕末から、関東大震災と復興、第二次大戦後の接収などの時代を経て、市民の力で 実現した横浜スタジアムが完成するまでの軌跡をたどっていきたいと思います。

ご出席いただきました田中祥夫様は、長年、横浜市役所でまちづくり、住宅計画に携わられ、現在、東海大学大学院、関東学院大学講師で いらっしゃいます。横浜の代表的な公園の誕生のいきさつやエピソードをまとめた『ヨコハマ公園物語』(中公新書)を執筆されました。

鶴岡博様は、昭和五十三年に横浜公園に横浜スタジアムが造られる際に、横浜青年会議所理事長として尽力され、 現在、株式会社横浜スタジアム社長を務めていらっしゃいます。

堀勇良様は近代建築史がご専門で、長年、横浜開港資料館におられた後、現在、文化庁建造物課に勤務されております。


開港直後に港崎遊廓ができる

篠崎 横浜公園が誕生する以前は、あの場所には遊廓があったんですね。

田中
座談会出席者
左から堀勇良氏、田中祥夫氏、
鶴岡博氏と篠崎孝子
安政五年(一八五八)に日米修好通商条約が結ばれ、横浜に開港場が設けられることになると、幕府は遊廓を設ける ことを決めます。場所は、港崎(みよざき)町という現在の横浜公園の位置が選ばれました。翌六年六月の開港には 工事が間に合わず、遊廓は六年十一月になって開業します。品川宿の岩槻屋佐吉の岩亀(がんき)楼、神奈川宿の鈴木善二郎の 五十鈴(いすず)楼など十五軒の遊廓ができます。

浮世絵にも岩亀楼の内部や外国人と日本の遊女が遊ぶ様子が描かれています。

篠崎 岩亀楼の遊女、喜遊(きゆう)の話は有吉佐和子さんの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』という作品にもなっていますが、 外国人と枕を共にすることを拒んで自害したということです。「露(つゆ)をだにいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖(そで)は ぬらさじ」という辞世の歌も伝えられております。喜遊については実話かどうか知りませんが、開港期の横浜の エピソードのひとつですね。

田中
港崎遊廓
港崎遊廓
(「横浜廊之図」一勇斎国芳 万延元年4月)
M.ブラウン氏蔵
現在、公園内の噴水近くに、岩亀楼の銘が刻まれた石灯籠が置かれています。

港崎遊廓は外国人の要求でつくられたともいわれていますが、果たしてそうでしょうか。外国側は条約に基づき、 神奈川に開港場をつくるよう要求していました。ところが幕府は交通の不便な横浜を主張する。横浜を一日も早く にぎやかな場所にしようと、また外国人の目を横浜に向けさせようと幕府が遊廓建設を考えたのではないか。

遊廓の場所は、主に元町寄りの中村川河口から流れ込んだ土砂が、砂嘴(さし)のように伸びた横浜村との間にたまって 沼地になっていた所で、外国人は一帯をスワンプ(SWAMP)と呼んでいました。

 

  幕末に外国側から公園の要求が

田中 横浜公園の誕生は明治九年ですが、すでに幕末に外国側から要求が出され、それでつくられることになった わけです。

一番最初は、元治元年(一八六四)に結ばれた「横浜居留地覚書」です。第二回地所規則と普通いっています。

この規則は、居留地が手狭になったので居留地を拡張しようというねらいでできました。遊廓は日本人町と 居留地の境界に立地していましたので、その第五条に、遊廓のあった周辺を埋め立てて、将来、居留地の拡張に 使おうということが入っています。

そのなかで、埋立工事が完成したら遊廓は他に移すことになっていた。一つ面白いのは、工事中に遊廓が火事で 焼けたときには、日本式でいえば「つち音高く」すぐに復興するわけですが、焼けたら、もう建てさせないという 取り決めをする。

もう一つは、居留地として拡張した部分は、外国領事の同意が得られなければ日本政府は貸し渡しをしては いけない、という一項目が入っているんです。

その背景には、開港以来、外国人が住んでいた居留地は整備が十分でない、今で言えば、欠陥住宅地です。 幕府が湿地帯をわずかに地ならしをしただけで横浜に開港場を建設したことに、保健衛生に関心の高い外国側は 強い不快感を示していました。

火事にあったら建てさせない、新居留地ができても、簡単な造成では外国人は借りない、この二点がポイントです。

 

  防火遮断帯の一環としての公園と日本大通り

田中
大火焼失区域図
大火焼失区域図
中央上やや右に火元の*が記されている。その左手が港崎遊廓一帯 『ジャパン・ヘラルド』(1866年12月1日)から 横浜開港資料館蔵
第二回地所規則が設定された二年後の慶応二年(一八六六)に大火があった。日本人町から火の手が上がり 居留地まで燃え移る。遊廓は焼けてしまったので、約束どおりおしまいになり、関外へ移転する。

この大火で居留地も随分焼け、外国人が日本に来て着々とつくってきた財産が一夜にして無くなった。これは何とか 防火対策を立てなければというので、防火遮断帯の一環として、公園と日本大通りをつくっていこうということになった。 この設計をしたのがブラントンです。

篠崎 当時の居留地の建物は木造だったんですか。

田中 イギリスの外交官として横浜にいたアーネスト・サトウも火事で所持品をほとんど失いましたが、彼が書いた 『一外交官の見た明治維新』にこの大火の記述もあり、石造の倉庫が耐火力がなかったと書いてあります。恐らく 当時の木骨石張り、骨は木で、石が張ってあった建物だったんじゃないでしょうか。

こうして大火の約一か月後に第三回地所規則(慶応の約書)が結ばれます。遊廓の跡は、防火遮断帯として 外国人と日本人の双方で使う公園にしよう。それに合わせて日本大通りもつくって港まで通そうという案にまとまる。

そのほか、きちんと造成された居留地にしてほしいとか排水も全部完備してとかが、そのなかに入ってくる。

取り決めがあった慶応二年の後、まもなく明治維新になり、明治新政府がその約束を実施していくことになる。 明治三年ごろから設計の打ち合わせが始まりますが、交渉は難航したようで、明治七年に着工し、明治九年にオープン します。西南戦争が起こるのが明治十年なので、この公園ができたころは、日本の国内もまだごたごたしています。



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