■『有鄰』最新号 | ■『有鄰』バックナンバーインデックス |
平成13年1月1日 第398号 P3 |
|
|
目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 横浜公園とスタジアム (1) (2) (3) |
P4 | ○古文書にみる相模野の女たち 長田かな子 |
P5 | ○人と作品 北方謙三と『水滸伝』 藤田昌司 |
|
座談会 横浜公園とスタジアム (3)
|
|
|||
篠崎 | 大正十二年の関東大震災のときに横浜公園に逃げて、市民の方々が相当助かったそうですね。
|
||
田中 | いろいろ話がありますが、一つは水道管が破裂して水浸しになったから助かったと。東京の本所の陸軍被服廠跡は横浜公園とほぼ同じ面積で、そこへ大勢の人が逃げ込んで、三万八千人が焼死しています。当時、横浜のこの辺りには十三万人が住んでいましたが避難できる公園はここしかなかった。しかし横浜公園の場合は、五万人前後の人がぎゅうぎゅうに詰まって助かった。
当時の資料によると、水は深い所で一・二メートル、浅い所で四十五センチあったそうで、その水に身体を浸して熱気をしのぐことができた。それから大きな木の樹陰で助けられたんじゃないか。私が読んだ本では、三時間で一杯になったと。だけど、五十人ぐらいしか亡くなっていないので、そういう意味で、横浜公園は横浜の命の恩人です。 |
||
公園が災害に有効であることを市民が実感
|
|||
篠崎 | 関東大震災の横浜の被害はひどかったようで、横浜公園に入れなかった人が、堀割の川にたくさん浮いていたという話もありますね。
|
||
堀 | 堀割の川にあったはしけみたいな船で逃げた人も結構いるんですね。 |
||
田中 |
市民は目の前で、公園は災害に有効であると、実感としてわかったんですね。 当時、市民公園としては、掃部(かもん)山と横浜公園が主なものです。掃部山は特に木が多くて安全だった。 両公園とも災害に効果があったということで、震災後の復興計画では、公園をたくさんつくるプランをたてます。また、横浜公園に逃げた方々が感謝の気持ちでお金を出し合ってもいるんです。 その音頭をとったのが忽那(くつな)惟次郎さんたちで、公園の復興にあたり木を植えた。そして昭和四年に、復興の植樹記念の碑の除幕式が公園でおこなわれました。当時の有吉忠一市長が、この植樹のいわれを記念碑に記しています。 |
||
野外音楽堂と野球場として復興
|
|||
篠崎 | 関東大震災で横浜はほとんど壊滅しましたけれど公園はどういうふうに復興してくるんですか。
|
||
堀 |
もう一つは、公園は、今もそうですが、文化施設が押しつけられやすい場所なんです。施設でいうと、横浜市の図書館の建設構想が震災前にあって、現在の中央図書館になっていくんですが、その最初の用地は、横浜公園の、中区役所のちょうど向かいあたりが想定されていました。しかしそれは採用されず、図書館は野毛に建てられた。そういう流れのなかで、震災復興の一つとして野外音楽堂をつくる。 グラウンド関係でいうと、野球場ではなく陸上競技場みたいなもの、四百メートルグラウンドを描いたような絵も一時期あったようですね。それが最終的には野外音楽堂と野球場という形に落ちついたようです。 |
||
篠崎 | 震災復興の絵はがきによりますと、野球場は鉄筋二階建てのスタンドを備えています。昭和四年に完成、最大収容人数は九千人で、そこでハマの早慶戦といわれる横浜高工対横浜高商戦がおこなわれたそうです。
|
||
昭和九年に大リーグ・オールスターチーム来日
|
|||
篠崎 | 戦前、大リーグが来たときには横浜公園の野球場で試合をやっていますね。 |
||
鶴岡 |
特にルースは二本も打ち、一本は場外まで飛んだ大ホームランだった。翌日の横浜貿易新報(現・神奈川新聞)の見出しには、『本塁打の雨に「凄げえなあ」の繰言』と出ています。試合の結果は、大リーグチームが全日本チームに十八戦全勝しています。 この時、日本は初めて職業選手による全日本チームを編成したのです。全日本チームには、三原脩、苅田久徳、水原茂、沢村栄治、スタルヒンらがいました。 この大リーグ・オールスターチームの来日が、日本のプロ野球誕生の契機となったといわれています。 |
||
|
|||
篠崎 | 昭和十六年に太平洋戦争が始まると、野球場も軍の施設に利用されるんですね。 |
||
田中 | 記録によると外国兵の捕虜収容所に一時使われた。それから野球はおこなわれず、内野は市民の集会所に、外野は戦時農園になったとあります。
|
||
篠崎 | 昭和二十年の空襲で横浜の中心部は焼け、敗戦後は横浜公園も進駐軍に接収されますね。 |
||
鶴岡 |
|
||
堀 | 進駐直後の昭和二十年十月十六日に、ダニー・ケイが慰問で来て、球場の中につくられた特設ステージでショーをやっている映像がアメリカに残っています。観客は進駐軍の兵士たちです。
|
||
篠崎 | 球場は進駐軍の専用で日本人はオフリミットでした。今でも覚えているのは夜空に、昼と見紛うような照明が光り輝いていた光景です。
|
||
田中 | 球場に照明施設がつくられ、プロ野球史上初のナイターの試合が、ここであった。二十三年八月の巨人対中日戦だったと思います。
|
||
篠崎 | 昭和二十七年に横浜公園が接収解除となり、横浜市に返還され、球場はその年五月に平和球場と改名されますね。
|
||
|
|||
篠崎 | スタジアムの建設にはご苦労されたそうですね。 |
||
鶴岡 | 僕は、青年会議所の理事長をやっていて、任期の後半の昭和五十一年でしたが、当時の飛鳥田一雄横浜市長が横浜にプロ野球球団を誘致したいと計画され、創和設計の吉原慎一郎さんから平和球場の場所に、プロ野球の使用に耐えられるような球場を建てたいという相談があったんです。
そのときの構想が、二十億円の資本金をつくって建設費が四十億円というものでした。それでお金を集めなければいけないと。 横浜青年会議所のOBで、当時、ヤクルトの社長とヤクルト球団のオーナーをされていた松園尚己さんにもいろいろ教えていただきました。フランチャイズ制は野球の権利関係みたいなものがたくさんあるんです。 約束では川崎が本拠地の大洋ホエールズは横浜に移ると言っているが、本当に移ってくれるんだろうか。四十億円を使っても、実際に商売として成り立つのか。その辺を短期間で全部リサーチした。 それで結局、市民の球場にしようということで、五万円五千株、二百五十万円を一口にして、オーナーズクラブをつくり、シートを四十五年間与えるというプレミアムみたいなものをつけて募集をしたんです。八百口、二十億円を集めるという計画です。 |
||
篠崎 | いかがでした。 |
||
鶴岡 | 二週間で集まったんです。昭和五十一年は、四十八年のオイル・ショックの後で景気が悪くて、みんなは横浜でお金は集まらないとみていた。青年会議所なんて、経済界でいえば二軍で、ファームですよ(笑)。こっちも若かったから、それいけ、やれいけとやった。
もちろん中小企業とか、後からは大企業も随分応援してくれました。飛鳥田市長も企業を回って説明していましたからね。一般の市民から、法人も含めてですが、結局二週間で集まった。経済界の人のセンスと、市民感覚の違いがあるんですよ。 |
||
市民のほかに横浜市やテレビ局なども出資
|
|||
鶴岡 | それで、市民から集まったというので、横浜市も二億円出してくれた。飛鳥田市長は政治家としてすごくセンスがある人ですから、横浜市民がこれだけお金を出してくれたんだから、行政としてもお金を出して、役員も送って、市民の株を守らなきゃいけないという大義名分で議会も通した。
そしたら大洋漁業(現・マルハ)、それからTBSとフジ・サンケイグループ、もう一つ、専属中継という絡みでテレビ朝日が二億円ずつ出してくれた。だから、資本金三十四億八千万円のうち、二億円が一番の大株主なんです。 すると、逆に、株主総会で問題になった。というのは、二十億の公募にそれ以上集まったわけですから、増資になるわけです。我々に断らずに勝手に増資をやるとは何事だという話が出た。 |
||
公園内のほかの建物はすべて取り除いて建ぺい率をクリア
|
|||
鶴岡 | 建ぺい率の問題もありました。 |
||
田中 | 都市公園法で公園内につくる建造物は、全面積の二パーセント以下と制限されている。ただし運動施設などの場合は、これにプラス五パーセントまでの特例がある。いわゆる建ぺい率制限で、最大七パーセント以下にしなければならない。
|
||
鶴岡 | 横浜スタジアムは、観客席の外側へ張り出している部分や一階駐車場、さらにグラウンドを広域避難所に指定して、建造物としての面積から除外された。それでスタジアムの建ぺい率が、公園の全面積の六・九七五パーセントになり、この問題は解決できたんです。ですからほかのものは全部取り除かないと、あんな苦しい設計でつくっても、法規的にクリアできないので、公園の中にあった武道館やチャペルセンターなどは全部取り除かれた。
|
||
突貫工事で五十三年のシーズンに間に合わせる
|
|||
篠崎 | 「横浜スタジアム」としてオープンしたのが昭和五十三年四月ですが、そのときには飛鳥田市長は退陣されていらしたんですね。
|
||
鶴岡 | 五十三年に社会党委員長になって退任されましたが、始球式は飛鳥田さんがやられました。横浜大洋ホエールズと読売巨人軍がこけら落としをやった。
横浜へ移転する決断をしてくださった大洋ホエールズのオーナー、中部謙吉さんは五十二年に野球場を見ないで亡くなられたんです。 |
||
篠崎 | 工事にも、ご苦労がおありになったそうですね。 |
||
鶴岡 |
|
||
篠崎 | 横浜公園は、今お話しいただきましたように、横浜市民にとって、大変身近な公園です。この公園の持つ意味とか、将来についてはいかがでしょうか。
|
||
田中 | この公園は横浜の喜びも悲しみも知っています。震災や開港百年祭など、横浜の歩みが全部刻まれている。遊廓の時代から含めて、百四十年の開港都市の歴史がここにある。それから、やはり野球ですね。日本の野球を語るうえで欠かせない。そういう公園は日本のどこにもないと思う。
|
||
堀 | 公園の本来的な姿から見ると、現在はかなりスタジアム化して、あとは通路になっているという感は否めませんが。ただ、スポーツグラウンドは当初から横浜公園にあってそれを継承しているわけですから、横浜ベイスターズには、これからも頑張っていただきたい。(笑)
|
||
鶴岡 | 今、収容人員は三万人なんです。もう少しうまく増設することができればいいと思っているんですが。
たとえば日本大通りを横浜公園からつながった公園にするとか、そういう方法で、あと五千人か一万人ぐらい多く収容できればいいなと思っています。 |
||
篠崎 | どうもありがとうございました。 |
たなか よしお |
一九三一年東京生まれ。 |
著書『ヨコハマ公園物語』中公新書819円(5%税込)、共著『神奈川県建築史図説』神奈川県建築士会 |
つるおか ひろし |
一九三九年横浜生まれ。 |
ほり たけよし |
一九四九年東京生まれ。 |
共著『道と川の近代』山川出版社4,995円(5%税込)、『横浜の近代』日本経済評論社4,725円(5%税込)、ほか。 |