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有鄰


平成13年3月10日  第400号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 北斎・広重と東海道 (1) (2) (3)
P4 ○ランドマークが見た神奈川の100年取材記  谷川泰司
P5 ○人と作品  北村薫と『リセット』        藤田昌司

 座談会

北斎・広重と東海道 (2)


 

  東海道の屏風絵は寛永期ごろの古い情景が多い

鈴木 東海道の屏風については、ある研究者は、制作年代は古くないのですが、情景としては寛永期(一六二四~一六四四) ぐらいの古いものが非常に多いといいます。

小林 情景として定着するわけですね。

鈴木 そうです。例えばお城の城郭が何層になっているかとか、多摩川に橋が架かっているかどうか、そういうのを データにして勘案すると、どうも、古いんですね。

それがずっと踏襲されるんじゃないか。寛永期は家光の代で、幕藩体制というか、参勤交代や大名統制や庶民の統制 まで行き届いた時期で、そういったところに回帰する。

永田 それと、大名家の巻物にしても大変手の込んだのがあります。とても一般の庶民では買えないような装丁、 描き込みのすごいものがあるから、どういう所に需要があったのか、興味があります。

小林  州の大名が大坂まで出る瀬戸内海の屏風絵があります。結構面白く、山などは船から見た景観なんです。 だから、高い山などのランドマークを楽しむように、港港に線が引いてあったりする。後の回想で、ああいう景色だったなと 実感できるようなのが屏風絵でもあるわけです。

お城や橋とかの情報を庶民も求めるような時代になってくるには百年くらい、さらに宿駅周辺の風俗などもっと情景が 確かめられる図になるまで、二百年かかったんでしょうね。

 

  東海道の浮世絵は『名所図会』や『膝栗毛』の影響を受けて制作

篠崎 歌麿や写楽が活躍する寛政年間(一七八九~一八〇一)に東海道の浮世絵で注目すべきものがありますか。

永田
「東海道名所図会」
「東海道名所図会」
寛政9年*
寛政ごろは少ないです。師宣以降、東海道が盛んに描かれるのは、『東海道名所図会』が寛政九年(一七九七)、 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の初編が享和二年(一八〇二)ですから、それ以降でしょうね。

師宣のものには、見る人の側に絵図の楽しみ方、勉強の仕方があったと思うんです。しかし、その後の東海道は、 『東海道名所図会』や『東海道中膝栗毛』とかに影響を受けて出てきた東海道で、弥次喜多のような旅の風俗が中心 になってきます。

ですから、東海道を扱ってはいても、旅の景観というよりも旅の風俗で、師宣の時代と、その後の寛政末、享和ごろから 出てくる東海道は、少し違う扱いとして出てくる。

鈴木 やはり、街道が次第に整備されて庶民に開放される。軍事や儀礼の道から、庶民の旅の道に変わってきている。つまり 江戸庶民の経済活動が活発になり、東海道を上下する人も増える。それを見込んで道中記や地誌などの出版がさかんに なってくる。しかも庶民が対象ですから仮名まじりの本ですね。

永田 昔も今も、日本は出版の盛んな国です。だから浮世絵は今の出版と同じで、版元という商業資本が入って出版されるから、 その時代の思想や主張や嗜好を敏感に反映しなければ、出版しても売れない。非常に出版が盛んだということは、そういう 点でも当時の庶民はレベルが高かったと思います。


北斎は景観よりも旅の風俗を重点に描く

篠崎 師宣から約百年後に北斎が活躍し始めるんですね。

永田 『東海道分間絵図』の伝統は現実に北斎の東海道が描かれたころにも残っています。例えば北斎の東海道のシリーズで、 完結後に表題をつけたものがあり、「東海道駅路図」というタイトルは、そういう絵図みたいなものを意識していること は事実です。

それからもう一つ面白いのはそういう絵図の最後は、文政元年(一八一八)の北斎の『東海道名所一覧』という大きな地図で 鳥瞰図です。あれは人物まで描いてありますからね。

小林 あれは面白い。一枚の版画に、東海道五十三次を全部入れちゃう。まるで飛行機からでも見たように。すごい企画力ですね。 あれは房総の方のものもありますね。

永田 ええ、『総房海陸勝景奇覧』ですね。

 

  描いた場所がわかる名所絵とは違うものを目指す

永田
北斎「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」
北斎「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」
天保2年頃*
北斎は一口では言いにくい絵師だと思うんです。広重の東海道を描いたシリーズでは、そのほとんどは名所絵で、 風俗画であっても名所絵の持ち味も加味してつくられたシリーズだと見るべきだと思う。北斎の『冨嶽三十六景』と 広重の『東海道五十三次』を同じ名所絵、風景画だというので比べると、北斎の『冨嶽』は、明らかに名所絵と違う ものを目指している部分がある。

例えば「山下白雨」で雷が鳴っている。あるいは「凱風快晴」はどの場所から富士を描いたかわからない。「神奈川沖浪裏」の ように海上から見ているものもある。『諸国滝廻り』で滝を描いていますが有名な滝だけじゃない。そういう点で、名所絵と いうものと少し外れた所でつくっている。

広重の東海道は、その後、名所絵の広重と言われたように、東海道に限らず木曾街道などのシリーズもやはり名所というものを 強く意識しながら描いている。ここが、北斎の特徴、広重の特徴というので大きく分けられると思う。

 

  北斎が東海道を描いたのは広重よりも約三十年前

永田 北斎が集中して東海道を描いたのは一八○○年初頭で、そのころに北斎は、今確認されているものでも、七種類の 東海道を描いている。これはその時代としてはダントツに多いんです。

七種類の作品に一貫して共通していることは、景観よりも旅の風俗に重点を置いたこと。広重の東海道の画期的な ところは風俗プラス名所絵としての景観を入れたことですね。ただし、それはあくまでも時代的な好みによるものだと 解釈すべきです。つまり、庶民が要求しないものは出版しても売れないから、七種類も出版されたということは、 明らかにそういう旅の風俗に庶民の興味が向いていた。

それともう一つ、広重の東海道が出版される。それは竹内という非常に小さい版元と大きい版元が一緒に出版しますが、 少なくとも私たちが知る限りでは、東海道五十三次を描いた作品で、大錦判といわれる大きい浮世絵の版画の一番 最初のものが保永堂版です。大きいということはお金がかかる。お金をかけても、そういう景観、風俗に目が向いてきた 時代であった。北斎の時代は小判、中判とか非常に小さいものだけに目が向いていた。つまり、北斎が東海道を描いた時代と、 広重が東海道を描いた時代の差は約三十年あるわけで、やはりそこに時代差があることは明らかだと思うんです。

 

  理科系の目で風景をとらえた北斎

篠崎 北斎は何度も名前を変えていますが、一番最初の「春朗」のころは、浮世絵師の常套というか、美人画や役者絵を 描いていた。北斎が風景版画に目を向けたのはどういう点からですか。『冨嶽三十六景』は、永田さんのご著書では、 名所絵ではなく、別なところに出版の意図があったと書かれていますが。

永田
北斎「品川(川崎へ二里半)」
北斎「品川(川崎へ二里半)
享和4年*
それは非常に難しいんですね。風景版画という言葉が正しいかどうかは別にして、仮に北斎が『冨嶽三十六景』で 目指したものが風景版画で、そうじゃない普通のものが名所絵だとすれば、北斎はずっと名所絵を描いてきたんです。 近江八景、江戸八景というような小さい名所絵です。

しかし、これは私の説ですが、北斎の『冨嶽三十六景』や『諸国滝廻り』は、本当に風景版画として出したかどうかは 疑問だと思う。なぜかと言うと、富士山なら富士山が見る場所や季節や気象条件でどう変わるか。『滝廻り』だと、 落下する水がその条件によってどう変わるか。同じものを幾つも追求する。つまり北斎の興味はそういうところにいって いるんですね。どうしてそういうものが生まれてくるのか、はっきり言えませんが、明らかにそれ以前の名所絵と、 北斎がその後目指したものは違うと思う。 

篠崎 理科系の頭脳だったんですかね。

小林 そうですね。ですから、広重のほうは名所絵的だというのは、名所絵は古典文学的な伝統があり、そういう意味では 大変面白いですね。

北斎というユニークな目の働きが西洋人に非常にショックを与えて、西洋の画家たちが北斎に学ぶところが 多かったんでしょうね。

永田 『冨嶽三十六景』を出版した版元の西村屋与八の広告に「山水習ふ者に便す」ともあります。普通の絵本でも、 どこまで絵手本なのか、絵本なのか、読本みたいなものでも、絵手本に使っている例があるから、どういう作品でも 絵の手本になったんじゃないでしょうかね。 

小林 それと江戸時代は知的レベルだけでなく感性的レベルも非常に高かった。ほとんどの人たちが画家であり、詩人で あったというところがあり、俳句を読んだり、絵筆をとったり。いたずら描きで絵の上をなぞっているのなんか 随分ありますね。

 

  北斎と広重の二人が書画会で会った可能性もある

篠崎 北斎と広重は、実際に会ったことはあるんでしょうか。

永田 記録にはありませんが、会っている可能性はありますね。馬琴の日記なんか見ると、北斎が出席をして、広重も 出席している書画会のようなのを開いているから。

篠崎 年齢的には、北斎のほうが大分年上ですね。

永田 北斎のほうが三十七歳年上です。

小林 さきほどの話で、北斎の東海道物は人物の風俗に非常に関心が集まっている。北斎の浮世絵を見ますと、土地の 女性や男性もいますが、旅人が主人公の図が非常に多い。これは『膝栗毛』の影響で、その出版が終わるころに 東海道物が出る。

永田 『膝栗毛』は享和二年です。北斎の一番早いと思う作品は享和末から文化の初年で、『膝栗毛』の出版中に 出てくる。大当たりしたので、「それ東海道物」と始まっているんじゃないか。よく見ると、男性二人の絵が 結構出てくるんです。ですから、明らかに北斎の絵は十返舎一九の作品の影響を受けていると思うんです。


広重は文学的感性で心の琴線をかきなでる

篠崎 北斎の『冨嶽三十六景』が出版されたのが天保二年(一八三一)で、広重が東海道の浮世絵を出し始めたのが 天保四年(一八三三)ですが、北斎から刺激を受けて、広重は東海道のシリーズをやってみようという意識が あったんでしょうか。小林先生は広重がお好きなようですが。

小林
広重「東海道五十三次之内」神奈川 保永堂版 広重「東海道五十三次之内」神奈川 江崎版
広重「東海道五十三次之内」神奈川
保永堂版(左)と江崎版・行書(右)
硬軟と言いますか、二人の本質的な部分は随分違うようです。広重は浮世絵師の中でも特殊な出身です。安藤は武士の名字で、 少年のころから、貧しい武士として生活の資を得るために浮世絵を学んだようで、その幼少年期に受けた武家の教養を生涯 引きずっていると思うんです。

それが古典指向といいますか、文学的な名所に張りついている文学的な感性の層が厚くくるまっているわけです。それを 彼は非常にうまくわかりやすく、風景の幾重にも絡んでいる文学的な上皮を薄皮にして、それから目になじみやすく提供 しているので、見ている人たちはどこかなつかしく思える。期待する心の琴線をかきなでるような描き方を広重はしていますね。

北斎の場合は、永田さんも言われたように、自己表現というものに発想の核がある。もちろん北斎も知性豊かな人ですから、 そういうことを承知していながら、むしろそういうものから逃れていく。

広重のほうは寄り添っていく。ですから、広重が提供する版画には、いろんな人が思いを入れやすいというところがあると思う。 そのあたりを江戸の版元たちはうまく使ったんじゃないか。同じような商品を出したってぶつかり合うわけですから。どちらかと 言えば、年上の北斎の方が革新的で、若い広重の方が親古典的というか、古典に親しむような中で仕事をしていたかのように 受け止めています。

 

  広重の東海道には二十数種類のシリーズが

篠崎 広重の『東海道五十三次』のシリーズもベストセラーだったようですね。

永田 売れたというのは、版が非常に磨滅したものが残っている。それが一番客観的な証拠です。どのぐらい売れたと いう記録はありません。『冨嶽三十六景』も広重の東海道も、爆発的な人気があったにしろ、記録として残っている ものはほとんどなく、それは不思議なことなんです。

小林 永田さんに一度聞いてみたいと思っていたんですが、有名な赤富士の青富士版があるんですね。ある人が、これは 版が磨滅したから青い刷りをしたんじゃないかと言うんですが、そういうことは言えるんですか。

永田 言えます。青だけのは本当に後の後のものです。

小林 輪郭線がなくなるぐらい刷って、それで発想の転換で赤富士を青富士にする。そういう解釈でいいわけですか。

永田 はい。北斎の富嶽や広重の東海道はロングセラーです。『北斎漫画』は、今だって刷っていますから。印刷形態は オフセットになっていても。

篠崎 広重の東海道のシリーズは何種類ぐらいあるんですか。

小林 鈴木重三先生の『広重』では二十数種類報告されています。保永堂版のほかに、狂歌入り、行書、隷書などさまざまです。 道中双六では東海道が一番定番だから、双六絵を入れたらすごい数になるでしょう。



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