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有鄰


平成13年3月10日  第400号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 北斎・広重と東海道 (1) (2) (3)
P4 ○ランドマークが見た神奈川の100年取材記  谷川泰司
P5 ○人と作品  北村薫と『リセット』        藤田昌司

 座談会

北斎・広重と東海道 (3)



浮世絵は実景描写か−神奈川県立歴史博物館特別展に因んで

篠崎 浮世絵は実景の描写かどうかという問題があります。北斎の『冨嶽三十六景』の場合はどうなんでしょうか。

永田 写生のものもあるでしょうし、写生じゃないものもあると思う。実景を見て描くことが、当時、どれだけやられたかは疑問です。

小林 北斎の『冨嶽百景』には、画家が富士を写している絵があります。江戸時代の後期、十八世紀の半ばごろから写生とか、 写真という言葉に日本の画家たちは敏感になっています。だから、風景画とか名所絵が、ある独立した画面として提供されていくように なったら、提供される側は、本当らしくあってほしいと思う層が非常にふえていると思う。ですから、実際、写生している部分がかなり あるはずだと思うんです。

種本を写すことと、実際の景色を写すことを、彼らは同じ意識のレベルで操作していた。だから、種本があるから写したのでなく、 種本をもとに本物らしく描いている。それだけは確かだろうと思います。

 

  広重は実際に京都へ上って『五十三次』を描いたのか

篠崎 昨年十一月の朝日新聞に「京都に行かず京描いた広重」という見出しで「八朔御馬献上」の話が紹介されましたね。

小林 その記事が掲載された日に、私は栃木県の馬頭町で、広重のシンポジウムの司会をやっていました。

三代広重が、三代と言っても直接の弟子ですが、先生に聞いたという記録が残っています。天保初年に幕府の内命を得て、 広重は東海道の旅をし、八朔御馬献上の行事に参加したという。そんなデータも紹介しながら、皆さんに意見を言ってもらったんです。

広重は、種本を利用した絵が随分あるから、という人もいれば、写生したんじゃないかという人もいる。それで私は「永田先生は、 五分五分ながらも、おそらく広重は京都には行っていないでしょうと言われた」と紹介した。

そして、シンポジウムを終えるに当たって、「私は、実は信じているほうなんです」と紹介したんです。保永堂版の 『東海道五十三次』のなかに、よく大名行列のような行列が描き込まれているし、馬に御幣などもつけたそれらしい描写もありますからと。 そうしたら新聞の影響力は、やっぱり強いですね。「広重が保永堂版を描く前に、東海道の旅をしたと思う人」はパラパラで、 「行かなかったと思う人」はワーッと大勢。

永田 ただ、三代広重が言ったというのは、『浮世絵師歌川列伝』に載っているだけですから、行ったとも行かないとも、 まだ言えない。

 

  保永堂版の後には木曾を取材して四国の丸亀へも

小林 大英博物館に、もっと後のものだろうけど、スケッチ帳が残っていて、それにはかなり遠く、四国の丸亀まで行っている。 それがスケッチだとすればですよ。私はスケッチだと思っている。

それは保永堂版を出す前とは言えないんです。木曾街道の取材に行って、その先の関西の旅行をして、東海道を帰ってきた と思うんですね。でも保永堂版の前に行ったかどうかは、はっきり言えるデータは何もないですね。

篠崎 『武相名所旅絵日記』とか、広重自身は確かに何度も旅に出ていて、保永堂版より後のものには、実景描写もある、 ということなんでしょうか。

小林 と思いますけどね。ただ、江戸時代は趣向を楽しむ時代ですから、いろいろな遊びがあるわけです。その遊びを、 どこで遊んでいるかを、絵を見る人たちは楽しむ余裕もあったわけで、実際にリアリティーをどこまで求めたかですね。

そのとおりの写真という、シーンを写すというリアリティーです。一応ベースにシーンを本物らしくしてどこまで 遊んでくれているか。その思いを共有し合う、よき読者たちがたくさんいたと思うんですね。


歴史資料として使える浮世絵

篠崎 今、実景描写もある、というお話がありましたが、浮世絵を歴史資料としては使うのはどうなんですか。

鈴木
広重「東海道五十三次之内 平塚」 保永堂版
広重「東海道五十三次之内 平塚」
保永堂版* (右にあるのは傍示杭)
広重「東海道五十三次之内 藤川」 保永堂版
広重「東海道五十三次之内 藤川」
保永堂版* (馬に御幣が付いている。
中央は傍示杭、左右に見付を描く)
難しいところです。例えばその典型として、宿場の背景に街道の傍示杭(ぼうじくい)はよく出てきます。これは当時の人にとっては 当たり前のことで、境界だから、宿の入口か出口でしょう。それが一本立っていることで、ここは宿場ということがわかる。 それがないと、保土ヶ谷にならないし大磯にならない。そういうものを入れ込んでいることは、歴史資料として使える。しかも 寸法は人間の背丈よりかなり高い。

あるいはまた、見付(みつけ)というのがあります。上方見付、江戸見付と宿の入口につくられるものですが、近世後期になると、 道路の拡張とかでなくなる。ところが、幾つか見付を実際に描き込んでいるのがあって、非常に参考になる。

石薬師あたりの宿を描いているのに見付がきちんと描かれている。それは非常に規模が大きくて、下にしっかりした石を置いて、 その上に土を盛り、さらにその上に柵を置いた。矢来でしょうか。かなりしっかりしたものです。

家康の段階ですが、街道ないし宿は、いわゆる軍事施設的な性格が非常に強い。そういったものが絵によって残されているわけです。

 

  絵空事の部分はあっても、それほどかけ離れていない

小林 保永堂版の藤川の宿もそうですか。

鈴木 はい、そうです。

永田 東海道に限りませんが、浮世絵は当時の出版物ですから、絵空事の部分があっても、さほどかけ離れた大嘘は描いてない。

ですから、浮世絵は東海道がどうであるかというだけでなく、例えば歌舞伎は考証できるし、あるいは幕末の浮世絵になると、 出版年のわかるものもあります。すると、何年の何月に江戸の人は一番何に興味を持っていたのかがわかる唯一の絵画なんです。

確かに景観は、実際に現地を見ないで、違うかもしれませんが、旅の風俗とかが持っている雰囲気ですね。ですから、 例えば広重が見ていない場所を描いたものは、よく名所図会からとっていると言いますが、それは絵師の良心としては、 その中から忠実に持ってくるのは当然のことでしょうし、そういうものから忠実に持ってくること自体、それほどかけ離れて違いのある ものはないと思うんです。

 

  広重の絵からは問屋場の風景がよくわかる

鈴木 近世の街道というと当然、助郷とか、制度的に人馬の徴発をしますね。そのときに宿には必ず問屋の施設があるんです。 これは余りイメージのつかめないところがありますが、広重の絵を見ると問屋場の風景がよくわかるんです。『東海道宿村大概帳』 を天保ごろに幕府が編さんしますが、これは幕府がつくったデータだから、非常にきめ細かい。例えば戸塚宿には宿役人が何人いるとか、 馬指(うまさし)が何人いるとか、そういう人数まで書き上げている。

近世の交通の中で問屋はどういう人間がどんな仕事をしているか。それは文書によってわかりますが、絵によって深く 理解ができる。

永田 そうなんです。私も文献に偏りますが、そういう点、絵画で見ると非常にイメージしやすい。それから、浮世絵 あるいは近世初期の風俗図の非常に面白いところは、お寺とか権力のある場所のものはよく歴史的に残りますが、 例えば京都の扇屋さんとか筆屋さんなどの店先の様子は大体残らない。そういう点で非常に貴重な資料ですね。

 

  “連なり”を楽しむ日本人の心をとらえた企画

篠崎 仮に京都まで行こうとしたら、まず折本とか浮世絵などを買って、調べながらという感じだったんですか。

小林 それと、旅に行ける人はやはり限られていて、家を離れられない女性や一般の方たちに道中絵の需要が非常に高かった。 追体験できるから。今のテレビの紀行番組みたいなものですね。

永田 そういう人が家で広重の東海道物を見ると、憧憬の念がもっとわいてくるでしょうからね。

小林 日本人には、俳諧や連歌とか連なっていくものの楽しみ方があります。懐石料理で少しずついろいろなものを食べるように、 日本橋から三条大橋まで、晴れの日もあれば、雪の日もあれば、海上も行ったり、留女にそでを引っ張られたり、そういう連なり。 シリーズとして楽しんでいることは道中絵の重要なファクターだと思うんです。それは北斎の人物を主体としたものにもあります。 一つだけじゃなくて、次の宿場でどう描いているか。そのへんが道中絵、東海道物が人々の心をとらえる大変いい出版企画だったん じゃないでしょうか。


江ノ島や金沢八景など脇往還の浮世絵

篠崎 浮世絵には、江ノ島や金沢八景などの脇往還もたくさん描かれていますね。

永田 江ノ島行きとかは、江戸の人は楽しみですよ。だから七里ヶ浜あたりから江ノ島を見る図とか、浮世絵にもいっぱい 出てきます。

小林 江戸から江ノ島、鎌倉を回ってというのは、口実としては神様や仏様の参詣ですね。単に観光じゃなくて、お参りに 行く。江戸の人たちは遊び上手で、神様、仏様をうまく使っていますね。

鈴木 江ノ島の弁天様は芸事の神様でもあり、女性の参拝が多いんですね。

小林 そうですね。三泊、四泊とか数日で行けます。

 

  鎌倉を描いた浮世絵が少ないのは版元への遠慮か

篠崎 脇往還を描いた浮世絵では、鎌倉は意外と少ないような気がしますが。

鈴木 ええ、どうして鎌倉が画題にならないのか不思議で。広重は『旅絵日記』には鎌倉のスケッチを残しているんですけれども。

小林 「忠臣蔵大序」はよく描かれるけど、当時の鎌倉で画題になるのは七里ヶ浜ぐらいですね。ご利益があんまりなかったからかな。(笑)

鈴木
北斎「鎌倉江ノ島大山新板往来雙六」 (部分)
北斎「鎌倉江ノ島大山
新板往来雙六」
(部分) 天保2年*
決して人気がなかったのではなく、逆に鎌倉は非常に人気のある所だった。私の推論ですが、鎌倉は墨刷りの案内図がたくさん残っていて、 発行している人は鶴岡の領民なんです。中央の版元がそういう人に、遠慮しているところがあるのかなと。それと、 地形的な問題あるいは自然環境が風景画にならないということもあると思います。

小林 単に浮世絵だけでなく、江戸時代はあまり絵の題材にならないですね。洋風画家の司馬江漢が、七里ヶ浜から 江ノ島の方角で随分描いている。鎌倉の方を見ていない。

永田 大仏様がちょっと出てくるくらいですね。

篠崎 北斎の『鎌倉江ノ島大山 新板往来雙六』に大仏の絵がありますね。

永田 柳亭種彦が選んで、絵をつけたのが北斎です。

鈴木 刊行年を、永田さんが天保二年であると特定されたんですね。

永田 袋が出てきたので。袋には、大山の木製の刀と江ノ島の貝細工の屏風がデザイン化されているんです。やはり 大山まで含めた旅が一つのセットだったんでしょうね。

小林 北斎の戸塚宿を描いたものに、何か大仏風の絵がありますね。

鈴木 戸塚は鎌倉道が分岐するところですから。

小林 とすると、鎌倉の大仏が戸塚までお出ましになっているんですね。(笑)

 

  洋画の画法を取り入れた浮世絵は西洋人も親しみやすい

篠崎 北斎や広重は海外でも大変評価されていますね。

小林 浮世絵はいろんな意味でわかりやすい美術です。主題も表現もわかりやすい。外国人にとっては、主題はわかりにくいけど 自分たちの文化文明とは全く逆の方向を向いた異質なものだから、その興味が一つある。

洋画の画法を積極的に取り入れたのが、江戸時代の浮世絵です。鎖国の日本で、西洋の遠近法や、立体的に表現する 手法はゆがんだとり方をしていますが、それにしても全く東洋的な画法のレベルではなく、ワンランクアップして西洋的な 画法が折衷されています。それが彼らには親しみやすかった。そういう題材としてエキゾチックな人々の暮らしぶりや風景が見られる。

それともう一つは、色刷りの版画で工芸的な美しさを楽しめる。そのあたりがミックスされている。それと、コレクターにとっては、 東洋のものでも随分安い。

永田 それから数が多い。だから浮世絵、根付、鐔などが海外に行っている数はものすごく多い。数が多いということは、 手ごろで集めやすいこともありますね。

小林 大変な量です。欧米の都市の大きな図書館や美術館に行けば必ずあります。

西洋画を受けとめたのは浮世絵が一番早くて一七三○年代の頃からです。それから遠近法を活用した風景画が出てくるのは、 ちょうどまた百年後。何でも成熟というのは一世紀単位でできて、東海道の歴史が百年、二百年と積み重なるに従って、非常に質の高い 美術を生み出したのと同じように、西洋的な目でもって日本の風景を見直すことは、百年ぐらいの時間をかけて煮詰められたのでした。

篠崎 どうもありがとうございました。




 
こばやし ただし
一九四一年東京生れ。
著書『江戸の画家たち』ペリカン社2,447円(5%税込)、他。
 
すずき よしあき
一九四六年藤沢市生れ。
著書『近世仏教と勧化』岩田書院8,295円(5%税込)、他。
 
ながた せいじ
一九五一年島根県生れ。
著書『葛飾北斎』吉川弘文館1,785円(5%税込)、他。
 




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