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平成13年6月10日 第403号 P3 |
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目次 | |
P1 | ○嫌われては迷惑なダニもいる 青木淳一 |
P2 P3 P4 | ○座談会 横浜真葛焼−幻の名窯 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 亀田紀子と『明るい未来は自分で創ろう』 藤田昌司 |
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座談会 横浜真葛焼−幻の名窯 (2)
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空白の十年間は細工を施したデコラティブな作品
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篠崎 | その空白は埋まったんですか。 |
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田邊 | 三十何年間かかりましたが、半分以上は埋まったのではないかと思います。それで、ようやく発表しようかなと思った。
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篠崎 | その空白時代の作品は、やはりデコラティブなものですか。 |
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田邊 | デコラティブそのものずばりです。私が研究した作品の八割ぐらいが欧米にあったものです。カムバック運動もやって、大変苦労しました。それで、ようやく本を
出すことにしました。 |
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二階堂 | 薩摩焼をベースに蟹や魚や鳥、桜や桃や梅の彫刻的な装飾をたくさん施したところが、香山のほかとは違う初期の特色です。
薩摩焼は本家の薩摩、それから京都でも京薩摩といって薄い黄みがかった細かいひびがたくさんある、そういう釉をかけた薩摩焼に、赤とか金を使って、非常に細かい華やかな 模様をつけた。それがヨーロッパで受けていた。 ですから、香山もそれをベースにしますが、それでは物足りない。かつ香山は非常に腕の立つ人です。 しかも、幕末の京焼には、細工を施す伝統があります。薩摩焼の中に京焼の伝統の一つである非常にセンスのいい細かい細工を合わせる。そこにまた香山の創作意欲が旺盛に出てくると、田邊さんが たくさんお持ちのようなデコラティブなものになってくる。 そのピークが明治十年から十四年ぐらいまでだと思います。 |
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篠崎 | 田邊さんのご本では空白の時代の真葛焼が紹介されるわけですね。 |
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田邊 | そうですね。初期はかなりショックを受けるようなものですよ。 |
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万国博覧会と内国勧業博覧会で軒並み賞を取る
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篠崎 | 海外の展覧会にいろいろ出品していますが、そのときの評価はどうだったんでしょうか。 |
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二階堂 | 一番最初に香山が外国の万国博覧会に出品したのは明治九年のフィラデルフィアでの万国博覧会です。ここで装飾陶器で中島良慶と香山が賞を取ったんです。これが真葛焼と香山に世界が注目することになった最初の
博覧会です。これ以降、真葛焼は海外の博覧会のたびに常に好評で、賞を取っている。 明治六年のウィーン万博には香山は出していません。出品するとなると半年くらいは準備にかかるので、明治四年に庚台に窯を開いて、五年の暮れぐらいに作品にするということは、国内の審査もあるし、恐らく不可能 だったと思います。
これは第五回、明治三十六年まで続きますが、万博と内国勧業博覧会は日本の殖産興業の両輪としての働きを果たしていて、香山はどちらにも大活躍をしていくんです。 香山は、明治十年の第一回内国勧業博覧会で、たくさん出して賞を取る。十四年の第二回内国勧業博覧会でも受賞しています。 |
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二階堂 | ただ明治十四年頃からデフレが始まり、国内が不況で、売れなくなる。要するに、お金が出回らないから物価が下がり、産業が縮小する。陶器も売れない。それから世界恐慌が
明治十七年ぐらいから日本にも波及してくる。それが明治二十二年ぐらいまで続く。 あとデコラティブで細工が細かいので梱包もしにくい。輸送も大変で壊れやすい。それから余りデコラティブ過ぎて、美術というにはどうかという意見もあったり、いろんな要素が 絡み合い、明治十四年ぐらいから二十年ごろまでは香山は大変苦労します。 日本のほかの窯業地も景気後退で苦労する。そのときに真葛香山は、真葛焼を磁器に変えていく努力をしていることが資料に出てきます。 明治二十年以降は、土の陶器もつくりますが、磁器が大きくクローズアップされ、真葛焼の第二期というか転換期になるんです。 |
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篠崎 | 「色入藤図花瓶」のような、すべすべしているものになってくるわけですね。 |
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井高 | 陶器と磁器とは全く違って、陶器は生地の中に空気が入っていて、そのまま焼けるわけです。耐火度が強いんです。磁器のほうは耐火度が陶器より少し低い。結局、温度は陶器とほとんど変わりませんが、よく焼き締まるために、
生地自体がいわゆるガラス化する。ガラス化しないと磁器とは言わないんです。 ですから、磁器は水を張っておいても水を含まない。陶器は、釉がかかっていてもしみ込んでいったりします。 |
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二階堂 | 吸水性がある。 |
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田邊 | 初代はそれをぼやいていて、最近の磁器はガラスのように薄い。ヨーロッパの品物は二十枚並べてもガタガタ音はしないけど、日本のものはガタガタ音がするので、生地の改良が必要だと書いています。
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石灰質を含むヨーロッパの土は硬質陶器になる
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二階堂 | 結局、ヨーロッパのものは型で生産するから、寸法が全部そろうわけです。 |
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井高 | 大略的に、ヨーロッパ大陸は生地に石灰質を含むから硬質陶器になるんです。日本や中国の磁器をまねてやろうと思って、一生懸命調合の研究をした結果できたといっています。
釉をかけないで、千二百五十度ぐらいまで温度を上げて焼き締め、その後で釉をかけて千度ぐらいで焼く。そのうえに形成は、ろくろではなくて、鋳込み型なんです。 ですから、香山先生が向こうのものはぴしっとしていると言われても、作り方が違うわけです。それで外国が、日本の磁器はいいと。硬質陶器とは違うとわかっている人は東洋の 磁器は本当に欲しかったでしょうね。 |
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二階堂 | 土や石はもとのままで玻璃になってしまう。ガラスですね。ギヤマンをまぜるから透明にはなる、軽くはなるが弱い。で、技巧はみんな外国の模倣になってしまう。
とにかく陶器から磁器へというのは、真葛の大きな転換だったんです。 |
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中国磁器の再現を試み、「陶業ノ博士」と呼ばれる
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二階堂 |
ただ、磁器と言ってもいろいろある。例えば染付と言うと、青で模様のついた、例えば有田や砥部(とべ)など、染付は随分昔からあります。それでどういう色をつけるかとか。それから透明釉ではなく、色のかかった釉の磁器は、 中国では明・清の時代に非常に発達する。そういう研究は幕末から京都や瀬戸でも試みていますが、なかなか見事なものはできなかった。そういうものを香山はやりたかったと思います。 |
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ワグネルの釉を研究し、手法を取り入れる
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篠崎 | お雇い外国人のワグネルの釉なども香山は学んでいたんですか。 |
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田邊 | ワグネルはかなり尊敬し、ワグネルの手法は初期にはかなり入れています。 |
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二階堂 | 井高先生のお父様の歸山さんの義父に当たる友田安清さんはワグネルのお弟子筋です。ただ、ワグネルは磁器ではない。日本で一生懸命、生地と釉の間に模様をつける釉下彩(ゆうかさい)をやりました。
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井高 | ワグネルは間接的にいろいろやっています。例えば黒田政憲がワグネルの弟子で、その弟子の井高歸山を自分の所に引っ張るとかして、お弟子さんが大分入ってきている。
「色入藤図花瓶」の藤色や緑色などは、ワグネルの化学の知識があるとできる。これを色入と言っています。上絵ではなくて色入です。本焼きの色が入っている。ですから真葛先生の箱書きを見ると、 「色入」と書いてあって、色絵と区別しています。 |
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息子の半之助が初代香山を助ける
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二階堂 | ここで大事なのは二代香山になる息子の宮川半之助がお父さんを大変助けるんです。 |
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田邊 | 初期のものは、真葛香山と書いてあり、横に同じくひょうたん型をした真葛で半之助と書いてあるのがあります。襲名してからは正式に二代と言いましたが、初代の生前から、その名前を使っています。
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二階堂 | 二代が正式に襲名するのは大正六年。初代が五年に亡くなり、一年祭が終わって、二代襲名の披露の展覧会を庚台の自宅でやる。
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井高 | 商人としては初代のほうがすごい。お金もうけの腕は初代香山です。二代目に移してからも、宮中に招かれたり、芸大に行かれるときは初代が香山という名前で行ったから、
二人香山がいたわけです。 |
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二階堂 | 家督は明治二十一年ぐらいに半之助に譲って、自分は好きな茶器とかをつくってと書いてありますが、実態は違う。経営の名目上の社長は半之助でしょうが実際にはもちろんやる気満々なわけですよ。
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田邊 | 芸術家だから、お金の計算ができなかった人みたいです。初代香山の娘婿の恒助さんが帳場を最後まで持って、この方が、昭和三十六年に亡くなるまでは大体実権を持っていたみたいですね。
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二階堂 | 恐らく香山は一遍でき上がったものはもういいんです。次から次へといろんなものをやりたいというタイプの人ですね。
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田邊 | すごい。何をやってもうまい。ただ、初代が元気なときの半之助の動きはもう少し研究したいですね。
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土は買わず石で買って砕く半之助のこだわり
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二階堂 | 恐らく半之助経由で、西洋式の型もので物をつくるとか、西洋関係のものを半之助がかなり仕入れてきているんじゃないか。
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田邊 |
また「最近は窯変(ようへん)だと称して適当にまぜて、窯から上がってきたら、窯変だ、窯変だと言うけど、私たちはそんなことはしない」と。さらに、「私は最後までゼーゲルコーン(窯の中の温度を測る高温計)なんか使ったことはない」 とか、何から何まですべてこだわるということを言っています。昭和十二年頃です。昭和十五年に八十三歳で亡くなりましたから。 だから、石を粉にする水車をどこで回したのか。大岡川かな、なんて適当に思ったりしたんですが。 |
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井高 | 明治の焼きもの屋さんは、そういうことを言います。呉須(藍色顔料)でも、ちゃんと中国から取り寄せた支那呉須というものを使う。
私のうちでは中村東洸(先代)という京都の人と一緒に、先代の歸山が中国から取り寄せて、半分ずつ分けた。あそこは昔の中国の支那呉須を使っています。私の所もそういうのを使っています。 |
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二階堂 | ブルーなら昔からやっていますが、そのブルー以外の色をつけるのが大変なんです。 そういうことで明治の二十年頃には完全に磁器への転換ができたと思います。もちろん土の陶器も継続します。 |
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二階堂 | 磁器で真葛が世界的に改めて名声を得たのが、明治二十六年のシカゴ万博です。 「売約済」という張り札が軒並みつく。 |
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田邊 | 制作中から注文があるし、でき上がる前からお金をもらっているものもある。ダブルブッキングしたこともある。外国人は目がきくし、べらぼうに高価ですから。
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二階堂 | 横浜の三大英字紙の一つ『ジャパン・ウィークリー・メール』の経営者兼主筆のフランシス・ブリンクリーが、シカゴ万博に出した日本の陶磁器について長い記事を書いている。
その中で当然、香山に触れています。 品物ができる前から引きがあり、真葛の窯で窯出しを定期的にやりますが、みんな待ち受けるというんです。窯開きのときは真っ先に駆けつけてくる人がいて、パリやニューヨークへ売られていく。 |
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田邊 | 中には、高いからまけろと言った人がいたそうです。そしたら「結構です。差し上げます」と言った。すごいプライドですよね。そして見ている目の前で、窯を開けたら、気に入らないのは
ポカポカ割っている。これは高いはずだと。 そこに来るのもみんな一流の人たちで、彼らの目にかなうものだから、かなりグレードは高かったと思いますね。 |