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有鄰


平成13年6月10日  第403号  P4

 目次
P1 ○嫌われては迷惑なダニもいる  青木淳一
P2 P3 P4 ○座談会 横浜真葛焼−幻の名窯 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  亀田紀子と『明るい未来は自分で創ろう』        藤田昌司

 座談会

横浜真葛焼−幻の名窯 (3)


 

  ロイヤル・コペンハーゲンも真葛焼の前では青ざめる

二階堂 ともあれ明治二十六年は真葛にとっては、世界に再認識された記念すべき年です。明治二十年代は、ヨーロッパでも磁器の改良、釉の改良、それから釉の下にブルー以外のいろんな色を発色させるという工夫、これは世界的に競争になったわけです。 フランスでもそうです。

篠崎 ロイヤル・コペンハーゲンにも影響したとか。

二階堂
シカゴ万国博覧会美術館日本出品場
シカゴ万国博覧会美術館
日本出品場

東京国立博物館蔵
はい。『ジャパン・ウィークリー・メール』に、シカゴ万博の香山の作品について、ある人が書いてます。真葛の影響を一番受けているのはロイヤル・コペンハーゲンだと。これを見ていると、日本の影響、また真葛の 影響を受けて大変見事に見える。しかし、魔法のような真葛窯から出た作品の所に来ると、コペンハーゲンの製品はたちまちに青ざめてしまうと。

当時はちょうどジャポニスムがピークの時期ですから、日本のデザインや絵がどんどん欧米でまねられる。

そして逆に、明治の半ばぐらいになると、日本人がヨーロッパに行き、そこの磁器・陶器の実物を見るチャンスも相当多くなってくる。影響関係は相当あるわけです。


井高歸山−秘蔵弟子の一人

二階堂 明治二十九年に香山は帝室技芸員になります。陶芸で帝室技芸員になった人は、戦前までで五人しかいなくて二人目です。ですから押しも押されぬ大御所になって、いろんな 審査員もやる。宮中の御用も承る、献上品もつくる。海外の博覧会などでもどこに出しても必ず賞を取る。ただ香山は技術革新は常に怠らなかった。先代の井高歸山氏がその 関連で出てくる。

井高歸山は明治三十二年に淡路島の津名郡立陶器学校を卒業し、翌年に兵庫県の出石(いずし)陶磁器試験所へ技師として赴任する。それが最初の就職です。出石はすばらしい磁器を焼いた所です。

井高 出石焼は昔から有名でしたが、発展がなくて、何とか改良しようと友田安清が行き、いろいろ研究した。父も行って手伝いをやったんです。なぜ真葛がそこを認めたかというのは、白高麗という 真っ白な磁器を焼いた。

二階堂 真葛の資料を見ると、明治三十七年ぐらいに、真葛香山は出石の土を試しています。なぜ明治三十六年に初代歸山先生が横浜の真葛に招かれたかというと、磁器の改良のためですね。

井高 はい。友田所長と、京大工学部教授の細木松之介の紹介状で横浜に行ったんですが、昔の書類を見ると友田所長が、何でおまえは帰ってこないんだと書いている。

二階堂 引き抜いたんです。

井高 真葛香山先生の執念が、腕のある人を引き抜いてきたんだろうと思うんです。

父の歸山が横浜に来た明治三十六年頃、横浜の税関長を務めていた有島武が、野毛の月岡町に住んでいた。武には武郎、生馬、愛子、とん(里見)の四人の子供がいましたが、生馬先生が、 子供の頃に香山の工場を訪れたときの印象を書いています。

ちょっとご紹介しますと、「どういう関係からか、父は香山を愛し、親しく交際し、盆暮は勿論平生も往来していた。私も両親に連れられ太田の窯場に幾度か遊びに行ったのを 覚えている。小山のような登り窯の周囲に瀬戸物のかけらがざくざく散らばっていたり、出来あがった許りの作品が陳んでいたりしたのが別世界のような不思議な感情を起こさせた」 というものです。父の回顧展を三越で開いたときに書いて下さったんです。

二階堂 有島生馬さんは帰山先生のことを香山の「唯一の秘蔵弟子である」ともおっしゃっていますね。

 

  真葛窯の出張所の形で、軽井沢で三笠窯を開く

二階堂 そして明治三十八年には軽井沢の三笠ホテルの開業にあたって、経営者の山本直良氏(夫人は有島武の娘愛子)が、香山に、三笠焼をつくりたいから指導してくれというので、歸山先生が行かれるわけです。

井高 「白高麗十一面観音立像」は歸山の調合だと思います。少し黒っぽいから。

友田安清のほうの白高麗はちょっとクリーム色がかっている。それをやりたかったんです。初代歸山が、「僕と一緒にやったんだから、原料の出所はどういうのか教えてくれ」と言っても、だめなんです。 友田はちょっと姑息で、秘伝を出さない。真葛先生は結局、それができない。だから初代歸山が中に入って板ばさみになる。

田邊 ちなみに「白高麗十一面観音立像」は初代、「白高麗観音立像」は二代です。

井高
「白高麗十一面観音立像」
「白高麗十一面
観音立像」

田邊哲人氏蔵
結局はそういうことがあって、「おまえは役に立たないやつだ」と言っているところへ、軽井沢を開発しようという山本直良が、真葛窯を浅間山のふもとでやってくれないかと。そこで 「あいつを連れて向こうへやれ」と。というのは、その頃いろいろ修行していますから、窯のつくり方でも何でもわかっているわけです。それで出張所長みたいな形で浅間山に行った。 これは香山先生の先見の明です。というのは、普通だと真葛窯の徒弟を連れていかないといけない。ところが、歸山は淡路の陶器学校の同窓生をいろいろ知っているから「麓喜作君と 谷尻兵吉君、うちの窯を手伝ってくれないか」と連れて行き、三人ぐらいで始めた。香山先生はとても弟子をかわいがるんです。

当時の領収書があるんですが、ハイカラーのシャツとフロックコートの代金として二十九円五十銭まさに領収候也と書いてある。明治三十八年十一月二十八日、宮川香渓とあるんです。本当は 井高香渓なんですが。

二階堂 面白いですね。これは香渓様ですけど、支払いは香山が支払うわけですね。当時の二十九円は高いです。

井高 それだけじゃなく、香山先生にお金をさんざん借りているんです。

 

  浅間焼という名前でやり始め独立

二階堂 そして三笠をやめたのは明治四十一年三月。五月に、友田安清がつくった金沢市の日本硬質陶器株式会社にまた呼ばれているんです。 友田の娘さんが初代歸山先生の奥様になっている。

井高 友田は呼ぶときに、「飛ぶ鳥後を濁さずという言葉があるから、借金は全部支払ってこい。どれだけあるんだ」と言う手紙が何遍も来ている。つまり、お金は払ってやるから 戻ってこいと。

二階堂 井高香渓の「香」は、香山の名前をもらっているわけですね。ですから、明治三十六年八月から明治四十一年三月ぐらいまでは、初代香山の所で、香山の期待を担って一緒に仕事をしている。

井高 山本直良は、香山先生に依頼して、井高歸山を三笠へ呼んだ人です。その後、大正になって、もう一度、山本直良が、物産がだめになるから再興してくれと。「それじゃどういうふうにしてもいいか、わがままをしてもいいか」 「いいよ」というので入りました。

そのとき、三笠焼ではなくて、浅間焼という名前でやり始めたのが初代歸山の独立のときなんです。


「青磁でも染付でも、すべて一流に仕上げる」

篠崎 初代歸山さんから、真葛香山のお人柄とかお聞きになっていますか。

井高 四六時中聞かされました。特に香山先生が言われたことは、何か焼きものを頼まれたときに「これは俺の所ではできない」というものがあってはいけない。 辰砂(しんしゃ)でも、青磁でも染付でも、下絵の色入のようなものでも、信楽、丹波、備前、九谷、例えば色絵のものとかを注文してきても最高のものをつくりなさい。

それは今考えると、私の先生で信楽の方がいるんですが、私がまだ学生時代に、先生が「おまえの所は東京で焼きものをやっている。つぶれるよ」と言うんです。「信楽に来い。 信楽に来ればやれるよ」と言う。ところが信楽に行けば信楽だけしかできない。信楽の土で、信楽の釉をかける。

だけど、東京にいればどうなるか。今、大手のスーパーでも、つぶれないようにするにはニーズを考えますね。ニーズがなければいけない、と香山先生は言われる。今の時代に ぴったりしている。だからすべてやる。しかも、一流のものに仕上げなければいけない。そういうことを言われたそうです。

篠崎 まさにそれは、香山が自分でやってきたことになるわけですね。芸術家にしては珍しいタイプの方ですね。

 

  最後まで持ち続けた彫刻的な陶器の制作への執念

篠崎 田邊さんは香山の作品をいろいろ研究されていますが、引きつけられるのはどういう点ですか。

田邊 一口で言うと、類例がないことをやったことでしょうね。彼は日本の今まで培ってきたもので世界を席巻した。それも力尽きて途中からいろんな釉の変化に 期待したんでしょうが、もとより香山は技術をすごく重んじた。

二階堂 私もそれは同感です。結局、彫刻的で大きなもの、そして人がつくれないものをつくる。明治十四年の勧業博覧会では噴水をつくったり、明治三十三年のパリ万博 では中に人間が二人入れるような水盤をつくったり。

つまり、大きいもの、非常に手のかかるもの。しかも、それを一人でやる。何年もかけてつくり、終わると病気になると言うんです。最後まで香山はそういう執念を 燃やし続けた人ですね。

田邊
「色絵蟹高浮彫水鉢」とほほ同じ香山の作品と田邊哲人氏
「色絵蟹高浮彫水鉢」とほほ同じ香山の作品と田邊哲人氏
明治十四年の第二回内国勧業博覧会に出した「色絵蟹高浮彫水鉢」とよく似た作品があります。その箱の表には大正五年三月二十五日の日付けで、恒助に持たせて 誰誰の家へ贈ると書いてある。ということは、香山が亡くなるのは大正五年五月二十日ですからその二か月ぐらい前に制作したものか、あるいは明治十四年につくって 窯に置いておいたものかわかりませんが、この間、三十六年の時間の隔たりがあるわけです。幼年期に竜の筆洗をつくって以来の脈絡からいくと、香山には彫刻と いうようなものがあったような気がしますね。

「色絵蟹高浮彫水鉢」とそっくりのこの作品を手にしたとき、私は、彼は最後まで彫刻的な陶器の制作への執念を持っていたな、と感じました。これは最高の 品物だと思っています。それで、僕は真葛の総括をしようと思ったわけです。真葛の生涯はこれだなと思ったんです。

最終的に、香山はこの彫刻だったんだなというものを確信しましたし、虎之助(初代香山)を見た気がしました。

二階堂 しばらく前までは同じ香山の作品といっても、初代の作品か二代の作品なのか、また、初代でもいつ頃の技法のものかなどは識別されてこなかった。今回の本の中で、 そういう位置づけができたと思っています。

篠崎 幻といわれてきた真葛焼が、お二人のご本で明らかにされてくるわけですね。きょうは、どうもありがとうございました。




 
いたか きざん
一九二七年東京都生れ。
 
たなべ てつんど
一九四二年静岡県生れ。
著書『帝室技藝員・真葛香山』叢文社 21,000円(5%税込)。
 
にかいどう みつる
一九四九年高知県生れ。
著書『宮川香山と横浜真葛焼』有隣堂2,625円(5%税込)。
 




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