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平成13年7月10日 第404号 P2 |
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目次 | |
P1 | ○鵠沼の東屋旅館と芥川龍之介 佐江衆一 |
P2 P3 P4 | ○座談会 熊田千佳慕の世界 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 桐原良光と『井上ひさし伝』 藤田昌司 |
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座談会 生物画家
熊田千佳慕の世界 (1) |
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はじめに | |||
篠崎 |
昭和二十四年に絵本画家として再出発され、花と虫をテーマにしたリアルで細密な絵は温かみと夢があり、フランスの「ファーブル友の会」会長から“プチ・ファーブル”と賞賛されております。昭和五十六年にボローニア国際絵本原画展に 『ファーブル昆虫記』が入選されて以来、数々の賞を受賞されております。 有隣堂では、昭和五十六年に先生の個展を開催させていただき、大好評でしたが、この七月十三日(金)から七月三十日(月)まで、二回目の個展「熊田千佳慕の世界」を伊勢佐木町の有隣堂ギャラリーで開催させていただくことになりました。 そこで本日は、奥様のすぎ子様にもご同席いただき、先生と絵についてお話をお聞かせいただくことにしました。 |
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篠崎 | 先生は横浜の住吉町のお生まれ・お育ちだそうですが住吉町は、当時はどんな街でしたか。
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熊田 |
僕のうちは、父が耳鼻科の医者をやってまして、家は洋風の建物でした。隣が「三留(みとめ)義塾」という有名な学校で、僕がのぞくと、いつもみんな遊んでるんです。だから僕もあそこへ入りたくてしようがなかった。夜は英語を教えてました。 |
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篠崎 | お父様の源太郎先生は、もともとはどちらの方なのですか。 |
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熊田 | 出身は福島県二本松です。父は学校を卒業して宇都宮の病院に勤めていたのですが、祖父が病気になったため、明治三十一年に住吉町の病院を継ぎました。アメリカとドイツにも二年ぐらい留学してます。
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篠崎 | 最新の医学を学ばれたのですね。それで患者さんからは、ほとんどお金を取られなかったそうですね。
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熊田 | そういうことが好きなんです。お金のない人たちが病院の前に行列をつくってました。僕はそういう父に随分影響されましてね。
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教室のすみっこで絵ばかり描いていた幼稚園時代
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篠崎 | 幼稚園は、関内の生糸検査所の所にあった横浜小学校附属幼稚園でしたね。 |
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熊田 | そうです。僕は体が弱かったから、幼稚園には一か月おくれて入りました。行くと、うちに帰りたくて、ワンワン泣くんです(笑)。それでみんな困ってしまって、園長先生が「他のことは何もしなくていいから、好きな絵だけ描いてていいよ」と言ってくださったんです。それで教室の一番すみっこで、絵ばっかり描いていました。
だから、その先生に導かれたようなものです。
それから虫の世界にどんどん入っていきました。 |
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野球が大好きショートで打順は一番
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熊田 | もう一つは、僕は野球が大好きだったんです。外国人が皮のグローブを持ってきてくれて、僕は小学校のときから皮のボールを使ってやっていたんです。だから僕が関東大地震のときに持って逃げたのはグローブだけです。 | ||
篠崎 | 横浜球場では当時もいろいろ野球の試合をやっていたそうですね。 |
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熊田 | やっていましたね。当時はホームがちょうど今と逆で、バッターは今のJRに向かって打っていました。アメリカの軍艦なんかが入港するとよく試合がありました。横浜の中にクラブチームがたくさんあったんです。
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篠崎 | 野球が相当お好きだったのですね。 |
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熊田 | ええ、大好きで、野球で食べていかれるなら勉強なんかしなくてもいいやと、すぐ勉強にけりをつけた(笑)。それで一時は本当に野球で食べていこうかなと思ったことがありました。
今、名古屋は中日ドラゴンズですが、その前身の金鯱(きんこ)軍というのがあり、中学を出たころ、そこへ籍を入れたんです。でも一週間目におやじに見つかってしまって。ポジションはショート、足は速かったんです。打順は一番です。 |
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住吉町の家にロシャパンを売りにきていた女の子
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熊田 | ロシア人の親しい女の子もいらしたとか。 |
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熊田 | ロシア人の女の子が「ロシャパン」を売りにきていたんです。 |
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篠崎 | ロシアのパンなんですか。 |
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熊田 | ジャムの入ったパンを揚げたものです。それを、「ロシャパン」と言うんです。「ロシア」じゃなくて、「ロシャ」なんです。
旧居留地をずうっと売って最後にうちに来る。おやじがよく面倒を見て、その子がうちで一時間ばかり遊んでいくんです。よくロシアの絵本なんかを持ってきて見せてくれたりしたんです。あれも随分いい経験になりました。 だから、そういう環境も僕にとっては大きな影響があったのでしょうね。 |
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篠崎 | 日本に亡命していた白系ロシアの人たちですね。 |
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熊田 | 震災前ですが、ロシア人が横浜にはいっぱいいました。男はラシャをしょって売りに来るんですよ。
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小学校六年の時関東大震災で横浜公園に逃げる
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篠崎 | グローブだけ持って逃げられたという関東大震災はおいくつのときでした。 |
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熊田 | 小学校六年でした。学校でみんなに宿題を借りてうちに帰ってきたら、あの大地震でした。それで横浜公園に逃げたんです。水が腰くらいまで来ました。
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篠崎 | 横浜公園は水があったので、非常にたくさんの人が助かったそうです。 |
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熊田 |
住吉町の家も焼けてしまって、生麦に移りました。鶴見は当時はまだ郡で、橘樹郡鶴見尋常高等小学校に転校しました。生麦の浜の子弟がたくさん来ている学校なんです。 洋服を着ていたのは、僕とキリンビールの息子と二人だけなんです。それで僕はびっくりして、毎時間、下を向いて小さくなっていた。そしたら、あの生徒はよく勉強しているということになった。何も勉強してないんですよ。 こういうものに随分救われましたね。横浜小学校はエリートで大変な学校でしたが、僕は勉強はやらなかった。父は勉強の「べ」の字も言わなかったんです。ただ、元気で遊んでいるのを見て、一番喜んでましたね。 |
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篠崎 | それから神奈川県立工業学校の図案科、昭和四年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入られ、その後、デザイナーの道へ進まれたわけですね。
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熊田 | 美術学校を出ても、食べることができないんです。そういう学校ですから。あの時代は道楽息子ばっかりでしたね。僕は昭和九年に日本工房に入り、商業美術をやっていました。
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篠崎 | 日本工房は商業美術で日本のはしりだそうですね。 |
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熊田 | 鐘紡(現・カネボウ)の化粧品の広告のデザインをやったり、外国向けの写真アルバム『日本』もつくっていました。
土門拳も、そこで一緒に仕事をした仲間なんです。あいつが嫁さんをもらうのに、僕がプロポーズのせりふを書いて、演技までやらせたりして。でも、土門は「五郎ちゃんだめだったよ」とそんなことばっかりで(笑)。 だからあいつとは一番親密だったですね。 |
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篠崎 | 写真アルバム『日本』は土門拳さんと一緒におつくりになったんですね。 |
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熊田 | ええ。僕は二十歳ぐらいのとき、表現派だとか、構成派だとか、そういうのにすごくかぶれていたんです。そういうもとがあったのでフォト・モンタージュの形式で日本を全部紹介しました。
みんなモンタージュですから、いろんな写真を土門に撮ってこさせて、それを僕が切り抜いて、自分で張って画面をつくる。お経みたいな経本折りになっていて、全部広げると七メートルほどになり、一つの壁画になります。それが両面なんです。昭和十一年頃です。 |
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篠崎 | 軍国主義華やかな頃ですね。 |
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熊田 | それを、政府がヨーロッパ各地に全部ただでまいたんです。 |
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熊田夫人 | うちにあったのは戦災で焼けてしまって、戦後、一緒に会社にいらした方が、「僕は中国語の説明のついたのを持ってますから、どうぞ」と言ってくださった。それを大事にしていたんですが、あちこちに持っていくので、ぼろぼろになってしまいました。国会図書館にはちゃんとしたのがあるそうです。
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戦時中モーニング姿で結婚式を
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篠崎 | 先生は、とてもおしゃれですが、戦時中も変わらなかったですか。 |
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熊田 | 結婚式を挙げたときは、ちょうど戦時中で、町はみんな戦闘帽をかぶって、カーキー色一色だった。でも、こんなことは一生に一度だと思いまして、モーニングで歩いていきました。
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篠崎 | 毎朝、警戒警報が鳴っていた頃ですよね。 |
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熊田 | その前はパーマネントも派手にかけていました。 |
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篠崎 | どこでパーマネントなんかかけられたんですか。 |
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熊田 | 横浜公園の前の柴垣という一番有名なお店で、女の人にまじって、すみっこでかけてもらいました。
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熊田夫人 | パーマは昭和十六年頃からかけていたんじゃない? かけた日に召集令状が来たんですものね。
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熊田 | すごく派手にかけてきたら、その晩に召集令状が来て、しゃくにさわって毛を剃ってしまいました。そうしたら軍隊で遺髪を取れといわれて、僕は取れない。それでわきの下でいいよと(笑)。初めは「こて」でパーマをかけていたんです。おやじがまたおしゃれで、「こて」でやっていた。
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篠崎 | 「こて」だとお風呂に入ると延びるでしょう。 |
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熊田 | そうなんです。新聞紙にジュッとやって焦げるぐらいの熱さがちょうどいいんですね。前髪をやっているうちに、おでこにくっついて、やけどするんです。それで困っていたら、パーマをかけなさいよと言われましてね。
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篠崎 | 私はその頃、子供でしたが、“贅沢は敵”“パーマネントは止めましょう”などと言ってましたよ。対象はもちろん女性です。ですから男性は論外です。お父様のリベラリズムの血を受け継いでおられるんですね。
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熊田 | 本当に明治時代のリベラリストですね。 |
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篠崎 | 絵を描かれる方が、ご親族におられたんですか。 |
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熊田 | おりません。一番上の兄・精華(せいか)が詩人です。詩人と絵かきと、二人がおやじのすねをかじっていました。
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電信隊に入隊三か月で召集解除
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熊田 | 召集令状がいつ来るかと、そればかり心配してましたが、三十過ぎたら、もう大丈夫だとほっとしていた。
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篠崎 | それで派手にパーマをかけられたら……。 |
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熊田 | その日に召集令状が来た。昭和十六年七月に入隊しました。 |
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篠崎 | どこに入隊されたのですか。 |
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熊田 | 東部八十八部隊という電信隊で、相模原市にありました。僕は機械を乗せた馬を引っ張る役で、馬を扱うだけでも大変でした。それで馬の飼葉(かいば)桶を背負っているうちに倒れて、軍医さんの所に行った。
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篠崎 | 相当きついお仕事だったんですね。 |
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熊田 | ちょっと芝居をしたんです(笑)。演劇が好きでやっていましたから。 その軍医さんに「おまえは筆より重いものを持ったことがないだろう」と言われたから、「そうです」と言うと、「それじゃ解剖の絵を描いてくれないか」と。解剖の絵はうちでよく見ていたから、軍医さんの部屋に毎日行って、のんびりと内臓の絵を描ていました。 一か月ぐらいしたら、軍医さんに「もうすぐ帰れるよ」と言われた。病気になって三十日たっても治らなければ召集解除になるんだそうです。ですから、軍隊にいたのは三か月です。 |
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新婚八日目に横浜大空襲で家が焼ける
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熊田 | 昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で、家は焼けてしまいました。結婚して八日目でした。
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篠崎 | その頃はどこに住んでおられたのですか。 |
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熊田夫人 | 新子安です。日産のグラウンドが新子安駅の西側にあり、北側が浅野総合中学(現・浅野高校)で、うちの前の道が浅野の登校路になっていたんです。
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熊田 | 空襲で避難するときは、家の後ろの浅野総合中学に逃げることになっていたのですが、父は、すぐそばの昭和電工の社宅にすんでいた一番下の妹や孫が心配で、南側の妹のうちへ行ったら、もう誰もいなかった。そこへ昭和電工に女子挺身隊で来ていた娘さんがちょうど来た。結核で、父が診てあげてた人で、その人と一緒に避難した
らしいんです。 そのうちに周りが燃えてきて、鉛の電話線が溶けて父の首筋に落ちて火傷をした。防災ずきんは、その娘さんにあげてしまって、自分は鉄かぶとだけでいたんです。二人で線路のそばまで逃げて来て、新子安駅付近の千草という和菓子屋さんの前の防火用水の中に、二人が交代で入ったり出たりしていたんです。 娘さんは防火用水の中に入ったままで亡くなり、父は防火用水の外で倒れているのを千草のご主人が見つけて、子安小学校の救護所にへ連れていき、親戚の古川病院に収容してくださった。 |
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熊田夫人 | 私たちはそんなことは知らないで生麦の鉄橋の下に避難していたんです。火がおさまって戻ってきたら家は全部焼けていて、「熊田先生のご隠居さんが亡くなられました」と。亡くなった方の防災ずきんに父の名前が書いてあったので、熊田さんということになったらしいんです。でも、父も一週間後の六月四日に
亡くなりました。 子安の周辺は井戸のポンプがあった一軒だけが残り、あとは全部丸焼けでした。 |