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平成13年7月10日 第404号 P3 |
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目次 | |
P1 | ○鵠沼の東屋旅館と芥川龍之介 佐江衆一 |
P2 P3 P4 | ○座談会 熊田千佳慕の世界 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 桐原良光と『井上ひさし伝』 藤田昌司 |
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座談会 熊田千佳慕の世界 (2)
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篠崎 | 終戦直後はどうやってお暮らしになったんですか。 |
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熊田 | 鐘紡に所属していたので、そのデザインの仕事をしていました。そのときは給料生活ですから、一定のものが毎月入ってきました。
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篠崎 | それで昭和二十四年に絵本作家として出発されるんですね。 |
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熊田 |
それで白地のたくさんある絵を描いた。講談社などは全部描かないと怒られる。白地を残すともったいないというんです。僕は子どもの頃から外国の絵本をよく見ていて、白地のあるすてきな絵本がたくさんあったので、そういう絵を描いていたんです。 |
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篠崎 | やはり外国の絵本に相当影響されたのですね。 |
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熊田 | はい。だから、僕のデザインもみんな、外国の絵本みたいな、日本人くさくないんです。ロシア人の女の子から絵本を見せてもらったほかにも、うちの病院には外国人の患者さんがたくさん来ていたので、いろいろ外国の絵本をもらいました。アメリカ人とか華僑の人とか。
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『みつばちの国のアリス』で昭和二十五年に装幀賞を受賞
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篠崎 | 初めての絵本『みつばちの国のアリス』で昭和二十五年に装幀賞を受賞されますね。 |
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熊田 |
絵が一枚も売れなかったものですから、本当に大変な時代でした。その後、ようやく講談社の絵本などの仕事が入ってくるようになった。講談社の絵本の仕事をすれば一流だと言われるほど、格のある絵本だったんです。 |
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熊田夫人 | 最初は装幀とイラストで、昭和二十四年にゲーテ原作の『狐のたくらみ』(中央公論社)をやりました。これはモノクロでした。初めての絵本が『みつばちの国のアリス』(羽田書店)で、昭和二十五年に装幀賞を受賞しました。これはカラーで、日本で一番最初に絵本化したんです。
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熊田 | 僕は小さいときに、そういう絵本をたくさん見ていましたから、これは大変うれしかったですね。
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熊田夫人 | でも、一冊でき上がるまでに長くかかりましてね。東京から絵をとりにみえる編集者もかわいそうでしたよ。当時は、東京から来ると出張扱いだったんです。
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熊田 | ですから空手で帰れないわけです。それに僕の所は電話がなかったから。 |
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熊田夫人 | だから、電報で催促なんです。電報ばっかりでした。それから赤電話が近所に入るようになった。それでうちに来てももらえないから、そのまま帰らなくちゃならない。編集者は下のほうの人が来ますので会社に帰れば叱られるわけですね。
それで、電話の番をしているおばちゃんが、「大丈夫よ。先生は気が向けば描きますから」と言ったと。「泣いてましたよ」て、よく言われました。 |
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熊田 | 僕の家の横に坂がありますが、「なみだ坂」と言うんですよ。 |
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篠崎 | かわいそう。 |
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一、二年かけて楽しんで描くからハングリーな生活
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熊田夫人 |
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熊田 | 三か月ぐらいで描けばいいんでしょうが、二年もかかったらね。 |
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篠崎 | 描き出されるまでにお時間がかかるんですか。それとも気に入らないからですか? |
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熊田 | もう楽しんじゃうんです。こうだこうだって一人で楽しんじゃう。描き上げるのにみんな一年とか二年とかかかっていましたから、いつまでたってもハングリーな生活でしたね。
そういうところで僕はファーブル先生に非常にあこがれたんです。 |
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篠崎 | ファーブルのお仕事を始められたのはいつ頃からですか。 |
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熊田夫人 | 昭和四十一年に、『シートン動物記・ファーブル昆虫記』を講談社から出したのが最初です。
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熊田 | 六十歳のときです。 |
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篠崎 | 先生が描いてみたいと思われたのですか。 |
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熊田 | そうです。その後、世界文化社の方が僕の絵をとても気に入ってくださって、「先生、二年差し上げますから、ファーブル昆虫記を描いてください」と言われた。
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熊田夫人 | 世界文化社から『ファーブル昆虫記』が出たのが、昭和四十六年です。 |
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熊田 | きっちり二年かかりました。このあたりから『ファーブル昆虫記』の虫たちを生涯のテーマにしようと思いはじめたんです。
それから昭和五十六年にコーキ出版から『ファーブル昆虫記』を出しました。これが、ちょうど七十歳のときです。 |
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篠崎 | このときですね、有隣堂で先生の展覧会をやらせていただいたのは。 |
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熊田 | 僕の生まれて初めての展覧会だったんですよ。 |
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熊田夫人 | それまで絵は、外には全然出しませんでしたので。 |
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熊田 | それと、この中の作品がボローニア国際絵本原画展で入選して、一気にスポットが当たって……。ちょうどモグラが外に出たみたいに、もう何が何やらわからなかったですね。
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ファーブルに惹かれたのはまず貧乏なところ
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篠崎 | 先生は“日本のファーブル”と言われていますが先生がファーブルに魅せられたのはどういうところでしょうか。
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熊田 |
『ファーブル昆虫記』も、小さいときに一番上の兄貴から読んで聞かせてもらったりしていて、非常に頭にありました。それに小さい頃から虫好きだったので、大きくなったら、これを絵に描いてみたいなという気持ちがあったんです。 ファーブルみたいな人はほかにはいないと思いますね。やっぱりファーブルが一番ですね。 |
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篠崎 | ファーブルのお仕事は、これからもまだまだ続くわけですね。 |
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熊田 | ええ。このごろは、パリの自然史博物館のミッシェル・ボラールさんが、日本ではなかなか見られない昆虫の標本を送ってくださるんです。「ひげなんか少しとれている標本で結構ですから、送っていただけませんか」と手紙を出したところ、これ以上きれいなものはないという標本を送ってくださった。
僕は怖くて、触角がとれたら大変だと思って、「こんな立派なものを送っていただいたけど、怖くてさわれない」と手紙を出したら、「あなただからこそ立派なものを送りました。自由にお使いください」と言ってくださった。 |