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平成13年9月10日 第406号 P1 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 北方「水滸伝」の魅力 (1) (2) (3) |
P4 | ○井伏氏の原稿 出久根達郎 |
P5 | ○人と作品 逢坂剛と『重蔵始末』 藤田昌司 |
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座談会 北方「水滸伝」の魅力 (1)
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はじめに | |||
篠崎 |
『水滸伝』は、北宋(ほくそう)の時代(十二世紀初め)、百八人の豪傑たちが梁山泊(りょうざんぱく)にたてこもり、時の政府軍と戦ったという中国の説話文学ですが、北方さんの『水滸伝』は原典にはとらわれずに独自の視点で再構築された、まさに“北方水滸”ともいうべきもので、全十七巻になろうかという大作です。 九月二十六日に五巻目が発売の予定ですが、本日は“北方水滸”とはどういうものか、これまで発表された他の作品にも触れながら、その魅力について、文芸評論家で本紙編集委員の藤田昌司さんからお話を伺っていただくことにしました。 北方謙三さんは昭和二十二年、佐賀県唐津市のお生まれで、小学生の頃に川崎に転居されました。一九八一年に『弔鐘(ちょうしょう)はるかなり』でエンターテインメント作家としてデビューされ、八三年に『眠りなき夜』で吉川英治文学新人賞を受賞、ハードボイルド作家としての地歩を築かれました。八五年『渇きの街』で日本推理作家協会賞、九一年『破軍の星』で柴田錬三郎賞を受賞されました。中国の歴史小説としては、九六年から三年がかりで『三国志』(全十三巻)を出されております。 |
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藤田 | 『三国志』はいろいろな方が書かれていますが、『水滸伝』については、かつて吉川英治さんが『日本』という月刊誌に連載されてましたが、途中でお亡くなりになり、絶筆になってしまった。したがって、今、『水滸伝』を現代語訳で執筆されているのは北方さんだけで、まさに壮挙だと思うんです。『水滸伝』の成立は北宋の時代で、当時、役人たちがしたい放題のことをしていたため農民たちは苦しみ、農民一揆が起こる。宋江(そうこう)ら多数が反乱を起こし、梁山泊にたてこもって政府軍と戦ったという史実に基づいて物語がつくられていき、それが『水滸伝』の原形になっている。ですから最初から一つの物語として成立したわけではなく、幾つもの物語からできている。
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南北朝を舞台に男の小説を書き始める
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藤田 | 北方さんが『水滸伝』を書いてみようと思われた動機は何ですか。 |
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北方 | まず、ハードボイルド小説を書いていたということですね。ハードボイルドは男の小説なんです。男の小説を鮮やかに書こうと思うと、現代小説では制約が非常に多い。それで歴史小説をまず書き始めた。
南北朝を舞台に『武王の門』を書いたんですが、これはやはり制約が多い時代で、自由に書けない部分がいっぱいある。南北朝を掘り下げることはなかなかできなかったんです。特に皇国史観にぶつかってしまうんです。でも、外国を舞台に、架空のように書く分には何の制約もない。それで皇国史観を露骨に書ける所はないかと探したら、中国にあった。 三国時代、蜀という国は、蜀漢と名乗ったりして四百年続いた漢王室を守ろうとしているわけです。これは日本の万世一系史観というか、天皇史観とそっくりなんです。 一方、魏という国は覇者なんです。曹操(そうそう)がすべてを従えた。これは日本に存在した反天皇史観というふうな、覇者こそが王であり、王が新しくなれば国が新しくなって、また新しい制度をつくり、活力を取り戻す。そういう国家観が魏にあったわけです。 そうすると、日本に存在した天皇史観と、反天皇史観のぶつかり合いみたいなものが『三国志』で明確に書けるんです。それが『三国志』を書いた動機です。それで、『三国志』を書いているうちに中国というのが非常に面白くなり、昔から読んでいた『水滸伝』に何かできないかなと思ったわけです。『三国志』は正史として、中国の国家の歴史としてきちんと編纂されているから、正史の縛りの中でしか書けない。ですから、僕の『三国志』は正史に忠実な作品になっているわけです。その縛りを何とかほどきたいというときに、『水滸伝』があった。『水滸伝』は『三国志』で書けないものが書ける。史実に縛られずに、物語のダイナミズムみたいなものでバーンと突っ込んで、自分で物語を創作しても何ら問題がないものが書けると。 |
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人生の中で一番熱かった学生運動の時代
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北方 | 僕の学生時代は学生運動の時代で、友だちの中で死んだ人間は何人もいるし、凶器準備集合罪と言って、棒を持っていただけで何回もつかまり、六か月の実刑をくらって、二十年間出てこなかったやつがいる。刑務所の中で闘争しちゃうんです。出てきたときは、やっぱり浦島太郎だった。でも、そういう時代が明確に青春だったんです。僕の人生の中で一番熱かった時代なんです。
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篠崎 | 大学はどちらだったのですか。 |
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北方 | 中央大学です。今、客観的に考えると無理だったけれど、あのころは、変革の可能性を信じられた。もう一つは連帯の可能性。外に出て戦うぞと言ったときに、腕を組んでくれる相手がいるという連帯の可能性も信じられたんですよ。人間の生命は美しいという誤解に基づいた可能性も信じたことについては、やっぱり忘れがたいです。
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藤田 | それが青春ですものね。 |
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北方 | 今だったら絵空事だけれども、あのときは明確にリアリティーを持っていた。僕はいまだに若いやつらに、「あんたら全共闘やって、日本のどこを変えたんだ」と言われて、「歩道を変えたんだよ」と。昔、歩道は四角い踏み石だったんですが、それを引っぱがしてババンと割って機動隊に投げた。一番引っぱがしたのは、お茶の水の明治大学辺り。この辺が日本で一番最初に歩道が全部アスファルトに変わったはずです。あれは俺たちが変えた。それで今の若いやつらに「お前、公園の砂利一つ変えたことがあるか」って(笑)。明大通りのカルチエ・ラタン闘争で、御茶ノ水駅、駿河台下も遮断して、あそこを解放区にするというときなんか僕は中心的な人物だったんです。
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リアリティーが一番あったのはキューバ革命
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北方 | そのときに一番リアリティーがあったのはキューバ革命だった。ゲバラやカストロらが、少人数でキューバ島に上陸して、そこから少しずつ同志をふやしていって、バチスタという政権を倒したという事実が明確にあるわけです。
ゲバラは、私が学生のときは生きていて、ボリビアで劇的な死を遂げたという事実がバンバン入ってくる。非常に近い形としてキューバがあったんですよ。『水滸伝』には晁蓋(ちょうがい)と宋江という二人のボスが出てきますが、晁蓋と宋江がゲバラとカストロの関係です。梁山泊がキューバ島、梁山湖がカリブ海、宋という大きな国が、アメリカ合衆国という想定のもとに書いたんです。 そうすると、アメリカ合衆国が、原典にあるような、どうにもならない国だったら困るわけです。強力な権力の、恐ろしい部分みたいなものをきちんと持っていなきゃいけない。 そういうことも考えて、かなり強力な宋という国を書いたんです。 |