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平成13年9月10日 第406号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 北方「水滸伝」の魅力 (1) (2) (3) |
P4 | ○井伏氏の原稿 出久根達郎 |
P5 | ○人と作品 逢坂剛と『重蔵始末』 藤田昌司 |
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井伏氏の原稿 |
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見ると胸がときめく作家の肉筆
私の場合、文字を書くのが大好きなので、原稿は手で書く。ワープロ以外は受けつけない、と言われたら、私は文章を売るのをやめ、それでも、こつこつと文字だけはつづっているだろう。 文字を記すのが好きなくらいだから、他人(ひと)さまの文字を見るのも、大好きである。作家の肉筆を見ると、胸がときめく。 いくつになっても、自分は文学青年なんだな、と苦笑が出るのである。 ワープロで育った人たちは、ペンで記された文字を見ても、おそらく何の感慨も無いのではあるまいか。 ところで作家の原稿に限って言えば、近頃私は、この人の生原稿が見てみたい、とやみくもに駆り立てられるような文章に出会わない。思わず身ぶるいするような名文に、である。 作家がワープロを使用するようになったことと、名文が少なくなったことの因果関係は、やはり、あるような気がする。生原稿を見せてもらったら、ワープロで打った原稿であった、と、案外なことがあるかも知れないけど、その前に、この人は肉筆派なのか、それともワープロ派なのか、 どちらにせよ、原稿を拝見したいものだ、そんな気にさせる文章が少ないのである。 私は古本屋だから、普通の人より、作家の原稿に接する機会が多い。古本屋は、とにかくも文字に関するものは、すべて扱う。原稿はもとより、書簡・色紙・ノートも営業品目である。これら肉筆類を求める客は、各地の文学館や研究者と限らない。文学の愛好者が多いが、とりわけ熱烈な ファンである。この人たちは、特定の作家の文章に惚れ込んでいる。小説の内容でなく、文章である。惚れ込んだ作家の全著作を集め、次に全集をあがない、そして収集は肉筆原稿に及ぶ。原稿にあきたらず、書簡まで集めるようになると、相当のファンといってよい。究極の愛好家は、作家の 写真まで収集するというが、私はそこまで膏肓(こうこう)に入(い)ったお客さまとは出会ったことがない。 要するに作家の原稿を集める人の多くは、文章に打たれた人である、ということだ。ワープロ時代になってからは、現代作家のそれを求める人は、数えるばかりになった。第一、肉筆原稿なるものが、ない。小説もずいぶんすたれたし、世の中の動きは、すべての物事がからみあって進んでいる。 作家の肉筆原稿は数年のちには消えるかも知れない 数年のちには、作家の肉筆原稿は消えるかも知れない。出版のシステムが変わるだろうし、私のように、文字を書くのが好きだというような物好きは、効率第一の世の相手にされず、はじきだされていくだろう。 昔の作家の原稿が、相対的に持てはやされるに違いない。何しろ、絶対数が少ない。機械万能の時代には、むしろ手作りの品が喜ばれる。肉筆原稿も、例外でない。文字を書く習慣のなくなった人たちは、かつて一字一字を紙に刻むように記していた作家の原稿をながめて、心を慰めるのではないか。 本を読んで安らぐのでなく、肉筆に心を打たれる。何だか不幸な時代のような気が、しないでもない。私たちはもはや活字に食傷し始めているのかも知れない。何だか活字が信用できなくなってきている。 井伏鱒二の温泉の旅のエッセイ稿を入手 話は、変る。私は若い頃から、井伏鱒二の愛読者であった。本も集めた(古本屋だから結局は手ばなしてしまったが)。全集も求めた。となると、次にほしいのは、前述のコースで、井伏氏の肉筆原稿である。 当然の話だが、原稿は世に一部しかない。井伏氏のそれは納まるべき所に納まって、あまり流通しない。時々、古書市場に出てくるが、私がほしいと思う原稿に行き当らない。 旅行をテーマにした短いエッセイ稿がほしいのである。その旅行も、温泉がいい。理由を明かすと長くなるので省略するが、このたび、まことにおあつらえの原稿を入手したのである。 嬉しくて、日夜、ながめている。四百字詰めの原稿用紙(ABC、と印刷されている)六枚で、タイトルを「とぼけた湯治場・要害温泉と下部温泉」という。昭和三十一年の『旅』十一月号に掲載されたエッセイである。 すさまじい井伏氏の推敲の跡 サブタイトルの二つの温泉で、痔と神経痛の療養をする話だが、原稿を見ると、これは元のタイトルは、「煙霞療養」だったらしい。仰々しすぎると感じて訂正したのだろうか。この題の作品が尾崎紅葉にある。「とぼけた湯治場」も最初は、「とぼけた温泉場のこと」である。どうでもよいことだが、 作家の推敲の経緯がたどれる面白さは、やはり肉筆原稿にしか無い。
試みに筑摩書房の新版井伏鱒二全集第十九巻の文と照合してみると、原稿は旧字旧仮名で書かれているのに、全集では方針によって新字体に改められている。仮名遣いは底本のままとあるが、発表誌の『旅』は新仮名に直したのだろうか。句読点も原稿と全集では異なる。ただし、これは著者がゲラ校正で改めたのだろうと思う。 井伏氏の原稿で、最も消しの激しい部分を紹介する。この部分だけ、かろうじて消去した文章が読み取れるのである。括弧の中がそれである。「この温泉(で一週間のうちに痛みが無くなつたので)に、(全集では読点なし)今年もまた出かけるつもりで(ゐた。しかし知人からの連)、部屋の都合を問ひ合せたのであつた。 しかし今年は全部の部屋が塞がつてゐると(様子)通知があつたので、(私は)信州の温泉に行つて出血がとまる程度(に)まで漕ぎつけて、帰りに甲(州の──以下七字不明)府の町の温泉(で──以下四字不明)に四五日ほどつか(つて)り、(農閑期のことだから○○不明要害温泉や下部温泉の宿は○で満員で──以下十字不明) 下部温泉の源泉館に寄って来たが、○○農閑期のことだから源泉館には三百人からの客がゐた」 こんな消しもある。「私の肉体はガタガタ(であつたが)自動車のやうなものだと思つてゐる」
消しの多い井伏氏の原稿を、じっくりとながめながら、私はこれを執筆している氏の様子を思い浮かべた。 苦吟している姿ではない。私はむしろ楽しみつつ書きつけている作家の風貌を思い描いていた。何しろ消しの痕が、神経質そうなやり方ではない。いかにも面白そうに、ちょこちょこと消している。大体、本当に神経質な作家は、 絶対に元の文章が読めないように、執拗に黒々と消すはずだ。井伏氏のそれは例示したように、何とか判読できるのである。 肉筆原稿にこそ素顔の作家がいる これは意外だった。作家の本質は、肉筆原稿を見ないと、よくわからないような気がする。つまり、文字や書き癖が最も正直に、その人となりを表わしているように思う。 内田百けんの肉筆原稿を見たことがある。百鬼園随筆の一編だったが、実にきれいで、ほとんど消しが無い。百けんの、一字もゆるぎのない名文は、ああでもない、こうでもない、と格闘しつつ絞り出されたもの、と考えていた私は、拍子抜けした。まっ黒く塗りつぶされた原稿を思い描いていたのである。 それに何という読みやすい字だったろう。その文学から、ひと癖ありげな、へそ曲りの、太々しい字体を想像していた私は、あまりの相違に面くらってしまった。しかしこれが生身の百けんなのだろう、と思ったことだった。 肉筆原稿にこそ、素顔の作家がいる。 |
でくね たつろう |
一九四四年茨城県生れ。 |
作家。 |
著書『本の背中本の顔』講談社1,785円(5%税込)、『猫にマタタビの旅』文藝春秋1750円(5%税込)、 『漱石先生とスポーツ』朝日新聞社1,680円(5%税込)ほか多数。 |