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平成13年10月10日 第407号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 鎌倉仏教と蒙古襲来 (1) (2) (3) |
P4 | ○路面電車復興の時代 今尾恵介 |
P5 | ○人と作品 塩澤実信と『本は死なず』 藤田昌司 |
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座談会 鎌倉仏教と蒙古襲来 (2)
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西岡 | 金沢文庫に残っている鎌倉時代の「日本図」を見ると、中国のことは唐土と書いてあり、蒙古は高麗の向こう側に描かれている。つまり蒙古というのは、当時の日本人から見ると中国ではないんです。ですから、日本人のイメージする中国は江南というか、
長江(揚子江)の南の地方で、高麗の奥から急に興ったのが蒙古で、それはほかの龍及(琉球)、これは多分台湾のことなんですけれども、頭が鳥の人間が住んでいるとか、羅刹(らせつ)国という、ほとんど鬼の世界ですね。そういうものと並ぶものとして蒙古が描かれている。
モンゴル帝国が中国を制覇したといっても、日本人にはなじまない世界だし、そういう意識でとらえたんじゃないかと思うんです。 |
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編集部 | そういうイメージの蒙古が攻めてきた当時の宗教界というのは。 |
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津田 | この時期で重要なのは禅とか律とか浄土は、それぞれが垣根をつくっていたわけじゃないんです。そういうものを研修する所、いわばお寺がそれぞれにあって、現在の大学みたいな役割を果たしていました。
たとえば称名寺にしても、天台もあり、浄土もあり、律もあり、禅まで吸収しようというようなもので、今みたいに、何々宗、何々宗という形で、宗派を立ててしまうのではなかった。その中でウエートをどこに置いているかということだと思うんです。 今では消えてしまいましたが、浄土宗でありながら、律も禅も、密も入った諸行本願義(しょぎょうほんがんぎ)という浄土宗の一派があります。鎌倉の名越にあった新善光寺は諸行本願義の寺で、今は葉山に移っていますが、北条氏が、そういうところから割とうまくいろんな宗派を取り込んでいく。 |
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西岡 | 日蓮は「四箇格言(しかかくげん)」といって他宗を批判するときに、禅、律、念仏、密を挙げています。今回の展示には、それプラス法華、最後に神道を加えたんですが、確かに同じ時代に生きた日蓮から見れば、そういうグルーピングはあったと考えていいんでしょう。ただ、今の我々の持っている宗派という意識から見てよくわからないのは、律と密だろうと思います。
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伊藤 | 禅も、鎌倉初期についてはよくわからない。 |
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西岡 |
禅の場合は、中国から来た蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)のような本当の意味での禅僧がいる一方で、栄西(ようさい)をはじめとする日本人の禅僧がいる。しかし、少なくとも史料を見るかぎり、栄西の孫弟子ぐらいまでは純然たる日本人の禅僧はいないんです。無住は、『沙石集』で栄西のことを「真言ヲ面(おもて)トシテ、禅門ハ内行ナリキ」と 書いている。 鎌倉の終わりぐらいの禅僧と言われている人たちも半分は密教をやっているんです。密教の血脈の中に禅僧だった人が載っているのを発見して驚いたことが何度かあります。 |
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密教の中心だった鶴岡八幡宮寺は幕府の管理下
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津田 | 鶴岡八幡宮にしてもかつては「鶴岡八幡宮寺」でしたから寺なんです。今の人は、「えっ?!」と思うでしょうが、頼朝の時代から、八幡宮寺に仕える供僧たちは寺門(園城寺)とか東寺の系統です。その中で京都との情報交流が盛んにおこなわれていたわけです。
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編集部 | 鶴岡は鎌倉の中心ですし、幕府を支える宗教観が現れているのでしょうか。 |
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西岡 |
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伊藤 | そういう感じもしますね。機構もそうですが。 |
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西岡 | 人員構成から見ると鎌倉に小さい比叡山とかを建ててもよさそうだけど、そういう形にはなってない。
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津田 | 全部、体制側に迎合していると言ったほうがいいと思うんです。禅宗にしてもしかり、浄土宗にしてもしかりで、逆に言うと、幕府の中には、いろんな宗派全部の引き出しがあった。
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西岡 | 管理されていると言っていいと思うんです。 |
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十三世紀後半に自意識が高まる中で新仏教の祖師が登場
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津田 | それから、宗教的な拠点はやはり京都というイメージがどうしてもありますけれども、当時の大きな寺院は宗教大学というイメージでとらえたほうがいい。そういうところへいろんな人が出入りする。庶民もいる。だからある程度の下地のあるところですから、
いわば学派というんですか、自分なりの主張、例えば日蓮だったら、自分は天台の僧だ、最澄と同じだと言って近寄りながら、その中で自分の色を出していく。
十三世紀後半になると、だんだん自意識が過剰になり、自分はどこにウエートを置くかという形で出てきたのが日蓮、一遍であり、親鸞です。 それから神道のほうも、蒙古襲来を撃退することができたのは日本が神国だからだという考えが出てきて、改めて神仏の権威ということで、それぞれの神が突出していくんです。 |
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伊藤 | 異端的な流派は関東起源のものが多い。結局、関東には関西や京都ほど伝統的秩序がないものですから、本来、関西や京都で排除されたものが関東へ行って、権威を持ってしまうようなことがある。
流派が分かれていくときに、排除された側が関東へ行って大きな勢力を持つようになり、また、それが京都に戻ってきて新しい展開を見せるという運動が鎌倉時代に起こり出す。 |
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西岡 | 確かに関東は異端の巣窟です。たとえば、親鸞の息子の善鸞が邪義を立てたというのもそうですし、日蓮は天台の中の一番異端ですし、立川流もあります。そういう意味からすれば、まさに鎌倉周辺が異端を育む場になっていたと思います。
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津田 | 一遍にしても日蓮にしても親鸞にしても、みんな比叡山で一度勉強している。それで、鎌倉にすぐ来るかというと、そうじゃなくて、周辺である程度足場を固めた後で、鎌倉街道を伝ってうまく入ろうとしていくわけです。
それで花を咲かせるのは、鎌倉なんです。 |
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西岡 | 普通だったら立ち消えになってしまうような火種が、社会的な緊張の中で、ある程度信者を獲得して、確立していったということがあるんじゃないか。
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津田 | 蒙古襲来がもしなかったら、今の日本の鎌倉新仏教と言われているものが根づかなかった。今までの価値が一たん崩壊する中で、ようやく自分というものを表現していく。
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律宗の忍性は慈善事業で為政者にアピール
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編集部 | 具体的には、律宗の場合はどうですか。 |
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津田 |
忍性(にんしょう)は、初めは常陸の三村(みむら)寺にいたんですが、それが極楽寺に入っていく。極楽寺はもとは浄土宗だった寺で、それを改宗して、しかもそこで慈善事業をやっている。そのやり方は幕府にとっても非常にありがたい。学問的なものはしっかり持っていたと思うんですけれども、 見せ方としては慈善事業ということで、為政者に対してはアピールしていたと思うんです。 叡尊(えいそん)の記録に『関東往還記』があります。それを見ていますと、みんな行くのは宗教的魅力じゃないと思うんです。人間的な魅力というか、慈善事業をやっている人は一体どういう人なんだという形で取り込まれていく。 |
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西岡 | 確かに日蓮が律宗を国賊と非難するだけのことはやっていたと思うんです。本当に見事に東海道は極楽寺が管理して、山陽道は奈良の西大寺がやる。そういう形でしっかりと日本の動脈を律宗が押さえているのは大したものだと思うんです。けれども調べてもよくわからないのは、律宗の坊さんは実は半分は密教をやっている。その辺を現代の目から見ると、どうなるんでしょうか。
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浄土宗の諸行本願義は各宗派の接着剤
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伊藤 | 律、密、禅もそうです。特に京都の東福寺の開山として知られる円爾弁円(えんにべんえん)の弟子たちの聖一派は、密教僧も律僧もたくさんいます。
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西岡 | 和歌山の由良の興国寺で禅を開いた法燈(ほうとう)国師の流れもそうですね。 |
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津田 | 我々のイメージでは律はどちらかというと宗教じゃない。戒律ということですから、自分はどういう立場にたつかを表明するような手段である。でも、その後ろに自分は密であろうが、禅であろうが、そういうものをもっている。
それで極楽寺のように、なぜ律にかわるかというと、極楽寺が浄土宗の中でも諸行本願義という、禅も密も律も兼学であったから、そこに律が入り込めた。そういう接着剤的な役割になっていたんじゃないか。いろんな宗派を引きつけて、いわば何を持っていても極楽往生できる。 神道的なものも諸行なわけですから全く大丈夫なんです。逆に言うと、その中からいろんなネットワークができるということなんだと思ます。 |
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伊藤 | 律も同じじゃないですか。たとえば、東大寺真言院の聖守(しょうしゅ)は三論宗の学僧だった人ですが、遁世して律僧となります。彼は東密三宝院流の付法であり、円爾弁円のところに参禅したりしてもいますが、三論宗の僧としての仕事は続けて、本来の性格も失わないのです。このような
彼が律僧としての勧進活動、具体的には東大寺の再建をずっと担っていく。こういう人たちは他にもいっぱいいる。 |
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津田 | どうも我々は、宗教的な垣根をつくりながら、その中でどの人はどこに入れたら一番いいかと、当てはめ過ぎる傾向がある。
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一遍が小袋坂で北条時宗に出会ったのはわざと仕組んだことか
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津田 | 一遍にしても、方法論から言うと、天台を踏まえながら、わかりやすく、わかりやすく教えを広めていったわけです。特に一遍は伊予国の豪族の河野氏の血筋ですけれども、いわば蒙古合戦の当事者というか、そういう中から出てきている。
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編集部 | 一遍が鎌倉の小袋坂で北条時宗と出会うという絵が残っていますね。 |
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津田 | あれは多分、時宗の行列に出会うように仕組んだもので、うまくセンセーショナルに、自己アピールしたと考えたほうがいいんです。
鎌倉の宗教を考える上で、道や港をどう押さえているかということが重要です。一遍は、賦算といって、念仏の札を配って歩くわけですから、ものすごくよく道を知っている。鎌倉街道の周りをうまく押さえ、鎌倉に入れないならどこかでパフォーマンスを する。それは必ず鎌倉に聞こえるところです。片瀬で踊り念仏をやっているところが『一遍聖絵』にありますね。 |
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津田 | 親鸞は農民と手をとって、権力に立ち向かっていったという具体的なイメージがあります。しかし、ここ十年でそのイメージはかなり変わった。親鸞が北条泰時の鎌倉の一切経の書写・校合を
手伝って、その酒宴の席にまで行っているというのがほぼ確定された。それが文暦三年か四年ですから、一二三○年代のことだと思います。 さらにその後親鸞のつくった『教行信証』を孫弟子の性海、この人は親鸞の二番弟子で、下総の横曽根にいた性信という人の系統ですが、その人が御内人の平頼綱を頼って、鎌倉で開版して出版をしたという ことを考えると、すごくうまく権力とつながっている。 しかし、一方では一向宗弾圧というのが実際にあった。それに対しては、自分たちのことを親鸞門流という言い方をして一向宗とは別であるから弾圧の対象にならないようにと、幕府に対してお金をあげて懐柔策を図っている。幕府のほうも魚心あれば水心みたいな感じでやっていたところがあったんじゃないかと思います。 |
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浄土真宗仏光寺派を開いた了源は大仏北条氏の中間
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津田 | 特に、今イメージが変わりつつある浄土真宗は、鎌倉幕府と相当の癒着があった。西岡さんも書かれていますけれども、了源(りょうげん)という鎌倉の浄土真宗の祖と位置づけてもいい人物がいます。のちに京都に仏光寺を開きますが、この人は大仏(おさらぎ)北条氏の家人比留維広(ひるこれひろ)の中間(ちゅうげん)だった弥三郎という人であったと記録されています。
中間というと、非常に身分が低いというイメージでとらえる人がいる。けれども、年貢米を輸送するのにかかわっていた中間管理職みたいなものでしたから、江戸時代の足軽・中間というイメージとは違う。そう考えると、蒙古襲来の中で、浄土真宗が幕府にくらいついていて、今までの為政者と宗教者とは相いれな いものだというイメージではないんじゃないか。 |
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北条氏の被官クラスが室町時代に宗派を伝える担い手に
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西岡 | 先ほどもふれましたが、蒙古襲来をきっかけに、もともと京都で異端だったようなものが鎌倉で肥大し、それが逆流して京都に向かって行く。一遍の時宗も、真宗も、それから日蓮の場合は時代がすこし後になりますが、その担い手が出てくる。それがいわゆるちゃんと出家した坊さんではなく、非常にあいまいな立場の人たちが一宗の開祖になったりしていく。
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津田 | とくに重要なのは、北条氏が滅んだ時、彼らに仕えていた被官クラスは大体生き残って、それぞれが宗教の後援者になる。たとえば日蓮の場合、富木氏がいたから日蓮宗が存続できたわけです。
彼らは有能な文人で、非常に頭がよかった。そういう人が新興宗教を支えていた。それが鎌倉が滅びていく中で、次の室町時代に全部バトンタッチしていく。 |