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平成15年4月10日 第425号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 明治の東京 (1) (2) (3) |
P4 | ○開高健・文章の人 菊谷匡祐 |
P5 | ○人と作品 吉村昭と『大黒屋光太夫』 金田浩一呂 |
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座談会 明治の東京 写真が語る都市の成り立ち (2)
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石黒 |
ガス灯が明治7年に建つ前です。
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武士や出入りの商人は田舎に帰って東京の人口は激減 |
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編集部 |
江戸幕府が崩壊して、東京はともかく人口が減ったわけですね。
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藤森 |
はい。150万が60万ぐらいまで減った。
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陣内 |
山の手はがらがらになったけれど、下町は減らないでしょう。
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藤森 |
もう一つは武士と商売をしていた出入りの商人が田舎に帰った。武士は領地があって帰れる。しかし、普通の商売をしている人は行き場がない。
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陣内 |
だから、小学校なんかもどんどんできていくわけです。寺子屋と併存だけど。明治の早い時期の資料を調べていくと、やっぱり町人地がどんどんできていくし、都心の武家地にもできていく。
だから山の手、例えば原宿や代官山あたりは明治の終わりごろから人口が少しずつ増えてきた。 |
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藤森 |
原宿は、穏田(おんでん)とか言ったんですね。
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陣内 |
そう、穏田です。完全に農村だったんですが、日露戦争の後ぐらいからだんだんと市街地が郊外に無秩序に広がっていくスプロール化が始まる。
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石黒 |
山の手の写真もないですね。東大の前の本郷とか全く家並みがないですね。赤坂は溜池とか、赤坂の御門がありますね。
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陣内 |
明治以後、東京は山の手でも北、東のほうと、南とではイメージが変わってきますね。
北は、それこそ東大もでき、漱石も鴎外も北のほうで、川添登さんが『東京の原風景』で書いているように文学空間になっていく。上野には東京美術学校もあり、文化や、伝統的なものも割と残る。 南は、政治や新しい外国とのつながり。今、ほとんどの大使館も港区あたりに移っていますね。 |
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編集部 |
官庁集中計画と市区改正計画という東京の改造案がありますね。
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藤森 |
最初は内務省が優先していた。内務省は基本的には、交通計画です。東京府の原口要という土木技師が、アメリカで勉強して、とにかく新しい交通体系をつくろうということで最初の案を出した。 今のように地方自治制度じゃないから、つまり、東京府は内務省の下部組織で、内務大臣の下にいるのが、内務次官と警視総監と東京府知事なんです。 それに対して、外務大臣井上馨は鹿鳴館を一生懸命やった時期ですから、とにかく、見た目をヨーロッパと同じようにしなきゃいかんと。日本の政治家では、見た目重視の人は珍しいんです(笑)。ヨーロッパにはいっぱいいますけど。 |
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パリのような東京をつくろうとしたエンデとベックマン |
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藤森 |
明治20年の不平等条約改正の交渉の失敗で井上馨が失脚し、結局官庁集中計画も縮小される。内務省の市区改正計画が勝って、都市計画の権限は内務省に移る。だけど外務省が都市計画をしてどうするというのか。 官庁集中計画で実際につくられたのは霞が関に今保存されている司法省(法務省)、外務省、海軍省、帝国ホテルぐらいですね。国会は結局仮議事堂のままでつくられ、最終的には今の国会のもとになります。 |
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陣内 |
道路で実現したのは何かあるのですか。道幅も含めて。
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藤森 |
道幅も含めて国会に上がる坂、今の中央官庁街の大通りと桜田門がそうです。それ以外は全滅です。縮小計画もエンデ、ベックマンのを引き継いでやったから、今の霞が関はあの計画が採り入れられている。
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陣内 |
桜田門のことが出てきたので言いますと、横浜写真を見ていても、カペレッチ設計の参謀本部はたいへん印象的ですね。皇居のお堀の水面と木々の緑の上にそびえ立っている。
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藤森 |
というのは、カペレッチでもう一つ有名なのは九段の遊就館ですが、あれは、明らかにファサード(正面)の建築で、ものすごくファサードを意識している。横から見るとへらっとしている。これはイタリア建築の特徴なんです。 とにかく、正面から見たのを考えなさいと。通りに対して美しく見せなさいと、横はいいから。 逆に言うと、イタリアでは全体が見えるようにつくる機会はそうはないわけです。だって、横からは建物は見えないんですから。 |
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陣内 |
むき出しの建物はあまりないですからね。
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藤森 |
陣内さんに言われて気がついたけど、日本の役所は門があってみんな引きがある。僕は「えっ?」と思った。役所はそういうもんだろうと思っていた。確かに中央官庁でも町の中で知らない人が見ると、官庁とはわからない。
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最初のビジネス街となった兜町の建物には門と塀が |
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石黒 |
丸の内に一丁ロンドンができますが、ヨーロッパ風のロンドンの建物には門がなかったので、びっくりされて、「門無しは文無し」に通じるとからかわれ、最初いやがられたらしいですね。
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藤森 |
丸の内に三菱一号館ができるのは明治28年です。それ以前のオフィスビルは、兜町の海運橋際に建てられた第一国立銀行が最初ですが、確かに、それには門がある。渋沢栄一が考えて兜町に日本最初のビジネス街をつくった。そこには株式取引所や銀行集会所、東京海上もあります。日本橋の海寄りにあって、東京で一番水運の便はいいけれど、敷地が狭い。それでも日本の郊外住宅みたいに一応せこい塀をつくった。
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門から建物の正面が見えないのが日本の伝統 |
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石黒 |
カペレッチは日本人に合った建築ですよね。日本は門を立派にして、中はどうでもいいけど、見かけだけよくする。そんな感じがいまだにありますものね。
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藤森 |
ただ、それもちょっと違って、日本は伝統的には、江戸時代には、門から建物の正面が見えるというのは絶対なかった。門は立派だけど、入ると斜めにするか、視線はまっすぐ通さないんですよ。
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陣内 |
近代になってもアプローチのところを樹木でぐるっと隠す。車寄せの所まで回っていくみたいな。視覚的に関係性がはっきり示されては行けないんですね。だから図屏風などの景観画でも、重要なものはしっかりと描かれているけど、間の関係は雲で隠したり、ぼかす。人間の心理を実によく読んで街ができている。建築の配置も演出も考えられていると思います。だけど、こういう九段の遊就館のような建物が出てくると非常に新鮮で衝撃的です。
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藤森 |
お城が、周りに門も石垣もなくて突然建っているような。それをイタリア人がやったというところで、イタリアはファサードの国だと。
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市区改正計画で誕生した丸の内「一丁ロンドン」 |
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編集部 |
今お話に出た丸の内の一丁ロンドンも市区改正計画の一環なんですね。
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藤森 |
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