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平成15年6月10日 第427号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 小島烏水と版画コレクション (1) (2) (3) |
P4 | ○大自然の愛・母の愛 鮫島純子 |
P5 | ○人と作品 前田速夫と『異界歴程』 藤田昌司 |
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座談会 小島烏水と版画コレクション (2)
登山・文学・美術に遺した多彩な足跡 |
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篠崎 |
アルピニストとしての烏水はいかがですか。
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近藤 |
例えば、明治30年に青梅街道を歩いています。立川から大菩薩峠を越え、塩山を下りて甲府に出る。そして昇仙峡を訪ねて、富士川を下る。もちろん鰍沢から船に乗って東海道へ出ますが、それで横浜に帰る。自分の趣味を本当に増幅させてきた方だと思いますね。文章を見ると目が非常に確かです。 先覚者としては、烏水の好きな幸田露伴がいます。露半は、『枕頭山水(ちんとうさんすい)』なんかを読むと、北海道から歩いて帰って来ています。北海道へ電信技手として就職しますが、いやになって、まだ東北線ができていないころ歩いて帰ってくる。「突貫紀行」というのがそれです。 だから、文学趣味と山水旅行趣味とが一緒になって、その次に、高い山に向かうという基礎があったと思います。 |
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篠崎 |
文学とブレンドしているのがすごくいいですね。
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近藤 |
これが面白いです。
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槍ケ岳に登る途中、ウェストンの噂を聞き、横浜で会う |
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篠崎 | 明治36年には、横浜でウェストンにも会っていますね。 |
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近藤 | ええ、これは本当に偶然です。明治30年以降、妙義山、浅間山、飛騨、乗鞍に行ったりしていますが、35年に岡野金次郎という人と一緒に白骨温泉に行き、そこから霞沢に登り、明神池に下る。これは一般ルートではなく、猟師の道です。それで槍沢をさかのぼって槍ヶ岳に行く。その途中の赤沢の岩小屋で外国人が来ていたということを聞くんですね。
それで、その帰りは飛騨のほうに下り、富山方面に抜けるんですが、そんなことが一つの奇縁になってウェストンと知り合う。これもやっぱり横浜だったからでしょうか。 ウェストンは一回目の来日は、熊本・神戸といて、二回目が横浜になります。それで友人の岡野金次郎はアメリカの商社にいて、たまたまそこでウェストンの本を見て、それを借り出して、烏水は短時日のうちに要点を翻訳して、山の写真を筆写します。そういうふうにして勉強していった。それが明治35年、槍ヶ岳に登って帰ってきてからですね。 |
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篠崎 |
河野先生も、烏水の『鎗ケ嶽探険記』をお読みになってますね。
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河野 | はい。最初は『日本アルプス』の口絵だけをもっぱら見ていましたが、名古屋大学に勤めたときに、近藤先生が編集された烏水全集をめくったら、その中に『鎗ケ嶽探険記』が入っていて、読んだら矢も楯もたまらず、その夜に槍ヶ岳に出かけました。松本まで行きましたが、朝の3時半ぐらいで、まだ島島電鉄は動いていないので相乗りのタクシーで上高地まで行って登り出したのです。
文学として烏水を読むようになったのは、それが契機ですね。その前に健康のために上高地から西穂高にも登っていたのですが、そのときは烏水とともに上高地へ戻ってきたといった、何かとても懐かしい感情にとらわれたことを覚えています。 そして烏水の書いているとおりのルートをほとんど通って大槍に登ったのです。夏山でラッシュでしたが、頂上に立って本当に感動しました。もし『鎗ケ嶽探険記』を読んでいなかったら、あれほどの感動を味わえたかどうか疑問だと思っています。 |
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ウェストンの助言で山岳会を発足し「設立主旨書」を書く |
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篠崎 |
烏水はウェストンと出会い、日本山岳会の前身の山岳会を創設するんですね。
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近藤 | 明治35年に槍ヶ岳から帰って、先ほどお話ししたマリー社から出た本を見て、そしてその人物が近くにいるとわかり、山手のウェストンと西戸部の烏水とでつき合いができる。ウェストンは聖職者ですが、やはり旅行好きで、烏水は英語を使えたでしょうから、親しい行き来が始まった。
そしていろいろな本、特に『アルパイン・ジャーナル』を借りた。その上で、日本の若者たちも山の会を起こしたらどうかという話があるんです。これが一つ。 もう一つは当時、東京の府立一中に博物学の先生に帰山信順という方がいて、そこに集まった連中がいるんです。例えばイギリスの外交官アーネスト・サトウの次男の武田久吉。 それから後の英文学者の市河三喜という人たちが、明治三十年代に博物学同志会というのをつくる。自分たちの山歩きを中心として植物、昔で言うと本草学の延長ですか、同時に、新しい未知の分野に 足を入れていこうという一群の若者たちがいた。 私は「『甲斐の白峰』をめぐって」という一章を書きました。ウェストンの紀行を土台にした「甲斐の白峰」は、『太陽』という一流雑誌に出たものですから、その人たちの目のつくところになり、訪ねてくる。そこで博物学同志会の人たちと縁ができる。これも横浜です。 もう一つは越後です。高頭仁兵衛という豪農が、日本の古来の地誌類、紀行文を集めています。この人が『日本山嶽志』の草稿をつくり、これを見てくれと言って烏水の住む横浜の山王山に持ってくるわけです。 そういう縁があって、それじゃひとつ山のグループをつくろうじゃないかと。 ですから、明治35年の秋から36、7年にかけて親密な交流がありますね。 それで明治38年10月に飯田町の停車場、昔の甲武鉄道(中央線)の発着駅ですが、そこの駅前の料理屋に集まり越後の高頭さんの援助で会誌も出すということになり、山岳会が発足した。「山岳会設立の主旨書」を烏水が書いていますが、その中に、『アルパイン・ジャーナル』にならって、山の研究、登山路の紹介をやるのもいい。それからもっと文学、芸術、科学に力を入れる。これ国民的事業と書いています。本当に若者たちの盛んな意気込みを教えられるような文章です。特に日露戦争後ですから、その時代性もありますね。 |
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篠崎 | Y校が英語教育に熱心だったから英語も話せて、ウェストンと交流ができたんでしょうね。
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近藤 |
それはあります。特に美沢先生が、スマイルズの『自助論 (文庫)・(単行本)』を教えたという話はいいですね。
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烏水ら青年登山家を狂喜させた志賀重昂の『日本風景論』 |
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篠崎 |
近代日本における烏水の山岳紀行文はどうなんでしょうか。
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近藤 | これは大きなテーマです。明治初期からの鉄道の発達と同時に、新しい未知の部分に興味を持ち始める。もう一つは、明治27年の刊行以来、版を重ねている志賀重昂の『日本風景論』は日本の風土についての概説書ですが、あの中に「登山の氣風を興作すべし」という啓蒙的な文章がある。あの力強い文章に相当若者は啓発されたようですね。
これは木暮理太郎らも語っていますが、当時の若者に大自然に向かう気持ちをいやおうなくかき立てさせたんじゃないかと思います。 |
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篠崎 |
岩波文庫に『日本風景論』が収められるとき、烏水がその解説を書いていますが、その中で「我々青年登山家を、狂喜させたもの」といっていますね。
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近藤 |
そうですね。もう一つ、烏水の仕事の大きな動機づけになったのは、自分の発表の舞台をつねに持っていたことじゃないでしょうか。先程出ました山縣悌三郎の『文庫』に記者として採用されます。送られてきた原稿を選別して、選評を書いて送り返すという仕事です。
33年には与謝野鉄幹が『明星』を出し、『新聲』(現『新潮』)という投書雑誌もありました。そういう若者の発表舞台があったことは大きいと思いますね。 |
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篠崎 |
烏水というペンネームは、いつから使いはじめたんですか。
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近藤 | これは割と早い時期です。『一葉女史』は小島久太で出ています。30年に記者になってからで、滝沢秋暁が名づけ親です。
中国の戦史にある烏江の戦いから。それとは別に滝沢秋暁が言うには、おまえさんは人のまねばかりする。そして勝手なことも書いている。だから、「鵜の真似をする烏水に溺る」ということを手紙に書いているんです。戒めの言葉、そこからとったと。 後で弁解しまして、実は違う。烏江からとったんだと言っていますけれど、本当は鵜のまねなんですよ。(笑) |
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篠崎 |
烏水は浮世絵にも興味を持ち、収集したり、本も書いていますね。
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近藤 |
ゴンクールが有名な青楼の画家として『歌麿』を書いたのは明治24年です。そういったものから日本人が影響を受けるわけです。 飯島虚心の名著『葛飾北斎伝』は明治26年に出版されています。最近、鈴木重三先生の解説をつけて岩波文庫に収められて利用しやすくなりました。(※2003年6月現在、品切・重版未定)しかし、文字通り伝記資料といった趣が強いですね。 それ以外だと『浮世絵類考』ですね。一種のディクショナリーのようなもので、最初は大田南畝がつくり、それをたくさんの人が増補を重ねました。あのころは恐らく、斉藤月岑の最終的にまとめた『増補浮世絵類考』をみんな利用していたと思います。 そんな時代に小島烏水は自分でコレクションをして、自分で研究をして大著をまとめました。その後、長い間、烏水の仕事を超える業績は出なかったわけですから、本当に孤高の高山みたいなもので、あの時代の浮世絵研究の中では、飛び抜けていますし、現在でも烏水の業績は学問的に輝いていると言えます。 |
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漢文を基調とした文学性豊かな烏水の浮世絵研究 |
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河野 |
それから烏水の浮世絵研究は、一つに、文学性が豊かであることが大きな特徴です。漢文を基調にした格調の高い日本語で、文章として読んでも美しい。漢文と英文学の素養が根底にあるんだと思います。両方とも主語・述語・目的語と、構造が非常にしっかりしている言語ですから。烏水も晩年は口語文に移っていきますが、やはり初期の文章がすばらしいですね。
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近藤 |
文章のことで言うと烏水も過渡期の方でしょう。漢文学で育った人が口語文に移るという非常に難しい時期なんです。露伴がそうだったし。徳田秋声、泉鏡花はいいんですが、随分脱落した人もいます。烏水も『山水美論』『雲表』あたりから口語文に移るんですが、かなり文章の書き方で苦労している。
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河野 |
烏水の浮世絵研究で文章が支えている部分を無視することはできないと思います。
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広重の菩提寺を訪ね、生い立ちを調べる強い実証性 |
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河野 |
それからもう一つは極めて強い実証性です。広重の生い立ちを調べるときでも一つ一つ、菩提寺を訪ね、まだ生きていて広重を知っているような人を訪ねて、得るところは余りなかったと書いていますが、単なる印象や批評には終わらせない。もちろん作品研究も同様です。
彼の美文をもってすれば、印象批評風にさらっと書き流すことはやさしかったと思いますが、彼は決してそれをやらない。我々は「歌川廣重年譜」を基本にして全部やっているわけです。今でも基本とすべき、また我々後輩が見習うべき研究態度なんです。時期が非常に早いということ、文学性と実証性の三位一体、これが烏水の浮世絵研究を支えていると思います。 |
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近藤 |
フェノロサの本を出した古美術商の小林文七さんのことも書いていますね。
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河野 |
両者から多くのことを勉強していると思います。
小林文七とフェノロサは大変親しくて、小林が中心になって日本で最初の浮世絵の展覧会が明治25年に行われました。そして、一番有名な『浮世絵展覧会目録』は明治31年に小林がつくって、それにフェノロサが一点一点解説をつけていますが、烏水自ら述べているように、両者からの影響は大変強いと思います。 |
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海外流出を防ごうと『浮世絵と風景画』を執筆 |
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近藤 |
小林さんは浅草の駒形におられたんですが、烏水は随分通っているんです。烏水が小林さんに感動したのは浮世絵の海外流出を憂えたという話。
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河野 |
烏水が『浮世絵と風景画』を執筆した動機に、海外流出を防ごうという意思があると書いていますね。
浮世絵の場合は、ジャポニズムで有名な話があります。ブラックモンが、伊万里かなんかの陶器の包み紙に使われた北斎漫画に感動して、北斎漫画を探しに探して、2年後にようやく刊本を手に入れて狂喜したという有名な話があります。浮世絵の場合には、ジャポニズムが西欧人の関心を引く大きな契機になった。そして浮世絵は安いから外国人は一種のスーベニアみたいな感覚で買った面もあるでしょう。
海外流出では、日本では明治の初めのころ起こった廃仏毀釈と、太平洋戦争後、たくさんのものが流出しました。 浮世絵を含めてそういった古美術、文化財の流出ということは功罪相半ばというか、二つの面があると思います。一つは、烏水が嘆いているように、いい浮世絵を見ようと思うと外国に行かないと見られない。これは嘆かわしい。 しかし同時に、すぐれたものが外国に渡り、そこで一種の親善大使の役割を果たし、日本文化のすぐれたところを理解してもらえるよう頑張ってくれるという面、これは功のほうですね。 もう一つの面は浮世絵は基本的に植物染料を使って刷るから退色しやすい。江戸時代の人もみんな、生活の中でそれを鑑賞し、あるいは壁に張り、そして、やがては捨ててしまう。 一種の生活文化で、日本人の一つの美術の鑑賞の仕方ですが、失われてしまうわけですね。 ところが、欧米の人たちは慎重に万全を尽くして保管してくれている。中には絶対人には見せないというのが欧米の浮世絵のコレクションにはある。これは次の世代の人に刷られた状態のままに伝えることが任務であるから一切人には見せない。門外不出というコレクションもあります。 これは美術あるいは保存に対する思考が違うからやむを得ない。そういった功も非常にあると思います。 |