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平成16年8月10日 第441号 P2 |
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○特集 | P1 | 横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱 半藤一利 |
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○座談会 | P2 | あれから60年 横浜の学童疎開 (1) (2)
(3) 大石規子/小柴俊雄/鈴木昭三/ゆりはじめ/松信裕 |
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○人と作品 | P5 | 熊谷達也と「邂逅の森」 |
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座談会 あれから60年 横浜の学童疎開 (1)
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疎開先での食事風景 (老松国民学校・二橋洋子さん提供) 約110KB |
約~KB … 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
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右から、ゆりはじめ氏、鈴木昭三氏、大石規子さん、小柴俊雄氏、松信裕 |
はじめに |
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松信 |
昭和19年(1944)の夏、アメリカ軍のB29による本格的な日本本土空襲が始まる直前に、全国13都市の国民学校で、三年生から六年生までの生徒を地方に分散させる学童疎開が始まりました。 横浜市でも77校、約6万7千人の生徒が該当し、多くの子供たちが長期にわたり親元を離れての生活を余儀なくされました。 あれから今年で60年を迎えますが、横浜の学童疎開を体験された方々を中心につくられた「疎開問題研究会」では学童疎開60周年記念「横浜の子どもたちが体験した疎開・空襲・占領」展を8月11日(水)から17日(火)まで、伊勢佐木町の有隣堂ギャラリーで開催されます。 10年前の50周年の折には、『横浜市の学童疎開』も刊行されております。 そこで本日は、学童疎開を体験された方々にお集まりいただき、お話を伺うことにいたしました。 50音順で紹介させていただきます。 大石規子様は間門[まかど]国民学校四年生で箱根に、小柴俊雄様は平沼[ひらぬま]国民学校六年生で足柄下郡下中村[しもなかむら](現・小田原市)に、昭和20年に、それぞれ集団疎開をされました。 鈴木昭三様は戸部[とべ]国民学校の六年生で水戸市に、ゆりはじめ様は老松[おいまつ]国民学校の六年生で秦野に、昭和19年、それぞれ縁故疎開をされました。 |
◇77校、67,664人の子供が対象に |
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松信 |
まず最初に、ゆりさんに、学童疎開がどういう状況のなかで始まったのか、そのなかでの横浜市や神奈川県の特徴などについてお話しいただけますでしょうか。 |
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ゆり |
神奈川県では横浜市、川崎市と横須賀市の三市がその対象となり、横浜市の場合は、今紹介がありましたように、110校のうち77校、67,664人が該当し、その子供たちは集団疎開、縁故疎開、疎開残留の三つに分けられます。 基本的には、まず縁故疎開です。 田舎のない子もいますから、その子供たちは集団疎開、体の弱い人は疎開残留ということになったわけです。 縁故はそれぞれの親戚を頼ってということなんですが、基本的には子供1人で行くことになっていました。 縁故疎開が34,896人で約52%。 集団疎開が25,353人で約37%。 疎開残留が7,415人で約11%です。 これは昭和19年7月25日の朝日新聞のデータによるものです。 集団疎開は神奈川県の場合は特殊な事情がありまして、当初、文部省の計画では、疎開地として静岡県が予定されていたんです。 それが当時の近藤壤太郎県知事の決断といいますか、英断で、とにかく県内で集団疎開を実行しようということになった。 結果的には非常によかったと思うんですが、しかし、2万5千人以上の子供たちが動いたわけですから、受け皿は大変だったと思います。 それが疎開のおおよその実態です。 |
都市部の空襲から学童の生命を守る |
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松信 |
「疎開」という言葉は聞きなれない人もいると思うんです。 今の子供たちはほとんど知らないでしょうし、当時の新しい言葉だったそうですね。 |
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鈴木 |
「疎開」は軍隊用語で「まばらに展開する、散開する」という意味なんです。 敵を攻める、または退却する場合に、被害を少なくするためにまばらに散開して、戦術を行使するというのがもともとの意味ですが、当時、ドイツとイギリスがそれぞれ児童を田舎に避難させた。
そのときに「疎開」という言葉が日本に入ってきて、今のわれわれが使っている意味の言葉になったんです。 |
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ゆり |
ヨーロッパのほうが先に戦闘状態が進んでいまして、都市の壊滅的な被害を例にとって、都会が集中攻撃に遭ったときに、学童の生命を守るということだったんでしょうね。 |
全国で13都市100万人ぐらいの子供たちが移動 |
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松信 |
学童疎開は、横浜だけではなくて、全国軌を一にして行われたわけですね。 |
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ゆり |
そうです。 13都市が初めに指定されるわけですが、昭和20年になると各地が攻撃されて、地方都市でも疎開をしたので、もっとふえていますね。 全国で100万人ぐらいは子供たちの移動があったんじゃないかと思います。 われわれ当事者にとっては大変ショッキングな出来事でして、戦況は苦しくなっているという実感はかすかにはあったんですが、学校がなくなるほどの窮状になっているとは思わなかった。 たまたま私は六年生だったものですから、翌年に受験を控えていて、それまでの流れを変えてまで田舎に行かなくてはいけないのかという思いがありました。 |
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松信 |
小柴さんは、横浜の空襲を記録する会のメンバーでもいらっしゃるんですが、学童疎開が閣議決定された昭和19年ころの横浜はどんな状況だったんでしょうか。 |
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小柴 |
4月から給食が雑炊になりましたが、家庭生活は普通でしたね。 |
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鈴木 |
食糧事情が非常に悪くなって、食べ物が少なくなってきたという実態はありましたけれど、まだ戦争は身近なものに感じられなかったですね。 |
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松信 |
B29による本格的な空襲は、まだ始まっていない時期ですよね。 |
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小柴 |
そうですね。 B29による横浜市への初爆撃は昭和19年12月25日で、3機による焼夷弾爆撃です。 実際に空襲が激しくなるのは、翌昭和20年からですね。 |
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松信 |
その前に疎開させよう、ということになったわけですね。 |
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ゆり |
サイパンなどのマリアナ諸島をとられると日本本土がB29の射程距離に入るので、疎開させたわけです。 |
◇対人関係で苦労した縁故疎開 |
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松信 |
ゆりさんと鈴木さんは、疎開されたのは六年生だったんですね。 |
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ゆり |
そうです。 私は秦野に縁故疎開しました。 私が通っていた老松国民学校は、野毛山の山の上にあった古い学校でした。 疎開の話は急でしたが、学校単位で移りますし、行くところは箱根湯本だと聞いていましたから、遠足気分もあるし、集団疎開に行きたかったんです。 しかし、まず縁故ということで、私の場合は、毎年夏休みになると秦野の母の実家に行っていましたので、親戚がないとも言えずに、自発的に秦野に行ったんです。 |
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松信 |
秦野へは1人で行かれたんですか。 |
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ゆり |
基本的に単身で行くことがうたわれていたので、1人で電車で参りました。 今では通勤圏ですけれど、大変遠かったですね。 |
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松信 |
当時の秦野はどんなところでしたか。 |
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ゆり |
市制前の秦野町で、国民学校は一つだけでした。 母の実家は農家で、広くて家族も多かったんですが、主人は母の弟なのですが、三回目の出征をしていまして、残っていたのは、そこのおばさんと、老人と子供たちですね。
それまで夏休みに遊びに行っていたのとは、環境ががらっと変わっていた。 |
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松信 |
そこから学校に通っておられたわけですね。 当時は、男性がみんな戦地に行ってしまって、労働力が不足していたそうですね。 |
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ゆり |
そうなんです。 あのころは二毛作で、麦をまいていましたから、ちょうど冬にかかるときには、農作業の手伝いもずいぶんしましたね。 庭先の防空壕は、私も掘りましたよ。 |
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松信 |
いじめにあったりしませんでしたか。 |
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ゆり |
それが一番いやでしたね。 当時の子供たちはやっぱり荒れていて、向こうの悪がきどもに「学校の帰りに裏道 |
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鈴木 |
都会の子と田舎の子では文化が違いますから、それでいじめられる。 単身で行った縁故疎開の方は、皆さんそういう経験を持っているようですね。 |
親元を離れた寂しさや我慢がプレッシャーに |
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松信 |
鈴木さんは茨城県の水戸に行かれたんですね。 |
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鈴木 |
水戸は母の実家でして、そこへ小学校三年の弟と2人で疎開して、そこから三の丸小学校に通いました。 私は体が大きくて剣道も強かったせいか、いじめは受けなかったですね。 ところが、三つ違いの弟は、後で聞きましたら相当いじめられたみたいです。 兄弟で、同じ家にいて、同じ物を食べていても、いじめられた子とそうでない子がいる。 疎開体験は、それぞれ個人によって本当に違うんですね。 軍需工場があった日立が近いので、水戸もしょっちゅう空襲がありました。 あるときすぐそばの那珂川[なかがわ]の上空で、グラマンの戦闘機と日本の戦闘機の空中戦があった。 われわれ子供はすごいと言って見ていたんですが、あっという間に日本の飛行機が落とされて、那珂川にボチャンと入っちゃった。 するとグラマンがこちらに向かってきて、機銃掃射をしたんです。 あわてて防空壕に入ったんですが、何人かけがをしたようで、血を流して倒れている人がいるという光景を、そのときに初めて見ましたね。 そういうふうにしてだんだん戦争というものが、身近なものに感じられるようになった。 またあるとき、母が面会に来たんです。 そしたらわけもなく、母の胸でワンワン泣いた。 私はがき大将で、それまで一回も泣いたことがなかったんですけれども。
祖母もおばも大変大事にしてくれて、何の不自由もない疎開生活だったけれど、やはり親元を離れるということは、どんな子供でも寂しくて、ふだん我慢しているというのがプレッシャーになっていたんですね。
それで母の顔を見た途端に涙が出てきたんじゃないかと今は思っています。 |
◇集団疎開は箱根・湯河原方面へ |
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松信 |
小柴さんは集団疎開ですね。 |
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小柴 |
平沼国民学校は、集団疎開は三回行われました。 第一次が昭和19年8月17日、第二次が12月3日で、私は第三次の昭和20年4月3日に、20人で疎開しました。 六年生になっていました。 疎開先は足柄下郡下中村で、東海道線の二宮駅から、バスは通っていたと思うんですけれども、私たちは歩かされまして、子供の足で50分ぐらいかかったかと思います。 そして着いたところが小船[おぶね]集会所という場所でした。 当時は青年の集会所だったんじゃないかと思います。 当時、私の父は36歳で召集されて中国戦線にいました。 家には母と私と弟、それに4歳の妹だけでしたから、恐らく最初の疎開は母親が、長男の私を離したくなかったんではないかと思うんです。 とうとう三次で疎開することになって、身を切られるような思いで私を送り出したのではないかと思っています。 私が行った日の夜中過ぎ、横浜市が初めて米軍による本格的な爆弾攻撃を受けて、私の家も焼けてしまいましたけれども、幸い母と4歳の妹は無事でした。 |
うれしかった風呂の帰りにもらう落花生 |
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小柴 |
毎朝、当番制で、近くの農協から2、3人で、宿舎まで牛乳をバケツで運ぶ仕事があったんです。 それをこぼさないように運ぶのは、子供ですから大変に緊張しましたし、責任感を感じました。 その牛乳を寮母さんが沸かしてくれまして、朝の食事のときに飲むんです。 たしかおわん一杯でしたが、そのうまさは、今でも本当に鮮明に覚えています。 もう一つ、集会所にはお風呂場がなかったので、週に二回、近くの農家にもらい風呂に行くんです。 それが唯一の楽しみでした。 私が行ったところは大体いいお宅だったようで、今でも二宮は落花生の名産地ですけれども、帰りに必ず落花生を持たせてくれたんです。 そのうれしさは格別で、お風呂の日を指折り数えたものでした。 |
学校も閉鎖され最後の集団疎開で奈良屋旅館へ |
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松信 | ||||
大石 |
それで家に残っていたんですが、20年の3月には学校も閉鎖されて授業がなくなり、もうどうしようもない、子供たちを横浜に置いたのでは危険だというお達しで、最後の集団疎開で箱根の宮ノ下の奈良屋旅館へ行きました。 今はもうない、老舗のいい旅館でしたけれども、それは大人になってから知ったので、そのときは温泉にも入りましたけれども、あんまりありがたみも感じずに過ごしておりました。 私は、皆さんが集団生活をしている後から行ったものですから、いじめというほどではないんですけれども、みんなでお食事するときに並びますね。 そうすると、ちらっちらっと、お茶わんに入っているご飯の分量を見て、あちらが多いとか、こちらが多いとかいうささやき声が聞こえたりしまして、なじむまでに随分時間がかかりました。 |
つづく |
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