Web版 有鄰

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有鄰

平成16年8月10日  第441号  P4

○特集 P1   横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱
半藤一利
○座談会 P2   あれから60年 横浜の学童疎開 (1) (2) (3)
大石規子/小柴俊雄/鈴木昭三/ゆりはじめ/松信裕
○人と作品 P5   熊谷達也と「邂逅の森」



座談会



あれから60年 横浜の学童疎開 (3)

 



  ◇わずかの間に疎開、空襲、占領を体験
 
鈴木  

私たちにとって、疎開、空襲、占領の三つはセットなんです。 わずか1年ちょっとの間にそれぞれをみんな体験させられている。 なかでも疎開は、これらのひどい体験の始まりなんです。
 

ゆり  

たしかに、最悪の始まりでしたね。 疎開は自分で望んで行ったわけじゃなくて、国の施策に沿って行った。 それがどういうことだったのか、何か大変重いものがあります。
 

鈴木  

ただ、その後の人生でそれをバネにして生きている人が随分多い。 それは感じます。 あれがあったから今の人生があると言う人もいるくらいで、ほかの人とは違う体験をしたという意味では、プラス志向に考えている人も多いようですね。
 

小柴  

いやおうなしに親から引き離されてしまうわけですから、つらかった思いと同時に、独立心が芽生えたと思います。 何事にも辛抱する、耐えるという心を養わされたような気がします。 今でもそれが、尾を引いているんじゃないかと思うんですが。
 

  疎開先のお寺の本堂の前で遊ぶ
疎開先のお寺の本堂の前で遊ぶ
根岸国民学校・浄円寺。
(石川栄子さん提供) 大きな画像はこちら約76KB

大石  

言われてみれば、我慢強いというか、そういうことが私にも備わったかもしれません。 また、あきらめとか。 でも、そういうことはそんな体験なんかなくたって、子供たちは知っていかなければならないことだから、あれがあってよかったという話には、私は反発したくなるんです。
 

小柴   そうですね。 それは確かにありますね。
 
大石  

あのころの経験で一番のショックは、疎開先で隣で勉強していた子が、病気で横浜に帰されたその日に亡くなってしまったことです。

それから疎開の前、毎晩のように警戒警報が鳴って、夜中でも身支度をして防空壕に行き、解除になるとまた帰るという、いつ寝ていたのかと思うような生活が長く続いたのも大きかった。
 


   大人に見えた六年生も泣いていた
 
鈴木  

私たちの世代は、4年ぐらいの区切りで体験が違うんです。 昭和元年ごろまでに生まれた人は、戦争に行った世代。 昭和2年から6年生まれぐらいまでは勤労動員世代なんです。 それから私たちが疎開世代だとすると、昭和11年以降生まれは、疎開は知らないけれど、空襲は知っている。 空襲世代と言うんですかね。 「十年一昔」と言いますが、あのころは非常に小分けされているんです。
 

  疎開先での授業
疎開先での授業
本町国民学校・湯本万寿福旅館。
(加藤英男氏提供) ジャンプ約74KB

松信  

大石さんは、「学童疎開」という詩集をつくられていますね。 何か一つご紹介いただけますか。
 

大石  

当時、私たちからすると六年生はとても大人に見えて、たしかに尊敬しているんですけれども、こういうこともあったんだよというのが「六年生」という詩です。

低学年の頃
六年生は おじさんおばさんに見えた
疎開しても
六年生は威張っていて
先生の次に恐かった
けれど
だれかが オカアサン と
寝言のようにつぶやくと
オカアサン おかあさん
お母さん……
あちらこちらで
すすり泣きが始まり
ふっと顔を上げると
薄闇の中で
六年生も泣いていた

鈴木  

ほんとですよ。 六年生だって、やっぱり子供ですからね。
 


  ◇疎開は「子供たちのたたかい」だった
 
松信  

疎開問題研究会ついて、ご紹介いただけますか。
 

ゆり  

疎開問題を皆さんに提起して、10年前に横浜市教育委員会とタイアップして『横浜市の学童疎開』という本をつくりました。 それと毎年8月15日前後に、横浜の各場所をお借りして、市民に疎開の問題を中心に戦時下の実態を紹介したいということで10年以上やってきたわけです。
 

鈴木  

本の刊行の後は、毎年二回、会報を出しています。
 

松信  

『横浜市の学童疎開』には、326篇の手記が載っていますね。
 

小柴  

疎開した全校が入っているんです。 他の自治体の本ではないことです。 横浜だけです。
 

鈴木  

77校(市立73校、県立1校、私立3校)全部です。 そのほか中華学校とか、横浜訓盲院、横浜市立ろう学校も載せています。

いろんな手記を寄せていただいて、私の場合の疎開は恵まれていたんですけれども、大変な思いをした人がたくさんいるというのを、編集しながらつくづく感じました。
 

松信  

その中で一番印象に残っているのは……。
 

鈴木  

疎開先にお母さんが持ってきてくれた海苔巻に、妹が「おかあちゃん」と呼びかける幸ヶ谷国民学校の生徒の話や、太田国民学校の三年生の男の子の、5月29日の大空襲でお母さんと次女のお姉さん、2人の幼い妹を亡くした話など、読んでいて涙がとまりませんでしたね。
 

小柴  

公的資料の中に幾つか新しい資料も発掘したんです。 一つは、空襲で両親を失った学童、いわゆる戦災孤児の近況報告です。 もう一つは温泉場に疎開した女子児童が当時性病に感染したことが巷間言われていたんですが、それが確実にあったことが証明できたんです。
 

鈴木  

われわれの年代の人たちにとって、疎開は大きな体験だったと思うんです。 それは子供たちのたたかいであったと、本当にそう思いますね。 そういうことが第二次世界大戦中にあったということを伝える、歴史の一里塚というつもりで、この本をつくったんです。
 


   伝えなければならない戦争体験
 
大石  

みじめなことは思い出したくない、嫌なことは忘れたいと思って、ずっと未来志向で生きてきたんですが、このお仕事をお手伝いしようと思ったのは、私にとって二つの事件があったからです。

一つは、関東学院で25年間教職についていまして、昭和50年ごろだったと思いますが、中学一年生に戦争の話をしましたら、「先生、その話は第一次世界大戦のことですか、第二次世界大戦のことですか」って真顔で質問するわけです。 これは大変だ、何とか伝えることをしていかなければと思いました。

それからつい最近、江戸東京博物館の戦争のことを扱っているコーナーで、私の後ろのほうで若い男女が手をつないで、「昔、戦争があったんだって!」と言うんですよ。 それで「そんなにみんなにとっては遠いことなんだ。 これは伝えなきゃいけない」と思いました。 伝えると言っても結局、私ができることは記録していくことしかないんだと思ったんです。
 

鈴木  

私たちが小学生だった昭和14、5年ころの40年前が日露戦争なんですよ。 そのとき乃木将軍とか東郷元帥は、もう歴史上の人物だった。 今は2004年ですね。 1945年に戦争は終わっていますから、60年前なんですね。 つまりわれわれが子供のころ、歴史上の事件としてとらえた日露戦争、日清戦争よりも時間がたっている。

ですから、われわれはついこの間のことと考えていますけれども、現在の人口の大多数を占める人たちが知らないのは当たり前なんです。 その中でこういうものを残していくのは、われわれの務めじゃないかというのが、偽らない気持ちです。
 

松信  

今回のギャラリーについて、ご紹介いただけますか。
 

ゆり  

今回は展示とトークの二本立てです。 展示では、疎開の世代のイメージをいっぱい盛り込んだジオラマを、会員がつくりました。 トークは、会員の他、学徒勤労動員世代の赤塚行雄氏に最新刊のご著書『昭和二十年の青空』(詳細詳細)関連のお話しを伺います。 終戦記念日を挟んでの期間には皆さんにご家族でおいでいただきたいと思います。
 

松信  

貴重なお話をありがとうございました。
 




 
大石規子 (おおいし のりこ)
1935年横浜生まれ。
詩集『学童疎開』 横浜詩人会(品切)ほか。
 
小柴俊雄 (こしば としお)
1933年横浜生まれ。
著書『横浜演劇百四十年』 (私家版)
 
鈴木昭三 (すずき しょうぞう)

1932年横浜生まれ。
著書『不思議な縁』 西田書店1,470円(5%税込)、ほか。

 
ゆり はじめ。

1932年横浜生まれ。
著書『疎開の思想』 マルジュ社2,548円(5%税込)、ほか。

 

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