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有鄰

平成16年8月10日  第441号  P3

○特集 P1   横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱
半藤一利
○座談会 P2   あれから60年 横浜の学童疎開 (1) (2) (3)
大石規子/小柴俊雄/鈴木昭三/ゆりはじめ/松信裕
○人と作品 P5   熊谷達也と「邂逅の森」



座談会

あれから60年 横浜の学童疎開 (2)

 



  ◇5時半起床、朝礼では必ず宮城遥拝と体操を
 
松信   集団疎開先では、どういう生活だったんですか。
 
小柴  
  戦勝を祈って神社参拝
戦勝を祈って神社参拝
間門国民学校・箱根宮ノ下の熊野神社で。
(新井陽一氏提供) ジャンプ約100KB

5時半に起床、6時に朝礼で宮城遙拝[きゅうじょうようはい]と体操をやる。 それから、御製奉唱[ぎょせいほうしょう]といいまして、天皇のつくった和歌を復唱する。 宮城遙拝は必ずやりました。 それから掃除。 6時半に朝食でした。

授業は近くの学校に行くこともあったようです。 12時に昼食で、午後も少し勉強しています。 3時ぐらいから、遊びの時間があって、6時に夕食です。 8時半の寝るまでの間に自由時間がある。 そして三日に一回入浴があるわけです。 これが集団疎開の一日の生活ぶりです。

大石  
散髪  
散髪  
平楽国民学校昭和15年入学の同窓記念アルバム「平楽の丘」から
(田沼菊江氏提供)
ジャンプ約110KB

 
私たちは太鼓の音で起床でした。 そして庭に出て点呼を受けまして、体操や、乾布摩擦をしましたね。 勉強というのは余りなくて、旅館ですから、お部屋に長い机を置きまして、そこで先生が何か教えてくださったり、たまには近所の温泉村の学校を借りまして、そこで授業をしたこともありました。

薪をとりに山に行ったり、行軍といって体を鍛えるために歩いたり、お洗濯や食事の手伝い、ちょっとした時間には、かわいそうな話なんですが、みんなですき櫛でシラミをすくんです。 すると、パラパラパラッてシラミが落ちるんです。 それが自由時間にお互いにすることでした。 シラミは大変な思い出ですね。

鈴木  

横浜は港がありますから、昔からナンキン虫とかシラミは非常に多かった。 だけど、疎開地でそれにたかられた思い出は、みんな共通して持っていますね。
 

松信  

でも、田舎が特別に衛生状態が悪かったというわけではないでしょう。
 

ゆり  

総体的に非衛生的だったということはあると思います。
 


   ひもじくてカキの種をしゃぶりミカンの皮も食べる
 
松信  

学校の先生は付き添っていかないんですか。
 

  疎開先でお菓子を食べる
疎開先でお菓子を食べる
老松国民学校
(ゆりはじめ氏提供) 大きな画像はこちら約76KB

大石  

引率の先生がいらっしゃいます。 それと寮母さんと言って、こちらから誰かのお母さんとか、お姉さんが一緒についてきてくださる。
 

小柴  

一応は、児童100人に対して教師2人、寮母4人というのが建前なんです。 当初は多分守られていたと思いますが、先生でも出征する人がいますから、最後のほうは恐らく守られていなかったと思います。 私の場合でも生徒が30何人だったと思うんですけど、先生1人に、寮母さんは2人ぐらいいたかな。
 

大石  

男の子はひもじいものですから、賄い場に行って何か盗んでみたり、それからカキの種をしゃぶって、それをしゃぶり回すとか、ミカンの皮を食べるとか、男子はとてもひもじい思い出があると思います。
 

鈴木  

集団疎開はとくに、後半になると、非常に食糧事情が悪くなってみんなおなかを空かしていた。 ところが、一部の先生たちは隠れて銀しゃり(白い御飯)を食べていたという話があるんです。 生徒には雑炊を食べさせた。 そういうケースも集団疎開ではあったみたいですね。
 

ゆり  

私は縁故疎開先が秦野で、老松国民学校の集団疎開先が箱根湯本で近かったので、みんなに会いに行こうかということで、二度ほど集団疎開の宿に行ったことがあるんです。 クラスの仲間に食べてもらおうと、落花生とか、サツマイモなんか持って行くんですが、全部先生が預かってしまうんですよ。 それがどう処理されたかわかりませんけれども、うわさとしては、そのような話は大いにあったと思いますね。
 

大石  

でも、旅館の方や先生たちも、子供たちに何を食べさせようかと、とても心を砕いてくださってね。 小田原とか、三浦半島のほうまで買い出しに行ってくださったという話も聞いています。
 

ゆり  

もちろん良心的なところは、ほんとによくしてくれたようですね。 上級生が、箱根の入り口からリヤカーを押して帰ってきたという話もありますしね。
 

大石  

私も宮ノ下の駅に、タマネギの配給があって、それを取りに行ったことがあるんですけれども、もう腐っていて臭うんですよ。 ですから、タマネギを見るとそれを思い出して、しばらくはシチューも、カレーライスも食べたくなかったです。
 

鈴木  

食糧の恨みは一生続きますね。 私はこの年になっても、サツマイモとカボチャが食べられない(笑)。 戦後の食糧事情の悪いときは、それを食べないと生きていけなかったのですから。 一生分のサツマイモとカボチャはそのときに食べちゃったわけです。
 


   集団疎開でも別々に預けられるケースも
 
松信  

疎開には、縁故と集団と、やむなく残留という三つのパターンがあったということですけれども、当時はどれが一番よかったとか楽だったとか、そういうことはあったんですか。
 

大石  

どのかたちでも、また世代によっても、それぞれの体験は違いますね。
 

ゆり  

食糧で言えば集団は厳しかったですね。 集団疎開の先生方は随分苦労されていたらしいです。

縁故疎開は食糧は割といいんですよ。 私の場合も、母の実家でしたから、自由はききました。
 

松信  

両親の実家だったらいいけれども、かなり遠縁に預けられることもあったんじゃないですか。 そこで邪魔者扱いされるとか。
 

鈴木  

親戚のおじさん、おばさんのうちに行った人たちは困ったみたいですね。 一日や二日、遊びに行ったのならお客様ですけれども、ずっといるわけですからね。
 

ゆり  

あと集団疎開でも、出先というか、市町村に預けられた先で分けられちゃう。 山北の奥でそういうことがあったんですよ。 集団生活じゃなくて、1人1人が別々の農家に割り当てられる。
 

松信  

集団で行っても1人1人にされたんですか。
 

鈴木  

西潮田国民学校は、それぞれが個々の農家に預けられたんです。 これは非常に珍しいケースですね。 ほとんどの学校は旅館とか集会所、会館、お寺とかいうところにみんなで行って、集団生活をした。

ただ、一つの旅館では全員は入らないというところが多くて、たとえば私が通っていた戸部国民学校は、箱根の駒ケ岳ホテルと橋本旅館の二つに半々ぐらいずつに分かれたんです。
 

ゆり  

間門国民学校は、奈良屋で全員一緒でしたね。
 

大石  

一緒でした。 日枝[ひえ]国民学校は、男子と女子が、芦ノ湯の紀乃国屋と松坂屋の二つの旅館に分かれていたそうです。
 

小柴  

平沼国民学校も、下中村のいくつかのお寺などに分かれていました。 私が行った小船地区にはお寺も旅館もなかったので、集会所で生活したんです。
 


   学童の生命を救うことは「人的資源の確保」
 
松信  

残留した7,415名のなかには空襲で亡くなられた方もずいぶんいらしたんでしょうね。
 

大石  

私の友だちは亡くなりました。
 

松信  

苦しい思いをしたけれども、疎開をして命拾いをされたんですね。
 

小柴  

それは言えますね。
 

鈴木  

たまたま、きょうの2人は空襲にも遭っているんですが、疎開した時期によっても違うんです。 普通は、受験のために横浜に戻ってきたわれわれ六年生より下の学年で疎開していた人は、空襲は知らないはずです。
 

松信  

疎開先でニュースを知るということになるんですね。
 

ゆり  

遠くから煙を見るとかね。
 

松信  

人命を救うという意味では、疎開は効果的だったということですね。
 

大石  

でも、違う見方もあるんですね。 将来の戦闘要員を確保するため、という目的もあったと聞いています。
 

小柴  

「人的資源の確保」ですね。 それは疎開の一つの要因ですから。
 

ゆり  

あの当時は、軍部が動かなかったら何もできないみたいなところがあって、説得の材料として、人員を確保するために疎開をさせるんだというのがあったわけですよ。 「人的資源」は、当時は普通の言葉だったんです。
 


  ◇中学受験で横浜に帰り、入学直後に大空襲に遭う
 
松信  

5月29日の横浜大空襲のときはどうされていたのですか。
 

ゆり   疎開時六年生でしたから、2月半ばに帰ってきて3月に受験。 入学した途端に空襲でした。 ちょっとしんどい目に遭っています。

5月25日に東京がやられて、野毛山の高台から、東京が赤くなっているのを見て、「きれいだな」などと思っていたんですが、そのわずか数日後に横浜に来たわけです。 すぐそばの野毛山公園が高射砲の陣地になっていたんですよ。 だから集中的にねらわれて、すごい量の焼夷弾が来ました。 初めは周りから燃えてきて、燃えるに従って海からの風が強くなり、我が家があった高台に煙がバーッと吹き上がってきて、強制疎開の空き地に逃げ込んで、周りが焼け落ちるまでいたんですが、この空襲で父親が亡くなったものですから、そういう意味で大変な痛手でした。

松信  

お父様はどこで亡くなられたのですか。
 

ゆり  

一緒にいたんです。 一酸化炭素中毒で息ができなくなったんです。
 

鈴木  

あのへんは崖が多いんです。 そこに横穴防空壕を掘った。 横穴防空壕に逃げ込むと、そこへ煙が来て、それを吸い込んで窒息死というのが随分起こっていますね。
 


   12歳にはショックだった死んだ人々の姿
 
鈴木  

私のうちは西戸部国民学校のすぐ裏手で、空襲がはじまり、周りが燃えはじめた。 中学一年生はもう大人扱いで、消防団に入れられまして、火を消しに行くんです。 コンクリート製の四角い防火用水器から、鉄兜ごとざぶっと水をかぶって、バケツを二つ持って燃え盛る現場まで行って、ジャアーとかける。 帰ってくると、さっきかぶった水が全部乾いているくらい火勢が強いんです。

結局、風向きが変わったこともあって我が家と近所の10軒ほどが奇跡的に焼け残ったんです。 家族がみんな無事を確かめ合ったあと、泥のように寝て、翌朝起きたら、我が家に見知らない、焼け出された人が大勢寝ていたんです。 びっくりしました。 そして、母がまさかのときにと土の中に埋めていたお米を取り出して、炊き出しをし、その3、40人の人におにぎりを振る舞ったんです。 みんな逃げまどって前日から何も食べていなかったんですよね。

学校の帰りに、藤棚商店街で焼け死んだ人をたくさん見ました。 電信柱みたいに黒い棒がいっぱいあると思ったら、人間なんです。 12歳でそういう光景を見るのは大変なショックです。 負けるわけだと思いましたね。
 


  ◇燃えている横浜を見て、家族を心配
 
松信  

小柴さんと大石さんは疎開先におられたんですね。
 

小柴  

ええ。 私は疎開先から見ていました。 小船に白髭[しらひげ]神社というのがちょっと小高い丘の上にあるんです。 横浜が空襲されているということが、多分、情報として入ったと思うんです。 それで、そこから横浜が燃えているさまをじーっと眺めていました。 恐らくその下にはたくさんの人が、私の母と妹もいたわけですけれども、ほんとに心配で見ていたんです。

そして、その夜だったか翌日だったか、仲間の中に両親が死んだ知らせを受けた子がいた。 がき大将みたいな男の子で、それまで元気だったのが、恐らく奈落の底に突き落とされたんでしょう。 急におとなしくなってしまったんです。 私はそれを目の前で見て戦争の惨禍というのを初めて強く感じました。

私の疎開生活は、実際には3か月ぐらいではなかったかと思います。 5月29日の横浜大空襲で2度目のうちも焼かれてしまって、母と妹は生き残りましたけれど、横浜は焼け野原になりましたし、もう爆弾は落ちてこないのだから、どうせ死ぬなら、やはりお母さんのそばで死んだほうがいい、と母親が思って、横浜に早く連れ帰ってきたんではないかと思っております。

それで、焼け跡でラジオから天皇の終戦の詔勅を聞いたことは覚えています。 夜中に米軍の伝単と言いましたか、ビラを拾ったこともあります。
 


   集団疎開からの引き揚げは昭和20年の秋
 
大石   私は箱根にいましたので、大惨事に遭うことなく過ごせました。 家族の者は、町内会でつくった横穴式の防空壕で、火も煙も入ってきたりで大変だったようですけれども、元気でおりました。

一週間ぐらいして父が面会に、横浜の様子を知らせようと思って来たんでしょう。 でも、私の顔を見たとき、目が真っ赤でね、それは空襲のせいだったかもしれないんですけれど、「一緒に帰ろう」と言うものですから、その足で横浜に帰ってきてしまったんです。 そして焼け跡を見せられました。 家があったところは、本当に真っ黒で何にもなくて、ただレコードの塊が蓄音機があったあたりに少しあったり、欠けたお茶わんがころがっているような状態でした。

その跡に米軍がきれいなハウスをつくってしまって、長い間接収から解除されませんでした。

松信  

集団疎開からの引き揚げは、一般にはいつごろなんですか。
 

ゆり  

学校によって違うんですが、大体、20年の秋、10月の半ば過ぎから11月にかけて、横浜へ帰ってきたようですね。
 

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