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平成17年1月1日 第446号 P2 |
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○座談会 | P1 | 武家の古都・鎌倉 (1)
(2) (3) 大三輪龍彦/鈴木亘/高橋慎一朗 |
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○特集 | P4 | 広くて暖かだった縄文の海 松島義章 | |
○人と作品 | P5 | 吉田修一と「春、バーニーズで」 |
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座談会 武家の古都・鎌倉 (2) |
約~KB … 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
◇永福寺は京都を意識して造られた離宮 |
編集部 |
京都と鎌倉の違いというと、いかがでしょうか。 |
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鈴木 |
平安時代から鎌倉時代の初めごろまでは、天皇は公卿と全然別格なんです。 ですから京都では、内裏や御所は、まさに臣下のまねのできない建築なんです。
天皇の権威が失墜しても、非常に大きな屋敷を構えています。 しかし鎌倉の場合は、将軍と言ってもそんなに変わらないですよね。 それは鎌倉武家の特色なんでしょうか。 |
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高橋 |
「鎌倉殿」を、御家人たち、家来の武士がどう見ていたかというのと関係すると思うんですが、天皇家は、一応、建前上はずっと家がつながっていきますけれども、鎌倉幕府の将軍は、源氏が三代で途絶えてしまった後は、摂関家から二代続けて将軍を招き、その後は皇族から招いていて、一つの家が継いでいくという形ではなかった。 したがって「鎌倉殿」は御家人の間では、絶対的な存在というふうには見られてなかったということがあるんでしょうか。 でも、将軍の御所は御家人屋敷とは違う特別な建物であったとは思います。 |
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大三輪 |
京都と鎌倉では、広さが違うということがまず一つありますね。 頼朝には、京都に対抗しようという意識があったんじゃないかと思うんです。 京都から帰ってきたとき、造営奉行を全部京下りの公家にかえるんです。 |
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鈴木 |
初めはやはり京文化を一生懸命入れますね。 |
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高橋 |
最初は京都からまだ人が来ていない段階があったと思うんです。 八幡宮をつくろうにもいい大工がいないので、浅草から大工を連れてきてつくったという話がありますね。
それが次第に幕府の力というか、財力というものも整って、京都からも人を呼べるという段階に移ってくるんじゃないでしょうか。 |
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大三輪 |
義経や奥州藤原氏の怨霊鎮魂だと言っていて、最初の段階はその通りなんですけれども、実際にはお寺と寝殿造が一緒になったようなものです。 |
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高橋 |
すごい庭園をつくるんですね。平泉文化の影響もあるんでしょうか。 |
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鈴木 |
今回の調査で、木製基壇というのがありました。 これは平泉の毛越寺[もうつうじ]の講堂で採用された技術なんです。 |
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大三輪 |
普通は石なんです。 後で石にかわるんですが、最初は木製だった。 |
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鈴木 |
木材で基壇を化粧するんです。 それが永福寺の二階堂と薬師堂、阿弥陀堂に採用されているんです。 その辺も、技術者が京都から来たのかどうかという問題も含めて、なかなか興味のあることなんです。 |
永福寺跡から出土した経塚は北条政子に関係か |
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大三輪 |
そうすると、おのずから絞られてくるわけですけれども、そこまで断言できないで困っているんです。 経筒に銘文でもあればよかったんですけど。
やはり、権力の中枢に近い人間でなければ、あの場所につくることは無理ですよね。 |
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高橋 |
とすると、北条政子が納めたという可能性もあるわけですね。 |
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大三輪 |
ありますね。 |
◇大仏は西から来る人のランドマーク |
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編集部 |
鶴岡八幡宮と大仏の関係はどうなんでしょうか。 |
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大三輪 | この前、海から鎌倉を見てみようということで腰越漁港から船に乗って鎌倉の沖に出たんです。
そうしたら、今、あれだけ家が建っているのに、大仏さんの胸から上が海から見えるんです。 |
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高橋 | すごいですね。 すると、鎌倉に入る船からも大仏の威容が見えた。 |
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鈴木 |
だから、阿弥陀さんだけど、南面にしなければいけなかったんですね。 |
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高橋 |
普通、阿弥陀さんは西方浄土だから東に向くんですけれど、海を意識したら南向きになったんでしょうか。 |
八幡宮の本地は阿弥陀如来で大仏とはセット |
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高橋 |
特に東国では、八幡宮の本地[ほんじ]が阿弥陀ということがありまして、八幡宮とセットでの阿弥陀信仰という可能性はあると思います。 これは本地垂迹[すいじゃく]の考え方に由来するもので、阿弥陀如来が八幡の形になって出現しているというものです。 鎌倉の大仏をつくるときにも、八幡宮で夢のお告げがあったので勧進を始めたという史料もあります。 鎌倉の中心としての鶴岡八幡宮と、大仏は北条時頼の時代になってからのものですけれども、あくまでも八幡宮を中心として、そこから派生した守護仏として西のほうに大仏をつくる。
そういう構想だったのかなという気がいたしますね。 |
◇荏柄天神社本殿は鎌倉時代の建築と判明 |
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編集部 |
鈴木先生が調査された荏柄天神について、いかがでしょうか。 |
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鈴木 |
荏柄天神社は、頼朝が大蔵幕府を開く前からあるんです。 伝承では、頼朝が幕府を大蔵の地に開いたときに、鬼門の鎮守としてあがめた。 位置づけがそこではっきりしてきたんだと思うんです。 初めは幕府の援助がそれほどあったとは思えないんですが、室町時代には、鎌倉公方[くぼう]が行って参籠したり、歌の会をやったりしていますから、かなり援助があったと思います。 後北条氏も修理をやっています。 豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原攻めに来たときに、鶴岡八幡宮と荏柄天神にも行っている。 造営しようという話も出たんです。 そのつながりだと思うんですが、家康が八幡宮造営を援助しようという話があって、実際にそれが始まるのは元和7年(1621年)から8年ごろです。 そのころ二代の秀忠が八幡宮の造営をやって、寛永元年(1624年)にできたのが現在の若宮です。 そのときに若宮の古宮がまだ建っていたんですが、それを元和8年に荏柄天神社に移したという伝承があって、荏柄天神社に、享保19年の由緒書(鎌倉荏柄山天神社由緒書)が残っています。
これは寺社奉行に出したものですから、いいかげんなものではないと思うんですが、それにそういうことが書かれているわけです。 |
内陣・外陣とも古い手法がのこる |
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鈴木 |
その後の沿革を調べてみると、火災や、建てかえた形跡もない。 大正の関東大震災で大分前に傾いたんですが、それをそのまま起こして一部修理して、現在に至っているんじゃないかということで調査をしたんです。 形は三間社[さんげんしゃ]流造ですから、規模はわかりませんが、天正19年の八幡宮の絵図「修営目論見図」に載っている若宮の「御しんでん」と形がよく似ている。 それがまず注目されたんです。 そして、実際に外陣[げじん]に入れていただきましたら、古い時期の、朱漆を塗った扉が外してあって残っている。 漆塗りで非常に丁寧な金具が打ってありました。
それで、私は驚いたんですが、それがちょうど内陣の中央の外開きの扉と、外陣の正面の両わきの内開きの扉なんです。 内開きにするというのは非常に変わってまして、天正の絵図を見ましたら、若宮の「御しんでん」は外陣の扉が三間とも内開きなんです。 そういうことがわかってきました。 内部の天井は内陣・外陣とも小組格天井[こぐみごうてんじょう]で平らです。 これは、八幡宮に残っている丸山稲荷にも用いられている方法で、八幡宮としてはかなり古いんです。 小組格天井というのは、格天井の格板[ごういた]に細かい組子を組み入れたもので、その天井と内法長押[うちのりなげし]の間に小壁がある。
そこに横連子[よこれんじ]がずっときれいにはまっているんです。 そういうことで、これは間違いなく中世の建築物だろうということになったわけです。 |
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鈴木 |
鶴岡八幡宮の若宮の歴史を調べましたら、鎌倉末の正和4年(1315年)の鎌倉大火で上下両宮が焼けています。 正和5年に若宮、それから上宮も再建されるんですが、それがずっと中世を通じて存続して、元和末年まで来ていることがわかりました。 修理は途中で何回かやっていますが、特に大きな修理は明徳3年(1392年)から応永元年、3年ぐらいで、そのときに金具なども全部新調したという記録が残っていますから、事によると、金具などはそのときのものかもしれない。 ですから、現在の荏柄天神社の本殿は、まず間違いなく元和八年に八幡宮の若宮の古宮を移したと考えていいのではないか。 つくりを見ても、垂木の先端の処理なども非常に古いんです。 蟇股[かえるまた]も装飾されて、少なくとも14世紀にさかのぼるだろうと考えています。 柱も全部丸柱ですが、扉を建てるのに使った幣軸[へいじく]という枠が上と左右にある。 これも円弧を描いて非常に古めかしいんです。 それから墨書[ぼくしょ]があります。 ちょうど秀吉の時代に、天正19年の絵図をもとにして、秀吉が家康に、家康の顔を立てるということで修理を命じるんです。
そのときの、天正20年の墨書銘を持った部材が荏柄天神の本殿の[ときょう]に使われていたことがわかった。
そうすると、神奈川県では一番古いものになります。 |
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大三輪 |
円覚寺の舎利殿より古い、1316年ころのものということですね。 |
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鈴木 |
その可能性が非常に強いということです。 |
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高橋 |
「修営目論見図」に出ていたものが、荏柄天神社に残されていたということですね。 鎌倉では、圧倒的に古いものになりますね。 |
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鈴木 |
はい。 古材が小屋組に残っているんです。 鎌倉に残る唯一の鎌倉時代の建築ということになります。 |
鶴岡八幡宮の文政年間の修理は丁寧な仕上げ |
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鈴木 |
寛永に再建された鶴岡八幡宮の現在の若宮は権現造で、中世以来の形をまったく変えてしまっていますね。 建物の配置も変えてしまっている。 八幡宮の文政年間の上宮の修理は非常に丁寧な仕事で、ちょっとほかでは見られない技術ですね。 |
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大三輪 |
時代的に荏柄天神と若宮との間に入ってくるのが丸山稲荷です。 |
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鈴木 |
丸山稲荷もいい建物ですね。 応永5年に新造、明応に修理されたことが明らかにされています。 ただ、文政4年以前に描かれたと思われる鶴岡八幡宮丸山稲荷の絵図を見ますと、江戸末期の建築です。 |
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大三輪 |
建物自体が変わっている。 夷三郎社[えびすさぶろうしゃ]と言っていますね。 |
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鈴木 |
どこからかはわかりませんが、恐らく旧夷社を移築して、丸山稲荷にしたのかもしれません。 |
◇宋元の様式を受け継いだ寺院建築 |
編集部 |
鎌倉では禅宗寺院の建築も特徴的ですね。 |
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鈴木 |
禅宗というよりは、宋元の文化の様式を持っているんです。 中世に入ってきた宋元の建築を受け継いでいるのは禅宗だけではなく、律宗もそうですね。 浄光明寺は、まさに唐様[からよう]です。 それから浄土宗もやはり宋のスタイルでやっていますね。 例えば鎌倉大仏は、まさに唐様だと思います。 それから、材木座の光明寺は、中世までさかのぼると禅宗と同じような、方丈とかいう建物の名前を使っていますから、やはりそういう要素があると思いますね。 それから覚園寺[かくおんじ]とか、京都の泉涌寺[せんにゅうじ]なんかもそうだし、金沢の称名寺も一部唐様の建築が入っていますから、禅宗だけのスタイルではないと思うんです。
禅宗様[ぜんしゅうよう]という名前を今は使っていますが、宋元の仏教を取り入れたところでは、そういう様式が伝わったのではないかと私は思っています。 |
建長・円覚の伽藍は谷戸を上手に使って建物を配置 |
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編集部 |
唐様と禅宗様の違いはどんなところですか。 |
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鈴木 |
鎌倉の禅宗の寺院では、鎌倉時代中期に建長・円覚で伝わったスタイルがずっと守られていきます。 非常に古い様式ですね。 そういう点では、禅宗の建築は、純粋性といえるような特色を確かに持っています。 和様化はなかなかしないんですね。 円覚寺の舎利殿はすばらしいですね。 建長寺も建物は近世のものなのですが、中世の伝統を受け継ぎながら、やや和様化した唐様というのが見られます。 鎌倉独特のスタイルですし、寺院配置はまさに中国直輸入のものです。 |
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つづく |